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■第七五夜:海中の大縛鎖


 

 ヘリアティウムの様子を注視していたアスカが、異変に気がついたのは直後のことである。

 見張りを押しのけ、ゴールジュ湾へと突き進む船団の舳先に立ち、湾内に立ちこめる濃い朝霧を見透かそうとする。

 艦隊司令から皇子であるとの明言は受けてはいないが、その絶世の美貌びぼうといでたち、特に両脚の告死の鋏:アズライールは隠しようもない。

 海が割れるように兵たちの群れが割れ、アスカは船団の先頭を突き進む旗艦のさらに突端に立った。


「なんだあれは」


 そのときアスカの瞳に飛び込んできたものは、乳白色の朝霧立ちこめる洋上に屹立する巨大な城壁の姿であった。

 もちろん、いくらヘリアティウムが数千年の歴史を誇る帝国の首都だからといってあのような特殊な防衛機構はない。

 ないはずだ。


 だから、アスカの観察眼は正しい。

 それは壁ではなく船であった。

 ヘリアティウム防衛のため、本国に背き残留を決めた商業都市国家同盟の大型帆船五隻。

 それがオズマドラ海軍の眼前に巨大な横腹を見せ立ちはだかったのである。

 アスカにはこれが城壁と見えた。

 その感じ方は誇張ではなく、本質を捉えている。


 一隻一隻それぞれが各国船団の旗艦クラスである超大型帆船は、喫水線から船べりまでの高さだけで優々と十メテルに達する。

 それはまさしく洋上に屹立した城塞そのもの。

 前線から遠い場所で十メテルと聞いてもピンと来ないが、揺らめく水面からそそり立つ巨大な船体に肉迫すれば、それがどれほど絶望的な高さなのかイヤでも思い知ることになる。

 おまけに帆船のマストは、このような防衛戦闘においては城塞の塔の役割を果たすのだ。


 この時代、大砲を搭載している艦船というものは例外中の例外である。

 カテル病院騎士団の保有するエポラール号などがそれに当たるが、それでも海戦とは基本的にやじりと刃にて決着をつけるのがこの頃の常識であった。

 つまりあの巨大な洋上の要塞を切り崩すには、決死の突撃を覚悟しなければならないということでもそれはある。

 

 なによりアスカの警戒心を刺激したのは、お互いの船乗り同士の練度の差である。


 湾内とはいえ入口付近、それなりに流れのある洋上で、敵側の五隻の大型帆船は横一列に整然と並んだまま、さらにこの濃い霧の中で互いの距離を等間隔に保ち続けていた。

 そのさまはまるで計画的に建造された城塞のような整い具合だ。

 これは容易な技術ではない。

 長年の経験と熟達の操船技術、加えて海中の地形や海流の変化する時刻を己の掌のシワを知るがごとく把握している者たちだけに可能な芸当である。


 いっぽう、これを相手取ることになるアスカたちオズマドラ帝国軍は、伝統的に海軍を重要視してこなかった。

 それがアスカの危機感に触った。

 これは昨年の秋、フラーマの漂流寺院で数千名の配下を失った手痛い敗戦から皇子が学び取った教訓だ。


 もちろん敵の陣容を見れば、数の上では今次作戦においてオズマドラ軍が数で圧倒していることは一目瞭然である。

 件の五隻の超大型帆船ほど大きな船は艦隊のなかにはないが、それでもこちらは数十隻からなる大船団。

 対する敵軍は両手の数で数えられるほどでしかない。

 常識的に考えれば圧勝できる戦力差であることもまた、たしかに正論であった。


「ご案じめさるな。ヘリアティウムとそこに加担する連中が、いくら熟達の船乗りであろうと戦力の差は圧倒的。戦いはまず数を揃えられるかどうかで八割が決しますからな」


 そそり立つ城壁のごとき五隻の帆船の影に眉をひそめたアスカに話しかけたのは、いつのまにか隣りに来たこの艦隊の司令官:バルトグールであった。

 さて、名前からもわかる通り、この男は生粋のオズマドラ人ではない。

 むしろ、かつてはイクス教者であった男である。

 海賊が信心というのもどうなんだという話ではあるが、迷信深い船乗りたちは、この時代ことあるごとに神にすがった。

 特に陸に居場所の無い海賊たちにその傾向は顕著だった。

 それはきっと神以外に己のよすがとすべきものがなかったからであろう。


 ではなぜ、その信心深い海賊船の船長がよりにもよってオズマドラ海軍の司令官を拝命したのかといえば、端的に言えば買収されたのだ。

 海賊行為といえば毒蛇の牙と恐れられたカテル病院騎士団が有名だが、それ以外にもオズマドラ近海を荒らし回る海賊たちはいた。

 バルトグールはそんな海賊のひとりだったが、ある日、オズマヒムの招請に応じて海軍の司令官に収まったのである。

 これまでの遺恨を水に流し片腕として働けという大帝自らの招請しょうせいに、この海賊の親分は一族郎党、子分もろともまで引き連れて改宗したというのだから、なかなか念がいっている。

