■第一一七夜:この世界と秘密
「マエストロ、恐らくですがそれは明察です」
“繰り返す動乱の國”だけに限らず、このバラの神殿の内部に封ぜられた可能性世界で起る事象のあれこれには、実際に実在の人物の肉体を傷つけられるほどの密度がないのだ。
密度がないとは、ここでは実在というかリアリティというか、現実の物質ではそれはないという意味だ。
極めて精巧に出来ていて、現実の人間の感覚さえ騙すことができるけれど、実体ではない。
そういう夢幻の類い。
「この世界は実体ではない幻だと。ただ感覚だけは本物だから痛みや味はあるし、それが引き起こす感情も心には働いてしまう。そうマエストロはそう仰るんですね?」
アシュレは深く頷きながら確認した。
「そして、それぞれの可能性世界の登場人物たちにとってはそれは現実と同様に作用する、と。さすがの見識です、巨匠」
アシュレの賛辞に、ダリエリはだろうね、とだけ返した。
彼のなかではこの程度の推理は当たり前のことなのだ。
そこでアシュレはダリエリの推理をさらに推し進めて見せた。
「では、《スピンドル》はどうでしょう? 《スピンドル》と《フォーカス》が生み出す《ちから》は?」
ほう、とダリエリが今度は唸った。
こちらは関心を引いたらしい。
自分の発想の上を行くものにしか巨匠は心を動かされない。
「それは恐らく正しく働くだろう。わたしの研究ともそれは重なる。《スピンドル》は《意志のちから》だと言われてきた。これは各国の騎士団ではすでに定説だし、イクス教会も認めるところだ──教会とわたしの見解はいささか異なるがいまはその話はよそう」
巨匠は指を振り立てた。
「《意志》とは心の働きだ。であるなれば、その心が生み出した現実の物理的なエネルギーは、問題なくこの世界でも実在の人体に影響を及ぼす。もちろん可能性世界を現実として生きる存在たちにも同様に」
ダリエリの推論を聞きながら、アシュレはオルガン世界のことを思い出していた。
あのとき、あの世界の神父:エクセリオスと対峙したアレンとフラウはたしかに闘気衝を使った。
そして、そのふたりを空中に縫い止めたエクセリオスの異能もそうだ。
それだけなら物語世界のなかだけで通じる、見せかけの《ちから》だと言い張れたかもしれない。
だが、直後にエクセリオスはアシュレが放った竜槍:シヴニールの超高熱粒子を受け止めてみせたのだ。
アレは幻ではないし、本来予定されていたはずの物語の筋書きとも違う。
アシュレという実在の人物が物語世界に乱入し、竜槍:シヴニールという実在の《フォーカス》を用いて放った本物の超高熱粒子砲撃だ。
アシュレは頭のなかでバラバラだったピースがカチリと噛み合うのを感じた。
閃きが連続して起った。
問いかけが次から次へと浮かんでくる。
「マエストロ、アナタはこの……“繰り返す動乱の國”のなかで《スピンドル》が振るわれるのをその目で見ましたか?」
「もちろんだとも。何度も、何度もね」
即答だった。
アシュレはアゴに手をやり考え込んだ。
「どうして彼ら彼女ら、つまりこの可能性世界の登場人物たちは《スピンドル》を使えるんだろう?」
「それはあれじゃないのかね。ここが可能性に満ちた……夢みたいな場所だから……どんな荒唐無稽も成立するのでは?」
天才ではあっても《スピンドル能力者》ではないダリエリが、思いつくまま自由な回答を口にする。
アシュレの疑問を受けたのはシオンだった。
「彼ら、可能性世界の登場人物たちが、そもそも異能の側の存在だからなのではないか? この世界では《スピンドル能力者》であると記述されさえすれば、当たり前のように《スピンドル》を扱えるのでは?」
鳥が空を征くのと同じように、魚が水の中で溺れたりしないように。
シオンの言葉にうん、とアシュレは頷く。
納得したのではない。
考えを一段深めたのだ。
「その理屈なら、この世界の食事やお酒がボクらのお腹を満たし、喉を潤してくれてもいいはずなんだ。現実に、本当にね。《夢》だからなんでもできる、《スピンドル》も使える、と本当にそういうのであれば、ボクらの現実と変わらぬほど存在密度に満ちた世界にすることだってできるはずなんだ。《スピンドル》の奇跡は現実の人間に影響を及ぼすレベルで再現できるのに、リンゴを再現できないのはおかしいじゃないか。まずリンゴが再現できなきゃいけないはずなんだ」
でも実際はそうではない。
そうですね、巨匠?
