■第七二夜:聖歌(アンセム)
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夜明けのヘリアティウムは、濃い朝霧に包まれている。
ミルクを流したような乳白色のヴェールのなか、都市の異名の元ともなった千の塔が、そのシルエットを浮かび上がらせている。
夜明けを告げる教会の鐘が鳴り響くとともに顔をのぞかせた朝日が、都市を朱鷺色に染め上げていく。
多くの歴史家や文人たちが、なぜこの都市を“もうひとつの永遠の都”と呼んだのか。
その理由がこの光景を見るだけでわかるような気がする。
だが、今日この日、壮麗なる古き歴史の都の美しさを鑑賞していたのは、ただひとりであった。
ただひとり、城壁の外に立ち、男は呼び掛けた。
眠れぬ夜を越え、朝日に照らし出された“もうひとつの永遠の都”に。
「では、返答を承ろう。調和か、それ以外か。選択肢は諸君にある──だが、あえてもう一度、言おう。我自身は諸君らとともに友好の杯を交わしたいと望んでいるのだ」
ヘリアティウムが誇る西方世界最強の三重の城壁。
その前に進み出た男は、よく通る声でそう告げた。
視界を奪う霧が朗々たる男の呼び掛けに圧されるように、そこだけ晴れていく。
見ようによっては男の歩みが、行く手を阻む厚いヴェールを切り裂いていくようにすら思える。
伴は、随伴する者はない。
たったひとり、敵陣のそれもそそり立つ城壁と尖塔の真っ正面に進み出て講和の返答を訊く。
これほどの大胆不敵を行うものが、オズマドラ帝国皇帝:オズマヒム・イムラベートル・オズマドラを除いてどこにいようか。
大砲の、あるいは神箭手|(神前で奉納の弓矢を射る者=凄腕の射手のこと)の一射があれば、彼の者も命はこのとき終わっていたであろうに。
そんなことなど万にひとつも起らぬという確信に満ちた態度で、大帝は呼び掛けた。
その声は静まり返った三重の城壁を叩き、響き渡り、こだました。
五秒が経ち、十秒が過ぎ、一分が失われた。
だが、城壁のどこからも応えはない。
城門が軋む音さえしない。
しわぶきひとつ聞こえない。
返答は沈黙であった。
その様子に、オズマヒムは沈欝な表情でうつむいた。
そうであるか、とつぶやいた。
「我が努力が足りなんだか」
オズマヒムの悲嘆は誰の耳にも届かない。
しかし、大帝の歩みがそれで止まることもない。
彼は悩む者としてではなく、行う者、決断する者……いやすでに定められた者としてここに来たのだから。
だから、彼は行動する。
「ならば、さらなる対話を試みるのみ。そのためにはまず……」
オズマヒムの右腕が振り上げられる。
それが降り下ろされる。
「諸君と我らとの間を隔てる城塞を、この世から消し去るのみ」
ささやきとともに世界は轟音に包まれた。
雷轟の日、と後の史書にその日は記される。
大帝:オズマヒムの合図とともに分厚い霧のヴェールが切り裂かれ、火線ともに鉄球が数千年の年月に耐えた城壁を打ち据えた。
しかも、それは巨大な爆発を伴っていたのである。
これこそが史書に記されたゾディアック大陸史上初の雷管型砲弾。
それがこの日、ヘリアティウムの城塞に対して投じられた。
思えば昨夜の光の華=花火は、この攻撃の示威行動に過ぎなかったのではないか。
あるいは事前警告に。
城壁に背を向け、砲火と黒煙のなか悠然と自陣に歩み戻るオズマヒムに、たまらずオズマドラ帝国軍の近衛兵たちが飛び出し、盾を掲げて、あるいは身を挺して破片から大帝の玉体を護った。
だが、オズマヒムは平然とした口調で、彼らにこう告げたという。