 海戦で失った片腕に鉤を着け潮っ気の抜けない顔に愛想笑いを貼り付けた司令官を、アスカは一瞥いちべつした。


「彼らを甘く見ないことだ。あわよくば無傷であの都市を手に入れようなどと目論んでいる我らと違って、彼らは追いつめられた兵だ。しかも熟練の船乗りたちでもある。ひと揉みするにせよ、そこのところをしっかりとわきまえておかないと、手酷いしっぺ返しを喰らうぞ」

「これはこれは、さすが殿下だ。仰ることが違う。しかし、アタシも長い間船の上をねぐらとしてきた身……そうそう遅れは取りませんよ」

「たしかにそうかもしれんな、貴様自身は。元海賊の司令官どの。しかし、我が海軍の練度まではどうかな。操船のように熟練と連携を要する技術者の養成の遅れというものは、これまで人海戦術を主軸に置いてきた──ある意味で人間を使い捨てにしてきた国家の構造的欠陥とも言える。一朝一夕で埋まるものではないぞ」


 慎重論を並べるアスカに元海賊の親玉はわざとらしく目を見開いて見せた。


「こりゃあ驚いた、アスカリヤ殿下は海戦にも政治にも精通しておいでだ」

「大帝からの命はゴールジュ湾入口に展開せよ、というだけで戦端を開けというものではなかったはずだ。いたずらに攻撃を仕掛けたりするな、と忠告している」


 バルトグールの芝居がかったお追従を切り捨てるように、アスカは釘を刺した。

 肩をすくめておどけて見せたバルトグールは「もちろん承知しておりますともさあ」と答えたあと帆船の城壁のむこう、ヘリアティウムを指さして反論した。


「当然、それは承知の上で。ですがねえ、殿下。戦端という意味ならば、もうすでに開かれてんじゃあないですかね。ええ、他ならぬ大帝その方の手で」


 たしかに、バルトグールの言い分はもっともだった。

 なぜなら、早朝からずっと雷轟らいごうそっくりの砲撃音と、その直撃によって破壊された城塞が崩落する重低音が海峡全体に轟き渡っていたからだ。

 風に流されたのか、ごまかしようのない硝煙の匂いまでが洋上にまで渦巻いている。

 霧の切れ間から火山の噴火にも似て煙を噴き上げるヘリアティウム北端の城壁を見やって、アスカは目を細めた。

 まるで世界の終わりの黄昏のような光景だ、とさえ思う。


「まだだ。あれは城壁を打ち崩し、ヘリアティウムとビブロンズ帝国の民草すべてに、我がオズマドラの《ちから》を見せつけているに過ぎない。父上は……いいや、大帝はあくまでこの都市をできるかぎり破壊から遠ざけたまま、手中に入れたいとお望みなのだ」

