■第七一夜:夜はざわめく
アシュレがイズマたち潜入班突入開始の報を受け取ったのは、その夜、ちょうど音楽と光の祭典が終わりを向かえたときだった。
オズマドラ帝国軍と大帝:オズマヒムは、今宵のところは口上を述べるだけに留めたようだ。
ただ、その締めくくりに翌朝:日の出とともに返答を受け取りに来ると付け加えることだけは、忘れなかったが。
いまヘリアティウムは異様な興奮に満ちている。
それはオズマヒムが全市民に向けて投げ掛けた演説に起因している。
戦わずしてアラム教徒の軍門に下るのか。
はたまた大帝自らの口から提案され約束された条件を蹴って、徹底抗戦を覚悟するのか。
オズマヒムの言葉遣いは慇懃と言ってよいほど丁寧で温情に満ちあふれ、優雅ですらあったけれど、結論を言えばその二択を突きつけたことに集約できる。
それがヘリアティウムに暮らす十万の民草に作用した。
夜もすっかり更け、本来であればとうの昔に寝床についている時間帯であるにもかかわらず街路は人で溢れ、いたるところで議論が始まっていた。
事実、オズマヒムの提案こそ最も理知的で平和的な解決策であったろう。
このまま降伏勧告を受けいれれば事実上ビブロンズ帝国は地図の上から消滅し、ヘリアティウムはイクス教徒の土地ではなくなる。
そのかわりに自分たちの命と信教は守られる。
オズマヒムは開戦に先立ち、そう自ら約束したのだ。
全軍と全市民の眼前で。
信用という意味ではこれほど信用できる約定もあるまい。
議論の余地などないように思われた。
しかし、実際には路上のいたるところで、あるいは屋内で、酒場で、盛り場で人々は憑かれたように議論を続けた。
これは元来、現実に直接相対・行動するよりも、まず哲学的思考と議論とを重要視するヘリアティウム市民の気質からだけでは、断じてない。
争点はたったひとつ。
オズマドラ帝国に完全に無抵抗のまま恭順を示したとき、アラム教世界とイクス教世界のどちらに自分たちは所属することになるのか、ということについてである。
具体的な距離はわからずとも十字軍が迫っているとの報は、ヘリアティウムの住人たちもすでによく知っているところだ。
神の正義の名のもとに少女法王の口から発せられた大号令によって、オズマドラ帝国軍とほぼ同数、約二〇万の大軍勢が陸と海の双方からいまヘリアティウムを目指して進軍してきている。
ではもし、彼らが到着したとき、この都市にアラムの軍勢が無傷のまま居座っていたとしたら。
都市には戦闘を行った痕跡も、略奪のそれも皆無のまま──なんの犠牲も払わずして自分たちの信仰の中心地のひとつを手放したのだとエクストラムの十字軍が知ったなら。
こんどは標的になるのは自分たちなのではないか。
神の名のもとにアラム教徒を世界から一掃しようという考えで統一された十字軍に、どんな言い訳が通用するというのか。
そのとき自分たちは裏切り者と目されてしまうのではないか。
背信者に対する追求は異教徒に対するそれよりも、はるかに厳しい。
敵であることよりも裏切り者のほうが罪が深いからである。
神と同胞を売った元信者に対して、それは彼ら自身が行ってきた歴史でもある。
それが今度は自分たちに対して行われる。
十字軍の戦いとその戦後処理がいかなるものかについては、改めて論ずるまでもない。
彼らが目標と定めるものはすべらかく神敵であるのだから。
神敵をどうするかなどと、聞くだけ無駄というものだ。
人々が眠りにつけず血走った目で議論に熱中するのは、いま目の当たりにしたオズマドラ帝国軍の恐怖に対してではなく、背教者の烙印を押されるのではないかという畏れに起因していた。
町中が怯えを含んだ興奮に包まれ、大気が粟立つように感じられる。
まったく見事な心理戦だ。
アシュレは舌を巻いた。
オズマヒムは救いと許しの言葉だけで、異能を用いることすらなく、完璧な脅迫を成し遂げたのだ。
そこに潜入開始の報せが届けられた。
届けたのはバートンである。
イズマたちの現在位置を記した地図を懐から取り出しつつ、バートンの報告は始まった。
「現場に残って引き続き後方支援を行ってもよかったのですが、衛兵の突入もあり危険すぎると判断いたしました」
「ありがとう、バートン。賢明な判断だと思う。引き際は本当に大事だから」
「お褒めに預かり感謝の極み。お嬢さまはイズマさまとノーマン殿がエスコートされております」
「よかった、スノウも無事潜入できたんだね。だけど、このタイミングで皇居が襲撃され皇帝が姿を消した……ヘリアティウム市民はどう思うかな」
ルカティウスとシドレラシカヤ・ダ・ズーの姿を見失った経緯、それから潜入が強行になった顛末などをバートンから聞き、アシュレは唸った。
シオンの点ててくれた完璧に美味しい紅茶で密偵を労いながら、アシュレはアゴに手をやる。
眼前では展開された宮殿の見取り図の上で、線がうねうねと動いている。
