■第八五夜:黒騎士
そうであってくれと期待しつつも、なかば諦めていた相手との遭遇に、レーヴは胸を高鳴らせながら都市の上空を旋回し、男の姿をあらゆる角度から値踏みした。
背丈はまあまあ。
騎士としては小兵だが、目に宿る光が強い意志を感じさせる。
声の調子とストールの隙間からうかがえる肌のきめ細やかさから、もしかしたら十代の若者であろうか。
勇敢さだけは間違いなく満点。
だとすれば自分がこれから正しく導いていけば、立派な英雄となり得るかもしれぬ。
あるいは恋人としてさえも、とレーヴは思う。
もちろんそれだけではない。
なにより、すでに男は凄まじい才能の片鱗を垣間見せていた。
レーヴはそこに強烈に惹きつけられた。
たとえば彼の跨がる騎馬の足場に答えはある。
そこは屋根の上などではなかった。
空中。
どういう仕掛けか、あるいは異能かわからぬが、黒騎士は本来ならば人類には留まることの叶わぬ虚空に立っていた。
それはまるで真騎士の乙女である自分の十八番を奪うがごとき振舞いである。
たったそれだけのことだが、自分という存在に対し言葉以上に挑戦されたように、レーヴは感じた。
だから応えたのだ。
「面白い男だ。よかろう、挑戦に応じよう。しかし、一騎打ちとは正々堂々、名乗りを挙げて行うのが礼儀──まず挑戦する側が名乗るのもであろう」
尖塔のひとつに止まり、翼をたたんだレーヴは騎士を見下ろして道理を説いた。
真騎士の乙女たち特有の装飾的な戦装束が、海風にひるがえる。
しばらくあって騎士も応じた。
なにか思案するような、間。
それから静かに言った。
「故あって名乗ることはできない。だから、こう呼んで欲しい──黒騎士と」
あんまりな騎士の返答にレーヴは一瞬あっけにとられ、次の瞬間、爆笑していた。
見たままではないか、と。
しかし同時にまたも面白い、と思う。
繰り返しになるが人類社会における黒騎士とは不名誉の証、その呼び名である。
それをまさか、そのまま呼べとは。
海も陸も制圧された、あとは滅びるばかりの国を背負って戦おうなどと、まずその段階で賭事にもほどがある。
武勲を立て、己が名を上げ恥を雪ごうというのにしても、あまりに分がない選択であろう。
あるいは、そこまでせねば取り戻せぬ恥ずべき行いを彼は犯したのか。
どうあれ、名誉を取り戻そうというのであれば、まず名乗りを挙げて、天下に己が存在と主張を知らしめねばならぬはず。
なのにこの男はわざわざ「黒騎士と呼べ」ときた。
これはたとえるなら「自分のことは不能と呼べ」と言い放ったに近い。
さらに回復させるべき名誉などない、と断言したのである。
名乗るべき名もない。
回復すべき家門もない。
そして、主張も。
そこにレーヴは興味を持った。
つまりこの男は己の名誉のためではなく、ましてや失われた地位や財産を回復させるためでもなく、もっとちがうなにかのために戦おうとしている、ということだ。
もしこの都市の民衆を救おうと考えているのであれば──極めて考え難いことだが──こうしてさんざん挑発しても弓ひとつ射掛ける勇気さえもたぬ腰抜けどもを助けようというわけだ。
それはなんの意味もない、なんの見返りもないことだ。
すくなくともレーヴにはそう思える。
ゴミを救いたいというのに等しい。
だが、それでいい、と此奴は言うのだ。
だとすれば、わざわざヘルムを排しておいて顔をストールで隠すという行為にも意味があるのではないか。
あくまで匿名でありながら、民を救いたいと、この男は言うのだ。
そんなことをする男は大馬鹿者か、正義の味方のいずれしかおるまい。
奇しくもそれはレーヴが抱いた第一印象とぴたり、と合致していた。
