■第一一二夜:悪党の言葉で
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『許してもらえるなんて二度と思わないことだね』
そうアシュレは囁いたし、そのとおりのことをした。
どんなに懇願しても許してもらえないことが、決して生涯キミを許さないと宣告されてしまうことが、これほどまでに深い歓喜を呼び起こしてしまうのだとスノウは思い知らされてしまった。
秘事を確かめられるたびに、深くいくども痺れるように感じた。
決して馴れることのできない残酷な官能。
いけない娘なんだと熟知されてしまった。
「あとひとつくらい、確かめることはできるだろうか。そのほうが良いだろうか」
だからそうアシュレに問われたとき、シオンのなかのスノウの部分が跳び上がるほどに動転した。
じっさい椅子の上で垂直に飛び跳ねた。
青い茶が卓上にこぼれる。
あられもないほどに手が震えた。
いまここで確かめられたら、何度でも陥落してしまうとわかっていたからだ。
怖くてシオンの声に代弁してもらった。
「あ、あ、あの、そなた、許してもらえぬことはあいわかったし、当然であるし、それについては永劫の奉仕にて償うと誓ったし、その求められるならああ、もちろんいますぐここで応じるし、応じなければ、応じるべきとは思うのだが。そのあの心の準備が、いあ、そうではなくそうではなくてわたしはすでにそなたの所有物であり、どのような酷使も主人であるそなたの自由であり権利であり当然のことではあるが、あいやしばらくしばらくどうかしばらく」
「?」
動揺し赤面したシオンをアシュレは不思議そうに覗き込んだ。
この男、涼しげな顔をしおってからに……シオンもスノウも歯ぎしりするほかない。
左手を添えても、強く握り込んでも、こっちは震えをなかなか押さえられないほどすでにそなたに屈しているというのに。
すこしでも気を抜くと、先ほどまでアシュレによって押された心の焼印が、夜魔の完全記憶を乗っ取って実体験とかわらぬ精度で襲いかかってくるのだ。
普通、夜魔は上位種になればなるほど記憶を統べる術に長けていくから、まずこんな事態には陥らない。
真祖の血を引くシオンであればその統御は、ほぼ完全。
すくなくとも人前で、愛の追憶に翻弄されるようなことはなかった。
これまでは。
その強靭極まりない真祖の血筋に後遺症のように屈服の記憶を刻むほど、アシュレから注がれた愛は苛烈だったのだ。
スノウという半端で未熟な夜魔の血もその脆弱性に加担した。
いまのシオンは初恋に怯える乙女のように、肉体に現れるアシュレへの思慕を隠せない。
誇り高い夜魔の姫でありながら多感な少女でもある彼女には、なす術がもうない。
純白の肌が、さあっと朱に染まる。
これまでに味わったことのない甘やかな屈辱に翻弄され、シオンはほとんど泣き顔だ。
「き、貴様、わたしが逆らえないのをいいことに、いいように玩びよって……」
そんなシオンにアシュレは動揺ひとつ見せず、涼しげに目を細め茶を啜って言った。
「貴様? へー、そういう呼び方をするんだ、ボクのこと。まあいいや。玩ぶのはこれからもっとひどく玩ぶけど、いま言った確かめるっていうのはそうじゃなくて」
アシュレはとんでもないことをこともなげに宣告する。
これが支配者の余裕というやつなのか。
シオンは/スノウは絶句して、唇を震わせることしかできない。
「シオン? 話してもいい?」
「あうあうあ。あ、ああ。つ、続けよ。汚い……汚いぞ、アシュレ」
「こういうのがキミが好きだとわかったから、そうしてるだけなんだけどな」
心外だね、とアシュレはティーカップを皿に戻した。
音さえ立たず。
小憎らしいほど優雅に。