「んー、それもわかりますがねえ。あすこに陣取っている連中がその御心を理解してくれているかどうかは、かなり怪しいとアタシなんかは思いますが」


 父:オズマヒムの心中を代弁するアスカに、バルトグールは例の帆船五隻を筆頭に戦闘態勢を整え待ち受ける商業都市国家同盟の面々を指さして言った。


「戦には勢いってもんがある。このままやっちまうってわけにゃあいきませんかね」

「大帝の命に背くのか」

「ひとたび戦端が開かれたなら、海上の采配はアタシに任せていただける約束ですがねえ」

「それは貴様の見解に過ぎん。大帝は昨夜どのように振舞われた? こちら側から仕掛けることは、このアスカリヤが乗船したからには看過できんぞ」


 硬いアスカの言葉にやれやれ、とバルトグールは頭を掻いた。


「面倒くさいことになりましたねえ」

「なにか言ったか?」

「戦争ってえのは、未通女おぼこの相手をするのとはわけが違うんだがなあ。殿下のお言葉じゃあ、しかたねえ。それじゃあまず、話し合いと行きましょうか」


 そうこうする間にも艦隊同士の距離は近づいていた。

 このまま前進すれば、うっかり石弩の射程に入ってしまう。

 あるいは霧が立ちこめてさえいなければ、すでに矢を射交わしている状況かもしれなかった。

 もちろんそれは高所で待ちかまえる敵側に有利な条件で、ということになる。


「よーしよし、バルトグール艦隊は船脚を落とせ。停船だ」


 戦闘準備は整えたままでな、と付け加えるのを忘れずバルトグールが言えば、命令はたちまち船団全体に伝えられた。

 艦隊の動きを伝達するバトルドラムが打ち鳴らされる。

 しかし、その挙動は船ごとにまちまちで、むしろオズマドラ海軍の練度の低さを露呈させる結果とあいなった。

 急制動を命じられた艦隊は、ちぐはぐな動きで陣形を乱してしまう。

 濃い霧が混乱にさらに拍車をかけた。

 一方で、すでにこちらには気がついているはずなのにヘリアティウム防衛軍に動きはない。


「船長!」

「問題ありやせんって。それにこの混乱に乗じて向こうから仕掛けてきたなら、そりゃあ大好機チャンスってえヤツじゃあないですか」

「なんだとッ?! 貴様、まさかっ?!」

「おっといけねえいけねえ。おい、野郎どもッ、盾を持て! 俺サマが連中には話をする。その間、殿下と俺の身を敵の矢から守るんだ」


 アスカの追及を雑にいなしながら、旗艦の舳先に躍り出たバルトグールは声を張り上げ降伏勧告を始めた。

 ここに来て大帝:オズマヒムの意を汲み、あるいは騎士道に目覚めたとでもいうのか。

 腕組みし、大きく鼻息をつきながらも成り行きを見守ることにしたアスカは、しかし次の瞬間、仰天することになる。


「さて、親愛なるヘリアティウムとその関係者諸君。お元気かね。わたしだ、バルトグールだ。そうかつて、ともにアラムの教えを異教・邪教と信じて戦った同志だよ!」


 海の男の悪の面を体現したような男が発した胴間声どうまごえは、洋上に響く砲撃音さえ圧して、待ちかまえるヘリアティウム防衛軍艦隊にまで届いた。

 アスカはそれを慌ただしくなった敵船の甲板上の動きで知った。

 そう、バルトグールはアラム側だけではなく、イクス教徒の側にも悪名を轟かせた名うての海賊であったのだ。

 同胞からは守護天使がごとく崇められ讃えられたカテル病院騎士団とはそこが違う。

 それを知ってか知らずか、元海賊の司令官はぬけぬけと続けた。


「聞け、かつての同志たちよ。俺サマは、いまでは篤心とくしんなアラム教徒としてここにいる。昨夜の我らが大帝のお言葉は聞いたか、諸君。聞いただろうな。なんという寛大なお心だろうか。おお、アラム・ラーに栄光あれ! それなのに大帝の温情を蹴り飛ばして、諸君はここにいるというわけだ。だが、あえていま俺は慈悲を持って繰り返そう。おとなしく降伏したまえ。かつて同じ神を信じたよしみだ。悪いようにはせん」


 アスカには、バルトグールの言葉は挑発にしか聞こえなかった。

 もちろん、当のバルトグールがそう思いながら、そう聞こえるように呼び掛けたのだ。

 返礼は数百の返し矢によって行われた。

 霧のなかでの射撃であるから狙いは定かではないが、これほどの量となれば当たるときは当たる。

 もちろん、これあるを想定して掲げられていたシールドがバルトグールとアスカの周辺に着弾した攻撃はすべて受け止めたが、流れ弾によって兵たちのなかには少なくない死傷者が出た。


「撃って来やがった! おっしゃあああ! 殿下、連中、問答無用と見ましたぞ!」

「いまのは貴様が挑発したからだろう!」


 素っとぼけた様子でそっぽを向いたバルトグールの口元に、微かな笑みを見出してアスカは激昂した。

 思い返せば船ごとに練度のちぐはぐな艦隊に急制動をかけさせ陣形をばらけさせたのも、その一環だったのだと勘ぐれないこともない。

 いや、きっと最初からそういう腹積もりでこの男はいたのだ。

 ぶちり、と血管の切れる音を、アスカは頭のどこかで聞いた。


 だが、怒りに任せて振り上げた拳をにやけ顔のバルトグールに見舞うことはついにできなかった。

 ぐうらりという突如の強いうねりに続いて、恐るべき存在が海中からその姿を垣間見せたからだ。


 最初、とてつもなく太く長い縛鎖にソイツは見えた。

 生きもののように海中で蠢いている。

 当然だが、それは鎖などではなかった。


 ゴールジュ湾の入口が、ソイツによって完全に封鎖されるのではないかという錯覚に居合わせた者全員が陥った。

 それほどに強大な存在であった。


 無理もない。

 続いて海中から現れたものは、本来であれば物語や伝説の側の生物であるはずだったのだから。


 シドレラシカヤ・ダ・ズー。

 世界最古の蛇の巫女が怒りに青き鱗を逆立て水面を突き破って、現れ出でたのだ。




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