■第九十四夜:いばら姫と尋問
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ずきり、と頭蓋の奥が痛んだ。
同じように胸郭も。
その痛みにうめかずに済んだのは、ひとえに鼻腔へと流れ込んできた、あの清々しい薫りのおかげだ。
懐かしいようでいて、それでいて真新しく、愛しさと背徳的な感情──焦燥にも似た狂おしさ。
胸を掻きむしられるような思慕の匂い。
ただ嗅ぐだけで、想いが灼熱の嵐となって逆巻く。
その熱さが、アシュレに痛みを忘れさせた。
「シオン……スノウ……」
瞳を閉じたまま、ふたりの名を呼ぶ。
途端に頬を張られた。
強く、本気で。
思わずまぶたを持ち上げ、瞳を開く。
「ほう、起きたか。帰ってこれたのか」
「う」
「うなされて女の名を呼ぶのはいいが、ふたりとはなんとも不埒なヤツ」
眼前には、あの少女がいた。
銀髪の、シオンにもスノウにも似た容貌も体形も、立ち振る舞いも匂いさえ、ふたりを融かし合わせたような美姫が。
「キミ、は? ここはどこ、なんだ?」
思わず訊いたアシュレの頬に、二発目の張り手が炸裂した。
パンッ、と小気味よい音。
相手の体重が軽いせいでダメージはさほどないが、馬乗りの体勢から繰り出されたそれは力の逃がしようがない。
下が硬い床面だったら、あらかじめ予期して首筋を固めていなければ、頭部をぶつけてしまう程度には威力の乗った本気の一撃だった。
「それを訊くのはわたしのほうだと言っている」
「いや、ひとことも言ってないケド」
三発目が来て、アシュレはすこし学んだ。
暴力でもって伝えたとこの姫君は言うのだ。
これは新しいタイプの反応だ。
よく考えないと、いけない。
「もう一度訊く、オマエは誰だ。なぜここに来た」
それは何度も伝えたはずだ、と思ったが彼女には関係ないらしい。
白魚のように細い指が、アシュレのアゴをガッチリと掴んだ。
信じがたい膂力。
いかに軽々と扱っているように見えても、いや軽々と扱っているからこそ、聖剣:ローズ・アブソリュートを振るうシオンの腕力や握力、全身の筋力は桁違いに凄まじい。
踊り子たちがどんなに可憐で華奢に見えても、己の肉体をまるで宙に舞う羽毛のごとく扱えるのと同じ理屈だ。
ただ巌のごとき力のありようではなく、鋼の糸をより合わせて作られた鞭のごときあり方であるというだけのこと。
この娘がオリジナルであるシオンの因子を引き継いでいるならば、この可憐な肉体が彼女と同じ《ちから》を秘めていたとて、なにもおかしいことではない。
アシュレを見つめる金色の虹彩が、漆黒の瞳のなかで瞬く。
張られた頬に熱を感じながら、アシュレは答えた。
昨夜のやりとりがどうしてなかったことになっているのかはわからないが、アシュレの答えは変わらない。
変えようがない。
変えるつもりもない。
「最初に逢ったとき、言った通りだ……。ボクは、アシュレ、アシュレダウ・バラージェ」
「最初に逢ったとき、だと? 世迷言はそこまでにしておけ。夢で逢ったとでも言うつもりか、不埒者めッ! いいだろう、本当のことを言いたいようにさせてやる」
えっ、と驚くヒマもなかった。
次の瞬間、もの凄い勢いで両腕が上方に引きずり上げられるのを、アシュレは感じた。
思わずカラダに力を込める。
正解だった。
二秒の後、アシュレはそれまで身を横たえていた上等のベッドから、冷たい床面に引きずり出され、吊り下げられていた。
あのままなすがままにされていたら、肩が抜けていたかもしれない。
両手両脚には、少女の掌を象った枷がはまっている。
それは荊の意匠を持つ縛鎖に結わえつけられていて、アシュレを拘束している。
いくつかの滑車がそれを経由して力の働く方向を変えている。
鎖の先はいずことも知れぬ部屋の奥の暗がりへと呑み込まれていた。
少女の掌の部分だけが純金で柔らかく、獲物を傷つけないように配慮されているのが、おかしかった。
さきほどアシュレが少女の手打ちの数々を一撃たりと防ぐことさえできなかったのは、これが理由だった。
自由は奪われていたのだ。
あらかじめ。
あまりの展開に混乱した頭で、アシュレは必至に状況を整理しようとする。
シオンとスノウを探す旅の途中、遺跡の泉で彼女に逢った。
その姿を追うように、ノーマンとアスカをエスコートとして、バラの神殿に辿り着いた。
長い階段の果てに用意されたエントランスで、再会した。
そして、胸を貫かれた。
得体の知れぬ、少女の胸から突きだしたモノに。
あのとき、この娘は泣いていた。
来てはダメだ、と。
せっかく切り離したのに、と。
それでいま、ボクは拘束されて吊り上げられている。
展開の跳躍にまた混乱する。
気を失い拘束され頬を張られて尋問じみた詰問を受けるまでの間、いったいなにがどうなった?
ダメだ、全然わからない。
アシュレの肉体はいまや、つま先立ちでようやく地面に触れられるギリギリの高さで固定されている。
全体重が両肩にかかる、いわゆる拷問のため姿勢。
両肩への荷重に筋力で抗いながら、己の肉体を改める。
武装は完全に解除されている。
上半身は裸。
下半身は脱衣が免れているが、靴はない。
剥き出しの胸郭には、ためらい傷のような新鮮な傷跡がいくつも走っている。
それよりも、まるで焼印のように心臓の上に残された巨大な傷跡は……?
「もう一度、訊く」
視界の及ばない背後から、鞭を手にした少女が現れた。
イクス教で異端とされた鞭打ち派(注・贖罪を鞭打ちによって現世で果たそうとする一派。自傷行為と結びついた教義が過激化し、ついには陰惨で淫蕩な儀式へと発展したため、法王庁が異端に認定。表向きは禁止された教派である)の者たちが使うような、短く幾重にも枝分かれしたその鞭は先端に小さな星形の棘が埋め込まれおり、犠牲者の肌を効率良く切り裂く仕様だ。
「オマエは、だれだ」
また訊かれた。
ごくり、とアシュレは唾を呑み込んだ。
これまでの経緯もある。
対応を誤れば、少女は容赦なく手元の得物を振るうだろう。
だが──。
「何度でも言う。ボクはアシュレだ。アシュレダウ・バラージェ。そしてキミはシオンだ。シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ……ガイゼルロン。夜魔の姫、暗黒時代を切り拓き、人類に光明をもたらした九英雄でありいまは真祖と成り果てた医術王の娘。叛逆のいばら姫。ボクの、愛しいひとだ」
カッ、と少女の瞳が朱に染まるのが比喩ではなく、見えた。
昨夜と同じ、夜魔の赫怒。
間髪入れず、鞭が嵐を思わせてアシュレを嬲った。
ドッ、ドッ、と泥土に打ちつけるような音がする。
血のあとが、まるで絵筆を叩きつけたようにアシュレの表皮を剥ぎ取り、肉片をこそいで、胸板に、床に、倒錯的な絵画を描き出す。
そのたびにアシュレの肉体は宙で跳ね、軋んだ。