「言うな言うな言うな! ここ、ここだけだぞ、ふたりだけのとき以外にそんなことを口にするな?! だれかに漏らしたら、そなたを殺してわたしも死ぬからな」
「殺すの、ボクを? 殺せるの?」
「ううう、それは……言葉の綾だとなぜわからんのか」
「でもそうか。シオンはボク以外に秘密を知られるのが、そんなに恥ずかしいのか」
ふーん、とアシュレは腕組みしてあらぬ方向に視線を彷徨わせた。
あきらかに悪事を考えている男の顔だ。
「そそそ、そなた。頼む、ダメだ、それだけは。ほんとうに許してくれ!」
シオンは/スノウは蒼白になって膝にすがりつく。
あんなことを暴露されたら、恥ずかしさで心臓が爆ぜる。
「そんなことをしたら、し、舌を噛んで死ぬからな!」
アシュレは驚いた様子で、シオンを迎えた。
夜魔の氏族はたとえどんな下級の存在でも、舌を噛んでは死ねない。
いまのはそれを実感したことのないスノウの生の感覚だった。
おもわず口元が綻ぶのを止められない。
次の瞬間にはもう、いままで通りのアシュレだった。
「ごめん。しおらしく恥じらうキミがあんまり可愛くて、ホントに珍しいから……久しぶりすぎてつい意地悪をしてしまった。いじめたくなってしまったんだ。キミの秘密はだれにも言わない。もしキミの秘密をボク以外に知られてしまったら、ボクは嫉妬で狂う自信があるんだ。誓うよ」
その言葉に一段と頬が熱くなるのをシオンは止められない。
アシュレは優しくシオンを立ち上がらせてくれた。
自分の脚があられもないほどに震えていることよりも、震えてしまう本当の理由のほうにシオンは/スノウは恥じ入る。
ぞくぞくぞくっと、足下から得体の知れない感覚が這い登ってきて背筋から頭頂へと走り抜ける。
膝に力が入らない。
「あ、悪党。アシュレの悪党」
「否定はしない。いまボクが考えていることは本当に悪党の発想だから……」
完全に膝に来てしまっているシオンを元の椅子には戻さず、抱きかかえベッドに腰掛けながら、アシュレは続けた。
じゃらり、とまだ乱れたシーツの上に散らばる枷や縛鎖が寝台のたわみに鳴った。
暖炉の炎が表面に映り込んで、背徳的な輝きを見せている。
容赦ない束縛の数々を思い出して、夜魔の姫が身を強ばらせた。
アシュレの言う悪党の所業という言葉が、また記憶のひだに触れたのだ。
「そなた、まさかまさか。あのっ、あのあのっ」
待ってくれ、とシオンは言葉にできなかった。
アシュレを拒んでしまったあと、どうなってしまったか。
そのとき自分がどうなってしまうのか。
思い出すだけで身体の芯が熱くなってしまう。
「確かめられないか、と言ったのは可能性世界のことなんだ」
だからアシュレがそう言い出したとき、なにを言われているのかわからず潤んだ瞳で彼を見つめ返してしまった。
ぱちくりぱちくり、と瞬きを繰り返す。
自分はまた陥落させられてしまうのだ。
勝手にそう勘違いしてしまっていた。
許してもらえないというのはそういうことだと、どこかで期待してしまっていた。
紅潮が止められず、アシュレの膝上から腕の力だけで飛び退こうとして、失敗した。
勢いに鎖が大きな音を立てた。
アシュレは数秒ぽかんと口を開けたまま硬直し、それから破顔一笑、盛大に笑った。
どんな誤解を自分が与えてしまったのか、理解したのだ。
「ごめんごめん、それは勘違いさせたね。たしかにいまのは悪どかった」
シオンの勘違いと恥じ入り方があまりに可愛らしくいじらしくて、アシュレは笑いを堪えられなかった。
いっぽうのシオンは失敗を目撃され笑われてしまった猫のように、いじけてしまった。
ベッドの隅に逃げたいが、身体にうまく力が入らないのだ。
その仕草が新鮮過ぎて、胸が苦しいほど愛しいと感じてしまう。
だが、このときのアシュレの内心も、外見ほど穏やかなものではなかったのだ。




