■第六五夜:潜伏の庭
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「……ちゃん、スノウちゃん!」
呼び掛けられていることに気がついて、スノウはハッとした。
息が感じられる距離にイズマの顔があって、ちいさく悲鳴を上げそうになる。
「だいじょうぶ?」
そんなスノウの唇を土蜘蛛の男の指がふさぐ。
こくりこくり、とスノウは頷いて見せる。
うん、とイズマも返した。
「じゃあ、最終確認。いまからボクちんがルカティウスくんの私室にお手紙を仕掛けてきます。で、終わったらいったんここに戻って、交替で彼の見張り。手紙読んだルカティウスくんが動いたら、そのあとを追うからネ。そんときはスノウちゃんが主役だぜ?!」
なれなれしく人間距離を詰めてくるこの男が、スノウはやはり得意になれなかった。
そもそも土蜘蛛という種族にはあまり良い思い出がない。
初遭遇のエレから始まり、妹のエルマ。
そして、首領格らしいイズマは、別格に腹の底が読めなかった。
姫巫女姉妹のほうはそれでもここ数日間、生活を共にしたせいかなんとなくだが性格を掴めている。
ひとつ屋根の下で暮らすなかで、信頼関係のようなものまでもが生まれつつあるのをスノウは感じていた。
だが、ひと癖もふた癖もあるあのふたりが心酔し崇拝してさえいるイズマというこの男だけは、どうにも信用がおけなかった。
なにしろいろいろ秘密が多すぎる。
例を上げれば枚挙にいとまがないが、最大のものはスノウ自身がなぜここにいるのか、というその理由に尽きるだろう。
ルカティウスを引っかけるためのやり方だってペテンというか恐喝そのものではないか。
しかも、である。
「こんなに近場に潜んでいて……だいじょうぶなの?!」
「だいじょうぶだいじょうぶ。灯台の下暗しって言うでしょ? それにさ、ちゃーんと策は打ってあるんですヨ」
「策って……この上、まだ?!」
「そりゃそだよ。小さな策略の組み合わせがひとつひとつ連なって……機械仕掛けのように巨大な陰謀を動かすんだからさ」
どうやらイズマにとって策を巡らすこと、ウソをつくこと、ヒトを駒のように扱うことは呼吸と同じレベルの営みらしい。
もうひとつ例を上げて見せよう。
たとえばいま陰謀についてまるでゲームの解説をするように語るこの土蜘蛛の男は、大胆不敵にも皇居の中枢、皇帝の私室に隣接する空中庭園に潜伏することを提案したのである。
そして警護の目だけではなくヘリアティウム十万の目を完全に欺いて、スノウたち三人をいともたやすく生い茂る月桂樹の茂みの下まで導いた。
そこには二十メテルを超える垂直登攀まで含まれる。
いかに現在、ヘリアティウム市民の目が城壁の外に注がれているとはいえ、異能すら使わずひと目を避けこれだけの難業を軽々と成し遂げるイズマという男の抜け目なさに、スノウは戦慄さえ覚えたのだ。
これほどの腕前を持つ男が本気で暗躍したのなら、機密やプライベートなど、どうやって守り通したらいいのか。
「あなたって……やっぱり悪党なのね」
「大悪党。そこだけよろしく」
呆れたようにつぶやいたスノウを振り返るとウインクひとつ、イズマはまるで影のように皇帝ルカティウスの私室へと向かった。
なお、立地を言うのであればヘリアティウムの皇居である宮殿はヘリアティウムの北東、堀から数えて三番目の最も背の高い城壁に隣接するカタチで造営された建築物だ。
ヘリアティウムの宮殿としては三つ目になるこのルクス宮は、都市の正面に広がるゆるやかな丘陵地帯とゴールジュ湾をぐるり一望できる場所に建っていることになる。
その最上階の東側、朝日が一番最初に当たる場所にルカティウスの私室はあった。
西日を防ぐように背の高い塔がルクス宮のそばにはあり、そこに見張りの兵も配されてはいたのだが、空中庭園に植樹された木々の茂みが、上品にも巧みに視線を遮ってくれている。
立ち入りも特別に許された近習を除いてはほかにない。
周辺諸国から完全に落日の帝国と目されているビブロンズ帝国の皇帝は、あえて護衛を配そうともしなかったらしい。
極めてプライベートな空間なのであった。
なのにイズマは他者の個人的な心のありさまの反映である庭園をしてこう言ったのだ。
「隠れるのに最適じゃね?」と。
なるほどたしかに、このヘリアティウムにおいて皇居の庭というのは身を潜めるに優れた立地であったかもしれない。
だが、たとえそれが真実だろうと、そんな発想に至るのは頭がどこかおかしい人間だけだとスノウは思う。
「しかし、この難しい時間帯によく仕掛ける」
「影の方向も、落ち具合も計算に入れてのことですな」
「夕刻から黄昏どきは光線の具合で視認性が落ちるのは確かだ。だが、影も長く伸びる。今日のような快晴時は必ずしも潜入任務に向いているとは言い難い」
「だからこそ仕掛ける、という発想でしょうな。イズマ殿らしい」
だが、そんなスノウの憤慨など意に介した様子もなく、遠ざかる不埒な男の背中を見ながらノーマンとバートンは惚れ惚れしたように言うのだ。
「そんなに難しいんですか?」