それはイズマたちの現在位置と隠された通路の存在を自動的に書き出してくれる優れものだ。
イズマが言うには《フォーカス》ではなく、他の便利な蟲たち同様、特殊な培養をした虫の1種なのだという。
どういう理屈かさっぱりわからないが、ともかく便利だ。
「やっぱり無関係だとは思ってくれないだろうな」
「順当に考えればオズマドラ側の刺客だというのが、一番しっくりくる答えでしょう」
自分たちの行いをまるで他人事のようにバートンは評する。
アシュレは昔から変わらない執事の口ぶりに思わず苦笑した。
「証拠はどこにもないし、実際に違うけれどね」
「それこそタイミングが悪すぎましたな。状況証拠から推察できる犯人はオズマドラ以外にありえない。そして人間は自分たちがそうと思い込みたいのであればウソにだって飛びつくものです」
加えて例の手紙はすでに回収済みですからな、と羊皮紙のスクロールを懐から取り出してバートンが断言した。
ふー、とアシュレは深く息をついた。
「だとすると、徹底抗戦の口実を作ってしまったかもしれない」
「あるいは、そうかもしれませんな。しかし、どのみち彼らには降伏を選ぶこともできますまい。アラム教の軍勢に無抵抗で開城を行った場合、エクストラム法王庁と十字軍が、それをどのように判断するかはあまりにも明白ですからな」
バートンの淡々とした解説にアシュレはまた唸った、今度は強く。
かつて自分の所属した国家と組織が外部から客観視されたとき、いったいどう見えるのか。
このときのアシュレはまさにそれを体験していたのだ。
「そして、降伏か抗戦かの判断を下す権限を持った最高責任者が今夜、舞台から姿を消した。このあと、どうなる?」
「群集心理的に考えられる可能性はふたつ。ひとつは、次に担ぎ上げるべき責任者探しでしょうな」
「こんな時期にだれも責任は取りたくないだろうね」
バートンの辛辣な物言いに、アシュレは苦笑いを広げる。
それには応えず忠実なる密偵は二本目の指を立てた。
「ふたつ、皇帝:ルカティウスの失踪を隠蔽したまま時間を稼ごうとする」
「政治としては正解かもしれないけれど、そんな小細工が通用するような相手では大帝:オズマヒムはない。それが出来るならルカ本人がもうやっていただろうし、その最終局面が今日の出来事なんだよ」
ついにヘリアティウムが包囲される、というね。
そんなアシュレの意見に、今度はバートンが短く唸った。
感心したのだ。
「では、そういう混乱しきった場で責任をなすりつけるべき人物を探しているような連中が、いまなにに支配されていると思いますかな、ご当主?」
「ご当主、って呼ぶのはもうやめようか、バートン。ボクはもう、バラージェ家の家長としては失格なんだから」
「そうでしょうか。正直申し上げますと、すこし前まではまだ若というのが、わたくしのなかでのアシュレさまの位置づけでした。肩書きだけは立派だが、まだ若さまという感じ。しかし、いまはもう立派なご当主さまになられたと感じられますな」
「そうだったの?! いや、それよりもいまはルカティウスに置き去りにされたカタチの重鎮たちが、どんな判断を下すかだよ」
「そうでした。で、アシュレさまのお考えは?」
うん、と頷いてアシュレは意識を切り替えた。
言葉が、口をつく。
「たぶん、そういう場で鍵となるのは狂気だと思う」
「狂気」
「あるいは狂信と言ってもいい。正しいか間違っているかではなく、強烈に方向性を与えてくれるものであればなんでもいいんだ。迷いのなかから決断を選び取ることが《意志のちから》なのだとしたら、それは真逆のもの」
「意志とは真逆のもの」
「いま渇望されているのは考えることを放棄させてくれるものだろう」
そして、それはこれからさらに望まれる。
言い終えて、アシュレはティーカップに目を落とした。
シオンが紅茶のおかわりを注いでくれる。
「イズマの言っていた男……アスカリヤ殿下が遭遇したという東方聖堂騎士団の最後の生き残りのことを考えているのか」
うん、とアシュレはシオンに頷いた。
戦隊をふたつにわける直前、最後の打ち合わせのなかでイズマはその存在を明らかにした。
一〇〇年前を生きた不老不死の男。
ガリューシバル・ド・ガレ
史上最悪の背信者・異端者として処刑されたはずの騎士にして《スピンドル能力者》。
その男が得意とする異能について詳細は不明だが、不期遭遇戦に陥ったアスカから手紙を通じて要注意だと警告があったのだ。
「狂気や狂信は伝染する。場合によってはあっという間に。集団が信じるべきものを見失っているときは特にそうだ」
信念が揺らいでいるのに狂信に罹るっていうのは、変な話だけど。
アシュレは確信して、シオンの瞳を見つめ返す。
シオンもゆっくりと頷いた。
それは深い同意だ。
そして、ふたりがこのとき抱いた確信はときを置かずして現実のものとなる。