アシュレは念を押す。
ふむん、とダリエリが大きく唸った。
はじめて他者の推論に強く魅かれていることを露にした。
瞳が好奇心に輝いている。
「そこまで言うのであれば、アシュレダウ、キミはもう核心に至っているのではないか?」
突き返された問いかけに、アシュレは不意の痛みを覚えた。
いわれるまでもない。
自覚があった。
気がついたのはついさっきだ。
喉のひどい渇きを覚えて水袋からしこたま飲んだ。
それまで何度もシオンの立ててくれたお茶を口にしたのにも関わらず。
その鮮烈な芳香に、心が洗われるように感じたのにも関わらず。
いや本当はもっと前に違和感はあった。
シオンを/スノウを手折ったときだ。
実感がなかったのではない。
逆だ。
怖いほどによかった。
理想過ぎて震えるほどに。
それなのに貪っても貪ってもいっこうに満たされなかった。
たとえるならこうだ。
ヒトが《夢》を求めるのに際限がないように。
組み敷いても組み敷いても、身のうちにある深い乾きは癒されることがなかった。
そのときは癒えたように思えても、それは錯覚だとすぐに肉体が、心が気付いてしまう。
あれはシオンを構成する半身がスノウであるせいだと思っていた。
だが……。
アシュレは確信に至る。
答えはひとつしかなかった。
ただそれをいま、シオンの前で言うことができなかっただけだ。
勢い、口から出る言葉はすこし抽象的にならざるを得ない。
それでも強い信念を持って言う。
「《スピンドル》はたしかに《意志》の、つまり《心のちから》だ。だけど、その心は肉体という不自由な世界の檻のなかにあって初めて《意志》となる。なぜなら《意志》とはその不自由な世界の檻のなかで、いかに生きるかを自分で決めるちからだからだ」
ほう、ともう一度、ダリエリが唸った。
「そうか、そこまでキミは辿り着いていたのか、青年。脱帽だ。わたしより遥かに高く、深き場所へキミは至ったのだな」
アシュレの見識に敬意を示してダリエリが胸に手を置いた。
帽子を取る仕草、完全に感服したと示すジェスチャだ。
彼は人生のそう短くない期間を魔の十一氏族の謎と《スピンドル》の正体──つまり世界の謎について費やしてきた。
その彼が、この分野における自分の敗北を認めたのだ。
そしてだからこそ子供のように急いてアシュレに話の先を促す。
話を続けたまえ、と。
真実を知りたいのだ、と。
応じて騎士は己の考えを開陳した。
「つまり、この世界だけではなく、壁を隣り合わせて隣接する泡のようなこの可能世界の連なりすべてを俯瞰する場所から、それぞれの世界の登場人物たちに《スピンドル》を使わせるように仕向けているヤツがいる」
いや実際には、ソイツが各世界に託された物語の登場人物たちの《ねがい》に応えて《スピンドル》を使ってやっている、と表現したほうがいいのか。
「なぜだね、なんのために?」
巨匠の問いかけにアシュレは答えなかった。
解答に至れなかったからではない。
いまからその解答を、彼らは体験することになるからだ。
なんのために、どうして《スピンドル能力》を代行して使って見せるのか。
過酷なそれぞれの可能性世界を生きるシオンやスノウやそのほかの女性たちの《ねがい》を叶えてやっているのか。
なによりそのための源泉は、どこで、だれが支払っているのか。
その答えなど、たったひとつしかなかったからだ。