「難しいですな。この状況で仕掛けるのはクレイジーというのが、評価としては正しいかと」
「難しい。わたしなら日没を待つ」
問いかけには異口同音の答えが返ってきた。
「そうなんだ」
主人であるアシュレが全幅の信頼を寄せる男たちのふたりの評価であるにもかかわらず、どこか釈然としない様子でスノウはつぶやいた。
その様子にふふふっ、と男たちふたりがちいさく笑う。
人払いの結界が張り巡らされた月桂樹の樹の下は、陣取ってみれば、なかなか居心地のよいシェルターかつ観測所である。
イズマに言わせると「転移系・呪殺などの攻撃型呪術系・超常捜査系を阻害する結界が張られた城塞の真上はまさに盲点なんだよね」ということになる。
「さて、いまのうちになにか口に入れておこうか」
「そうですな。あまり匂いのきついものはイケませんが」
「じゃあ、これ」
そして、このような待機任務というのは弛緩しすぎても緊張しすぎてもいけない。
出番が来たときに最大限の能力を発揮するためにも、また不随意な肉体の動き……ありていに言えば腹の虫を制御するにも適切な食事と水分補給はかかせなかった。
スノウが取り出したのはクセのない白チーズと、水で戻してやわらかくした乾燥果物をサンドした黒パンだった。
それが人数分、清潔な布に包まれて姿を現す。
「おお、よいですな」
「いただこう」
「ただいま。あ、おいしそうなもん食べてんじゃん、ボクちんにも頂戴」
一行がサンドイッチにかぶりついた瞬間だった。
なんという素早さか。
イズマが任務を果たして返ってきた。
「早い」
「そりゃそうですよ。どんだけ下見に時間かけたと思ってんの。楽勝楽勝」
目を剥いて驚くスノウの手からサンドイッチを受け取るとイズマは言った。
「犬などは配されてなかったのか」
「んー、いたよ。おっきいのが二匹」
「どうやって躱されたので?」
「どうって……仲良くしてきたけど。というか午睡の時間かと思ったんだけど、さすがにそれはなかったわ。この状況でぐーすかぴーとは眠れないよね、ふつう。おかげでやりやすかったデス」
矢継ぎ早の質問を当たり前のごとくいなし、イズマはサンドイッチにかぶりつく。
「あ、これうめーわ。スノウちゃん、いいお嫁さんになれるんじゃね?」
「お、お嫁さん。ナ、ナゼいまそのような話題を」
ここが敵陣最深部であることを完全に忘れているかのようなイズマの発言に、スノウは面食らった。
なぜって、その言葉を聞いたとたんにある人物の笑顔が頭のなか一杯に広がってしまったのだ。
ふぬぬぬ、と自分でもよくわからない音声が口から出る。
「いやまじで、家事もけっこうできるんでしょ? エレとエルマから聞いてます。助かったって。その点、姫は家事スキル全般が壊滅的だからなー。かまどとか鍋とか爆発するし。まあ、そこを呑み込むのも男の甲斐性ですけれども」
「やはり、家事力は大事ですか」
「あーまー、ないよりあったほうがいいよね。スノウちゃんって正直ビジュアルはすごいかわいいんだけど、ボクちんのまわりは美人多いからナー。そこに来るとアテルイちゃんとか、掴んでるね、胃袋を」
「胃袋、で掴む」
「武器は多ければ多いほどいいからね。たとえばこのサンドイッチなんだけど、ボクちんとしたらガムガリュッチをカリッと揚げ焼きにしたヤツなんか挟んでもらえると、さらにいいだろうね」
「が、がんばりっち?」
なんですかそれは、と目を丸くして問うスノウに、それはねえとイズマはもったいをつけた。
そんなふたりの袖をなぜか素早くノーマンとバートンが引いた。
イズマの側をノーマン、スノウの側をバートン。
「んあ?」
「なんです?」
事態が呑み込めないでいるふたりの前で、ノーマンとバートンが顔をしかめながら手を振った。
やめておけ、というジェスチャーである。
懸命な判断である。
ガムガリュッチというのはアラム圏では巨大なゾウムシの幼虫を指す隠語である。
暗黒大陸経由なのか東側の交易路経由なのか定かでないが、ともかくバナナやヤシ科の植物の大害虫であるこの昆虫の幼虫は……あー、土蜘蛛たちの間ではかなりの嗜好品として扱われていた。
すこしだけ余談を挟むと、アラムの教典にはイナゴなど数種類の昆虫に関してはこれを食してもよいことがハッキリと明文化され記されている。
これら食用昆虫はアラムの庶民、特に下層民たちが(堂々とではないが)口にするもので下町の市でひっそりと取りあつかわれている商品ではあったのだ。
そこでガムガリュッチである。
たしかにその味わいは脂質に優れ、揚げ焼きにしたときの表皮の香ばしさと中身のクリーミーさは西方世界の庶民の食事などよりはるかに優れていたのであるが……。
エルマの料理に悲鳴を上げていたスノウを相手に触れていい話題ではなかった。
「……え、話すなって? ガムガリュッチはダメ? おいしいのに。まいっか。ともかく、スノウちゃんはがんばってるよ」
ものすごく大ざっぱにイズマは話題を中断したが、がんばっているのひとことにスノウはえへ、と照れ笑いを浮かべた。
イズマは騎士に憧れる少女のそんな様子を微笑んで見守る。
だが、その瞳は笑ってなどいない。