「討って出てこぬ間はできうるかぎり敵兵には危害を加えるな。ただ、城塞のみを破壊せよ。すべてをまったき平らかなるものとし、その上で、いま一度対話を試みるのだ」
そのあまりの寛大さに忠実なる近衛兵たちは忠誠を新たにし、感涙に打ち震えたという。
しかし、このとき大帝の心を満たしていたものはヘリアティウム市民への寛容なる思いではなかった。
ただ彼は、後世に語り継がれ永劫に君臨する英雄の規範として、そこにいたに過ぎぬのだ。
さて、一方、文字通り猛火にさらされるヘリアティウム防衛軍はどのようなありさまであったか。
未曾有の危機に対する彼らの意見は──徹底抗戦に決していたか。
あるいはまだ降伏を受けいれるべきだと考えていたのか。
事実は、そのいずれでもなかった。
そう、ただただ堂々巡りの議論を繰り返すに終始していたのである。
「おまえたちでは埒があかない、皇帝を、陛下に会わせろ」
そう叫ぶ主戦論派=西方の男たちに対して、大臣を始めとする重臣たちはしどろもどろな返答を繰り返すだけ。
「陛下はお体の調子が、いまはだれとも面会は」
そう繰り返すだけ。
夕刻に一度解散したあと、深夜に再招集がかけられたヘリアティウム防衛軍首脳会議は物別れに終わっていた。
西側聖職者とエスペラルゴ人、傭兵隊に加え、居残りを決めた商業都市国家同盟のリーダーたちが席を蹴って立ち上がった。
彼らの主張や利害が完全に一致していたわけではない。
だが、彼らが席を立ったのは逃げるためではなかった。
いっこうに自分たちの立場を決しようとしないヘリアティウムの重臣たちに愛想を尽かしながらも、自らの第二の故郷を護るためにそれぞれの持ち場に赴いたのである。
東西貿易の要:ヘリアティウムは海に面した都市でもある。
オズマドラにだって海軍はある。
だとすれば、陸側=城塞の防衛ばかりに気を取られていては背後を突かれることになる。
西方の男たちは役割を分担しそれぞれが城塞の守りに、そして自らの船団を率いて海上の守りについた。
残されたヘリアティウムの重臣たちは放心したように席に身を預け、視線を宙に彷徨わせている。
国外の人間たちから文人皇帝などと揶揄されてはいても、ルカティウスという男がこれまで果たしてきた責任の重さを、彼らはこのときはじめて思い知ったのだ。
そこにオズマヒムは決断を突きつけに来た。
ヘリアティウム首脳陣の腑抜け具合・ていたらくを、城塞の防衛についた市民=志願兵・義勇兵たちは知らない。
しかし、いつもであれば真っ先に市民を激励に来てくれる皇帝:ルカティウスの姿がないことに、彼らは気づいていた。
昨夜の皇居での一件は箝口令が敷かれてはいた。
それはこのときはまだ奇跡的にも守られていた。
だが、こういう異変について民衆ほど敏感な生きものはいない。
ルカティウスの身に、なにかがあったのだという漠然とした不安が病のように広がっていくのに、時間は必要なかった。
「陛下の身になにか」
「わからぬ。だが、我らはこの街のため、聖イクスの御為に戦う」
怯えた目で詰め寄る群衆に、西方側の男たちはそう答えるのが精いっぱいだった。
そして、夜明け。
だれにも返答できぬ問いかけが朝日とともに都市を訪った。
調和か、それ以外か。
無論、答えることはだれにもできない。
息も詰まるような沈黙の代価は、だから、極大の破壊によって支払われる。
西方世界最強と謳われた三重の防壁は、瞬く間に二重目までが瓦礫と化した。
奇跡的にも、そこに配置されていた兵はほとんどいなかった。
これは優柔不断な首脳部の采配のなかで唯一といっていい、幸運な出来事だった。
雷管型の砲弾を発射できる大砲は、いかにオズマドラ帝国といえどもそう数があるわけでもないこともさいわいした。
