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■第九九夜:蛇は尾を食む


 

 打ち寄せるおだやかな波が、ゆるく頬を撫でる。

 引く。

 撫でる。

 引く。


 その感触が、アスカを覚醒に導いた。


「どこだ、ここは……」


 アスカリヤは見知らぬ浜辺で目覚めた。

 奇妙に薄明るい空に、やけにくっきりとした雲、その果てにわだかまる闇。

 それらが壁面に描かれた画だと気がついたのは、たぶん、あの蛇の神殿の底で同じく宇宙観の壁画を目にしていたからだろう。


 くっ、と小さくうめいてアスカは砂浜から体を引きはがした。

 あり得ないほど真っ白な砂粒には粘性がまるでない。

 数歩、踏み出したところで両脚を成す告死の鋏:アズライールが骨片を踏みつぶした。

 アスカはそれで理解する。

 この砂粒はすべて骨だと。

 珊瑚がその死骸で砂浜をこしらえるようなものだ。

 だが、これは珊瑚ではない。

 なにか巨大な生物の骨の一部だ。

 踏み砕いた骨の欠片からアスカは直感した。


 そしてその答えは、すぐに知れた。

 十数歩といかぬところに、その巨大な生き物が死骸をさらしていたからだ。


「シドレラシカヤ・ダ・ズー……なぜだ」


 なぜだ、とは奇妙な問いかけだった。

 頭部を大きく穿たれ、割り裂かれた大海蛇の死に様は、ほかでもないアスカが繰り出した告死の鋏:アズライールの威力が導いた結果だ。

 しかし、アスカはあの攻撃をシドレが受けたのはワザとであると確信していた。

 なにかどうしても、アスカに伝達せなばならないことがあったからだ。

 だから、なにかしら一計を案じて、ワザとアスカの一撃を受け止めたのだと解釈していた。


 それなのに。

 いまや頭部だけだけではなく首まで裂けた大海蛇の肉体に、色とりどりの小魚や真っ白なカニまでもがたかり、一心不乱に彼女の死骸を食んでいた。


「やめろ、やめろっ」


 自分でも理解できぬ感情に突き動かされ、アスカは小魚の群れを蹴散らし、カニどもを手で払った。

 波に洗われ、もう冷たくなりかけているシドレラシカヤ・ダ・ズーの巨体を撫でさする。


「なぜだ、なぜ……なぜ」


 オマエはわたしになにか伝えたいことがあったのではないのか。

 そのためにこのような危険を互いが侵したのではないのか。

 それなのに、それなのに。


 激情のまま心中を吐露とろするアスカの瞳から熱い滴が何滴も落ちる。


「なぜ、泣く。オズマドラの皇子……いいや、姫御子よ。まだ、我が命は絶えたわけではないぞ」


 突然、離れた場所から呼び掛けられ、アスカは身構えた。

 慌てて涙を拭う。


「そう身構えるな。こっち……こっちだ。手を貸せ。いまのわたしは《ちから》をほとんど使い切ってしまった状態だ。起き上がるのさえおっくうでな」


 アスカは声に導かれるまま、波打ち際からすこし奥まった砂浜に視線を流した。

 と、そこには無垢な裸体をさらす少女が横たわっていた。

 彼女を彩るのは唯一、その胸に穿たれた傷跡から流れ出る血潮だけ。


「シドレ、なのか?」

 最初は戸惑ったように、それから確信を得て駆け出して、アスカは少女の傍らに膝をついた。

「それ以外のなにに見える?」

 アスカの問いかけに少女はしんどそうに、まぶたを閉じ、片目だけ開いて答えた。

 もう片方の瞳は失われていて開くことはできない。

 間違いない、この少女こそは蛇の巫女:シドレ以外のなにものでもなかった。


「貴様、生きていたのか」

「まだなんとか生きている、というのが正しい。すんでのところで致命傷を避け、脱皮によって死を欺くつもりであったが……さすが告死の鋏:アズライール、甘くはなかったな」

「なん、だと?! 脱皮?! どういうことだ?!」

「矢継ぎ早に喚くな。言っただろう、死にかけていると。時間がない。答えは要点だけに絞るぞ」


 シドレの言葉にアスカは慌ててハンカチーフを取りだし、海水を絞ってから傷口に当てる。

 無駄なことを、とシドレは嗤ったが抵抗は見せなかった。


「なぜだ、なぜ、あの攻撃を躱さなかった。なぜワザと直撃を受けた」

「要点だけに絞る、と言ったはずだがそんなことが聞きたいのか。簡単なことだ。魔道書グリモアにして世界最古参のオーバーロード:ビブロ・ヴァレリにかけられた過去を暴く呪い、そして我が肉体を操るチェスボード、魔具:オラトリオ・サーヴィスの呪縛から逃れるために、だよ」


 死を装うと言っただろう、とシドレはまたおっくうげに片目を閉じては開いた。

 蛇の巫女の言葉の意味を理解して、アスカは息を呑んだ。


「その身を操る魔具の呪縛。そして、ビブロ・ヴァレリの呪い。アシュレたちが言っていた“しおり”のことだな。シドレ、貴様はそんな呪いにがんじがらめにされながら……わたしに接触を図ってきたのだな。大事を伝えるために」

「“しおり”とは、ふふ、なんとも詩的な表現だが、そのセンスは嫌いではない。そうだ、オズマドラの姫御子よ。そのとおりだ。肉体の一部を得ることで他者を操るオラトリオ・サーヴィスから逃れるには、肉体そのものを捨てねばならなかったし、ビブロ・ヴァレリの“しおり”もまた──」

「その存在の死滅が解除の条件」


 そうだ、とアスカの言葉にシドレは頷く。

 よく調べたな、とまた嗤う。


「貴様が託してくれた蛇の瞳が、その知識に、神殿の地下に眠る古代のライブラリにわたしを導いてくれた。ありがとう」

「礼など。お互いを利用したのだ。おかげでわたしも忌まわしき監視網から逃れる術を得ることができた」

「それは……どういう意味だ」

「わたしもまた、知識を得ていたのだよ、アスカリヤ。オマエの目を通して」

「なん、だと……」

「わたしがオマエにただで我が瞳をくれてやったとでも思っているのか、バカめ。我ら蛇の一族が巫女と呼ばれるのはなぜか知らぬのか。それは水鏡を使い、世界のあらゆる場所の事象を正確に捉える術を持つからよ。予言の《ちから》に匹敵する、現在を見通す権能ゆえよ」

「どう、やった」


 監視下にあったことを告げられ狼狽するアスカに、横たわる蛇の巫女は笑みを広げた。

 

「我が瞳の片方を触媒に、アレが崩れ落ちる瞬間、オマエの瞳と我が瞳とを繋いだ。あの神殿内部は特殊な空間だ。オマエたち人間が不可知領域テラ・インコグニタと表現する場。そこにはいかなる探知能力も届かない。ただひとつ……神殿とそこに納められた知識の管理者たる蛇の巫女の血族だけは例外としてな」

「では」

「そうだ、オズマドラの姫御子。わたしもオマエの得た情報に助けられた。そして、やはりというか。ビブロ・ヴァレリが知ることができるのは不可知領域テラ・インコグニタの外での出来事に限られる。それも人間の精神のあり方や心を通じ合わせた結果、知り得たものは、その探知能力の対象とならぬのだ」

 間近でヤツの権能ちからを見たとき抱いた疑念・推察が、あの瞬間、確信となったのだ。


 憔悴を隠せぬながらに凄みある笑みを浮かべて言う蛇の巫女の執念に、アスカは畏敬の念を覚えた。



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