なるほど、と知らずレーヴはつぶやいていた。
「黒騎士と呼べ、ときたか。おもしろい。いいだろう、黒騎士。キミの挑戦を受けよう」
かちゃり、と銀の籠手を鳴らして騎士を指さす。
ついては、と続ける。
「ついてはキミの挑戦に対してなにを賭けるか、だが……」
レーヴの言うようにこの時代、無意味な一騎打ちは、まず存在しない。
だいたいにおいて、一騎打ちとは全軍の衝突のかわりに行われる、いわば代理戦争であったのが常識の時代だ。
だから尋常の勝負とは、常に賭けの対象とともにあった。
「さていかにすべきか」
レーヴは降って湧いた楽しみに、細いアゴに手を当て小首をかしげて見せた。
わざとゆっくり思案する。
相手の出方を見たかった。
その答えで相手が計れる気がした。
そして、その思惑通り、レーヴを差し置いて黒騎士が己の要求を突きつけた。
「わたしの望むことはただひとつ。この都市から手を引いて欲しい。オズマドラに加担するのをやめ、貴女たちの世界へ──霧に守られたアヴァロンへと帰って欲しい」
あまりに直截な物言い。
ハ、とレーヴは笑ってしまった。
嘲りにではない。
彼の、黒騎士のまっすぐな性根をそこにかいま見てしまったからだ。
それは戦場という地獄のなかで、思いがけず清涼な空気を嗅いでしまったときのヒトの反応に近かった。
なぜなら先んじて己の要求を口にするというのは、最大の弱みを相手に教えることだからだ。
すこしでも駆け引きをする気があるのなら、まず口にせぬことだ。
そのせいだろうか。
応じるレーヴの口調は自分でもびっくりするぐらい優しかった。
「それはなかなかの条件だ。悪くないぞ、黒騎士殿。しかし我らの行動規範は、真騎士の一族の決定とともにある。いまキミが口にした条件、その約束はわたしの権限を超える。たとえるならキミがキミの一存では、この都市の命運を賭けることができないように」
皇帝でも、この都市の総督でもないキミでは、わたしの真に欲するものは賭けられないように。
「もっともキミが負けた瞬間に、この都市は、わたしたちの手に落ちるわけだが」
キミがキミの願望を通すには賭け金が足らないぞ、とレーヴは笑いながら言った。
「となると、だ、黒騎士殿──どうするね?」
「では──どこまでなら呑める」
賭けにならぬと言われて、黒騎士は硬い言葉で食い下がった。
表情に苦渋の色がある。
ますます好ましい、とレーヴは思う。
この男は本気で、いままさに落ちんとしているこの都市:ヘリアティウムの民を護ろうとしているのだ、とわかって。
なるほど、なかなかこれほどのバカはいない。
レーヴは暫定的ではあるが黒騎士に評価をつけた。
小さなバカは己を賢く見せようと振舞うだけの愚鈍だが、このサイズとなると話が別だ。
この男には間違いなく英雄の資質がある。
キラキラとした宝石の原石のようなきらめきがある。
真騎士の乙女たちはある種の鳥がそうであるように、光り輝くものに強く惹かれる性質を持っている。
金銀財宝にではなく、意志の輝きに、というそれは意味だ。
そんな想いが気がつけば言葉になっていた。
「そうだな……では、先にわたしが条件を言おう。そして、同じ条件であれば、わたしも呑もう。つまり等価の指針というやつだ。我らふたりの間でだけ通用する交換倍率だよ」
どうかな、と首をかしげて訊くレーヴに、黒騎士は首肯で応じた。
よろしい、とレーヴも頷き返す。
それから言った。
では、遠慮なく、と。
「もし、キミがわたしに屈したなら、そのときは──わたしのものになれ、黒騎士」と。
高台から見下ろしながら笑みを広げるレーヴに、黒騎士は──アシュレは思わず喉を詰まらせてしまった。




