■第八十七夜:抱擁と狼狽と
「だれだ、とは不躾な。貴様が名乗れ」
予期することなど出来ようもない夜魔の姫との遭遇。
不浄王との戦いでも経験したことだが、貴種として当然の解答が返ってきた。
もちろんそれはアシュレも予想していたことだ。
百も承知でそう訊いた。
名を聞き返してくる相手は、交渉のテーブルへ着いてくれる可能性が高い。
こちらに興味があるという証拠だからだ。
本当に相手が上位夜魔で、真剣に許す気がなければ、アシュレはもう死んでいる。
それにしてもこういう反応までシオンにそっくりだと、アシュレは思う。
「失礼した。ボクはアシュレ。アシュレダウ・バラージェ。かつてはエクストラム法王庁の聖騎士だった、現在は故あって離反した。あなたに敵意はない」
言いながら、アシュレは武器を手放した。
ガロン、グワン、と竜槍:シヴニールと聖盾:ブランヴェルが石畳に音を立てる。
だが、少女の表情は一気に険しくなった。
疑うような試すような瞳。
その仕草がどうにもスノウにしか見えない。
疑り深くなってしまった猫のような、どこかに愛らしさを潜ませた表情。
ただ、アシュレにはなぜこんな表情を自分の返答が引き出してしまったのか、それがわからなかった。
正直に語った。
武器も手放し、害意・敵意のないことを示した。
では、聖騎士という単語か。
たしかにそれは夜魔たちにとって仇敵を意味する。
しかし、その部分をぼかしては彼女を騙し討ちするようなものだ。
それはできないことだった。
ただ、相手が教養ある貴種であればあるほど、あえてその部分を正直に告げた意図は伝わるはずだ。
現実に武器を手放すという行動と合わせれば、誠意の現れだと分かるはずだ。
ではなぜ、表情を険しくする?
悩むアシュレに、彼女の口から答えがもたらされる。
「貴様……戯れ言を抜かすな」
低く抑制の利いた声色で言われた。
彼女本来の声音ではない。
己の内にある巨大な感情を押さえ込んでいる。
そう感じる。
その感情の名は怒り。
憤怒だ。
突然、アシュレは自分が岐路に立っていることに気がついた。
この解答を誤ると、取り返しのつかないことになる。
一瞬、いくつかの返答案が脳裏を過った。
小細工や策略を含んだ答え。
しかし、アシュレはそれを振り捨てた。
彼女に嘘やごまかしは通じない。
なぜか確信があった。
「戯れ言ではない。ボクは真実しか話していない」
断言した瞬間だった。
カッ、と少女が口を開いた。
舌苔の欠片もない鮮やかな桃色の舌と、真っ赤な口腔が目に飛び込んできた。
そしてキレイに生えそろった犬歯が、ずぬり、と伸びる。
「訂正せよ。いまなら死にかける程度で許してやる」
目が赫怒に燃えていた。
紅い。
比喩ではない。
怒りに燃える瞳、長く伸びた犬歯。
もう間違いない。
彼女は夜魔の血統、それも貴種も貴種。
真祖の血筋に連なるものだ。
だからといって、アシュレは真実を曲げる気にはならなかった。
「訂正は、ない。ボクがアシュレダウ、アシュレダウ・バラージェだ」
堂々と胸を張ったアシュレに、怒り狂った少女が飛びかかってきた。
割って入ろうとしたアスカを留めたアシュレは、その跳躍をもろに受けて地面に倒される。
「ぐっ」
騎士の受け身の技で頭部を打ちつけるのだけは免れたが、衝撃はかなりのものがあった。
そこに、意識するより早く、少女の体温と体臭がのしかかってくる。
「警告はしてやった。それを無にしたのは貴様だ」
ハアアアア、と熱い息が無防備な喉にかかった。
「アシュレッ!」
「来るな、アスカ。黙って見ているんだ、頼む!」
「ほう、援軍を拒むとは良い度胸だ。しかし、これはどうかな?」
少女は躊躇なくアシュレの首筋に歯を立てた。
鋼のナイフより鋭い牙が、頚動脈に押し当てられ、穴の開いた皮から血が滲む。
どうだ、訂正するか?