さらに、この時代の大砲はまだまだ連続使用には適さない。
しかし、オズマドラ帝国は最新鋭の雷管型砲弾用の大砲だけではなく、旧来のそれも戦場に持ち込んでいた。
それらがうまく互いの砲撃までの間をカバーしあうように火を吹いた。
立て続けに撃ち込まれる石弾や鉄球が初撃で開いた傷口を確実に広げ、その瓦礫で海水を引き入れた幅二〇メテルの堀がみるみる浅瀬に変わっていく
間断ない砲撃は数時間も続いた。
防衛軍のほとんどを占める志願兵=一般市民たちは物陰に隠れ兜を押さえてうずくまり、ひたすら聖句を唱えることしかできなくなった。
運悪く旧式の大砲で反撃を試みた西方諸国の兵士たちが、雷管型砲弾の直撃を受け爆裂四散した。
ヘリアティウムの市民たちは一昼夜経たぬうちに、天国と地獄の両方を地上に居ながらにして垣間見ることになった。
「だめだ、だめだこんなの。降伏しよう。いまならまだ間に合う」
いったいだれが口走ったのか。
諦念が導線に走る火のように民衆の心に燃え移ろうとしたそのとき、それは聞こえた。
「我ら、いざ行かん。約束の彼の地、我らが真なる魂の故郷、夢に見たあの場所へ──」
それはかすかな、かすか過ぎる歌声であった。
赤子をあやすように、しずかに、ほとんど祈りのように。
「我ら、等しく貧しく生まれ、困窮に生きた者どもよ。おお。いまこそ、その魂の使い途を知るときが来た。帰ろう、我らが本当の故郷へ。奪われし聖地へ。約束の場所へ──おお天に坐す偉大なる御方よ、どうか我らを導きたまえ」
いずこから転び出たものか。
歌声は微かなものから、やがて小さな、そして大きな連なりへと変わっていった。
それは十字軍の歌だ。
ただ、いまヘリアティウムに迫る二〇万の大軍勢のものではない。
それはかつてイクス教誕生の地、聖都:ハイアイレムを取り返そうと理想に燃えて立ち上がった貧しく名もない民衆たちの歌だった。
そのほとんどが帰ってこなかった男たちの歌だ。
この歌が、いつどこで生まれたのかもわからない。
もちろん教会の聖歌隊のリストにもそれはない。
だが民衆たちの間で、それはいつのまにか小さな名聖歌になった。
つらい農村での苦役から、天上にあるという神の國へ、そこにもっとも近いと言われた聖都:ハイアイレムへ行こう──彼の地を奪還したならば、きっと自分たちは花咲き乱れる天の國に迎え入れられることであろうから。
そういう祈りを超えた切実な《ねがい》が込められた歌だ。
それがいつの間にか諦念に取って代わっていた。
あまりの成り行きに唖然としていた西方の男たちまでもが、いつのまにか涙を流しながら合唱に加わっている。
そういう《ちから》が、その歌声にはあった。
「潜り抜けよ、鏃の雨を。掻い潜れ、閃く刃の下を。戦友たちよ、我らの旗を掲げよう。我らが前に道はなく、我らが後に道は成る。たとえ道半ばで、草の根を枕に倒れようと。我は行く。ああ、我らは征く。ただ、ただ、神がそれを望んでおられるのだから──」
砲弾が炸裂し瓦礫の降り注ぐなか、大合唱はやがてその轟音を圧する大きな聖歌となった。
そして、その歌声に押されるようにして、卒然とひとりの男が立ち上がるのを彼らは見た。
ズタズタに裂け汚れた外套。
フードを目深に被った男は民衆のなかから姿を現した。
するり、と汚れきった布きれがまるで美術品を覆う幕のように滑り落ち、隠されていた真実をあらわにする。
そこにいたのは純白の騎士。
そして、彼が掲げるのは聖剣:エストラディウス。
「見よ者どもよ。神の威光に輝けるこの刃を。そして、しかと聞け。我らは──この軍隊は負けを知らない」
彼が刃を抜き放つや、しゃがみこみ打ちひしがれていた兵たちは一斉に立ち上がり、蜂起した。




