■第一〇三夜:戦いを天に見て
※
「外ではどれくらいの時間が経過したのか。ぜんぜんわからんな、ここでは」
暗闇を駆けながらアスカはつぶやいた。
疾風迅雷の加護を駆使して風のように地下迷宮を走り抜ける。
柱廊の林に身を隠しながらも速度は落とさない。
さいわいにも、ここまでの道程で敵との遭遇はない。
周囲の建築物は目も醒めるほど美しい青色のタイルで装飾されており、アスカにあの水底の蛇の神殿を思い起こさせた。
いや、あるいはあの神殿の深部で出逢った司書女が言ったように、もともとヘリアティウムの地下図書館とは蛇の巫女たちの管理する領域だったのかもしれない。
であればシドレラシカヤ・ダ・ズーがアスカを導いてくれた道理も通るというものだ。
「っと、上り階段か」
いくつ目だろうか、眼前に現れた長い上り階段にアスカは思わず声を漏らした。
腰に下げていた水袋から一口、二口と含む。
携帯していた食料のなかで海水に侵されず無事だったナッツや乾燥果物を少量、齧る。
いまさら上り階段ごときで驚いたわけでも、臆したわけでも、むろんない。
そのような段階をすでにアスカは超越している。
問題はいま眼前に見えるそれが、これまでのものと……正確にはここまで通過してきた蛇の神殿とは様相が明らかに異なっていることだった。
それをなんと表現すればいいだろうか。
あえて言葉にするのなら、それは悪魔の舌のごとき様相を呈していた。
色彩だけは真っ白だが、それがよけいに細緻に刻まれた生物的ディティールを際立たせている。
おぞましい深海の生き物を塗りこめられた石材──いや化石か。
そう表現するしかない継ぎ目のない素材が、蛇の神殿の秩序立った構造を突き破って、そこにはあったのだ。
寄生、という単語がアスカの脳裏を掠める。
異質だが貫かれた美意識によって構成された蛇の巫女たちの神殿に、アスカはこれまで共感と敬意を覚えてきた。
いっそ、その趣向は好みと断言してもよい。
だが、いま眼前に垂れ下がる階段から感じるのは、おぞましき嫌悪感と全身が総毛立つような感覚──底知れぬ恐怖だ。
この上層に待つ構造部は間違いなく、いまアスカが駆けてきた古代の蛇の神殿を侵食し、癒着するようにして進入口を穿ったのだ。
そのありさまにもうひとつ浮かんだ単語があったが、こちらはさすがに思考の端に上らせることさえはばかられた。
これほどの嫌悪と恐れは、アシュレとともに赴いたトラントリム攻略戦のあの最終局面でしか味わったことがない。
アスカは無言で宝剣:ジャンビーヤを引き抜き悪魔の舌のごとき階段の俎上に足をかける。
一歩一歩踏み出すごとに上層から吹き出す瘴気のごとき圧が増していく。
間違いなくこの先に強大な敵が待ち受けていることを確信しながら、それでもアスカは歩を進めた。
迷っている時間など、もうどこにもないのだ。
※
『そこな天を行く乙女よ。翼ある乙女よ! 御身は真騎士とお見受けする! されば聞け! 我ら騎士が、騎士と名乗る語源ともなったといわれる天空の乙女よ──真の英雄を求める貴女がたが、なぜこのような虚しい言葉を弄される。人心を乱し、姑息な勝利を拾おうとなされる? 真の勝利は正々堂々の戦いによって捥ぎ取られよ! ゆえに我は貴女に挑戦する! 我が挑戦を受けるべし!』
天から馴染みのある声が降ってきたのは、アスカが階段を上り切り、これまた醜悪としか言いようのない彫刻が施された上部構造の柱廊部分へ身を潜めたときだった。
思わず天を仰ぐ。
するとアーチ状になった天井部分いっぱいにヴィジョンが投影された。
「アシュレ……オマエ、なにをやっている」
あまりのことにアスカは呆然とつぶやいた。
天穹の様子から時刻は夕暮れであろう。
加えられた砲撃による煙をたなびかせて立つ城壁を背景に、漆黒の重甲冑とストールを纏って馬上にある男はだれがどう見てもアスカのよく知るアシュレダウだった。
決意に引き締められた眉も頭髪も黒く染められていたが、文字通り自身の深奥にまで立ち入ることを許した男のことを見間違えるような女はいない。
「一騎打ち……戦おうというのか、真騎士の乙女たちと」
アシュレの呼び掛けの意味を理解し、アスカはつぶやく。
そして、その理解の通り、ひとりの戦乙女が輝ける翼をはためかせながら、天井のスクリーンに現れた。
「レーヴスラシス・シグルーン。間違いない。黒翼のオディールに付き従っていた真騎士のひとり。ヘリアティウムの城壁にかけられていた結界のほころびを突いたのか」
アスカの記憶に間違いはない。
かつて一度だけ相まみえたことのある真騎士の乙女のことをアスカはたしかに憶えていた。
「しかし、一騎駆けとは。勇敢さと高潔さ、そして武勇を尊ぶとかいうワリには、オディールの取り巻きどもはヒトを見下し策略に走る連中ばかりだと見ていたのだが……いたのだな、やはり猪武者が」
敵中ど真ん中というか本陣にたった一騎で斬り込んでくるというのは言うまでもないが相当の胆力である。
言い方が汚いがクソ度胸と言い換えた方が分かりやすいか。
そんなことを考えているウチにも始まった超技を駆使する戦いに、アスカは見入りそうになって慌てて自分を制した。
「それにしても、いったいどういうからくりだ。いやまさか、これが魔道書:ビブロ・ヴァレリの《ちから》の一端だというのか。だとすれば、なんと凄まじいものだ」
その気になれば全市を一望にすることもできるだろう凄まじい能力に、アスカはあらためて魔道書──いいや、オーバーロード:ビブロ・ヴァレリの《ちから》の強大さに震えた。
しかし、意識はそちらより愛する男と真騎士の乙女の戦いに釘付けだ。
ちょうど場面は四つ子の塔での攻防に差しかかっている。
宝剣:ジャンビーヤを握る手に、アスカはびっしりと汗をかいてしまう。
胸が高鳴って、苦しいほど切ない。
「いかんいかん、見惚れている場合か」
愛する騎士の男ぶりに胸が締めつけられてしまうのは、完全に惚れている証拠だ。
そして、そこまでわかってしまう自分がなぜか悔しいのは、たぶん別れの前夜、徹底的に秘密を暴かれてしまったからだろう。
それに、
「なにかいま、よけいなところにも粉をまかなかったか、あの男は……」
アシュレからのタックルを受けて墜落したあとのレーヴの反応、さらにそれを受けてのアシュレの反応に、アスカは頬を引きつらせ眉根を寄せた。
「これはなんとしても正妻会議での説明が必要だな」
死力を尽くし戦っていることには間違いないが、その一方で恋い慕うように絡まり合い攻防を繰り返すふたりに、アスカは胸の内でめらと炎が翻るのを覚えた。
そのためにもアテルイを救出し、全会一致で糾弾せねばならぬ、と決意を新たにする。
それから、またこのおぞましき地下迷宮の深部を目指した。
自分とアテルイの間に結ばれた縁──それはもう偶然ではありえないほどに強い結びつきを信じて。