無言でそう問われた気がした。
アシュレは返答のかわりに、彼女を抱きしめた。
頭をかかえるようにして、首筋に導いてやる。
「なっ、ななああああっ────」
飛び退いたのは少女だった。
一瞬でぬくもりが消えたかと思うと、手触りさえなくなった。
ばばっ、ばばばっ、と瞬くように現れては消えながら大きく間合いを取る。
影渡り。
夜魔たちが使う短距離転移の異能。
起き上がり追いすがろうとしたアシュレを、狼たちの唸り声が阻んだ。
肝心の少女はなぜか蒼白になって、震えている。
驚愕に見開かれた瞳にはもうあの怒りの色はない。
「なぜだ……なぜ、なぜ……」
信じられないと首を振る仕草は、堪らなく不安げで折れてしまいそうだった。
「なぜだ。なぜ貴様……あの方の匂い、この血の薫り……どうしてカラダが……胸がこんなに……熱い? 苦しい?」
わけがわからないのはアシュレも同じだった。
どうして彼女を抱きしめてしまったのか。
ただ、無理矢理にでも答えを探れば、それはたぶん匂いがしたからだ。
まだすこし未熟な桃と、清冽な青きバラの薫り。
それが新鮮なミルクでひとつにまとめられている。
それを嗅いだとき、アシュレのなかの古い部分、根っこの部分が反応したのだ。
「まってくれ、キミの名を、キミのことを聞かせてくれ!」
後退り距離を取ろうとする少女に、アシュレは追いすがった。
すかさず狼たちが立ち塞がる。
ガルウウウウウウ、グルウウウウッ。
牙を剥き出し、唾液を垂らして狼たちが威嚇してくる。
だが、アシュレにはもうそんなものは目に入らなくなっていた。
「シオン! スノウ! どっちなんだ?! それともふたりともなのか?! 答えてくれ!」
呼びかけられた夜魔の少女は、びくり、と身を強ばらせた。
抱きしめた一瞬で感じた肉体の印象では、アシュレには見分けることができなかった。
どちらにもよく似ていたからだ。
返答はない。
ただ壊れてしまいそうになった瞳が揺れていて、小刻みに首が振られるだけ。
痛むのか、胸を強く抑えて身をかがめる。
立場が完全に逆になっていた。
ついに追いつめられた少女が身を翻す。
「まて! まってくれ! せめて名前を! キミの名を教えてくれ!」
だが、アシュレの叫び虚しく、少女は狼狽した表情のまま影渡りを駆使し、狼たちとともに疾風の速さで行ってしまった。
「キミは……だれなんだ」
『我が名はシオン──シオンザフィル。アシュレダウ……なぜだ……あなたはだれなのだ……』
うめいたアシュレの耳元で、声がした。
まるで風が木の葉を揺らして生み出したような音だった。
「シオン?! シオンなのか?!」
『来るな、来てはいけない。探さないで……忘れて……』
思わずアシュレは宙に手を伸ばして声を捉まえようとした。
だが、もうなにも聞こえない。
まるで幻聴だったかのごとく、なにも……。
指先が虚しく宙を掻く。
「アスカ、聞いたかい、いまの?」
アシュレは振り返って問うた。
危機を逃れた安堵からか、頽れた遺跡の壁に座り込んで足を投げ出したアスカは、首を振るばかり。
なにをどうしたものか、どうやらいまの声はアシュレにだけ聞こえるように調整された異能の効果らしい。
「シオン……」
アシュレは、彼女の消え去った方角を見やった。
その足下には、話に聞いた舗装されたあの道が整然と伸びている。
そして、呆然とする騎士の頭に、ぽとりとなにかが落ちてきた。
タイトルが間違えてまんたw
なおしました!




