■第六四夜:抱擁とお別れと
「やっぱ危ないかなって──なんだよそれは、どんな理屈だ」
武具を装着しながらアシュレはつぶやいた。
日はさらに傾き、空の色が急速にあせていく。
夕日を浴びて金色に輝いていた雲が、徐々にその光を失う。
ちらちらと星が瞬きはじめるのが見える。
夜が来るのだ。
「だが、イズマの言にも一理ある」
「それにしたって」
アシュレの着付けを手伝っていたのはシオンである。
他の家事はからっきしだが(恐ろしい破壊がかなりの確率で起る)、武具の着付けとお茶を点てることに関してはシオンはかなりの才能を示した。
これから戦場に赴こうかというアシュレにとっても心を通わせた夜魔の姫と準備を進めていくことは、集中力を高めるための儀式でもあったはずだ。
それなのにこんなことに心乱されている。
ふー、とシオンが息をついた。
「戦争状態に陥った場所に赴くというのは、一種の運試しのようなものだ。特に定命の者たちにとってはそうであろう。実力があったからといって生き残れるわけではない。それはすこしは確率が違おう。タダの人間と《スピンドル能力者》とでは戦闘能力や異能以前に運気からして異なっていてもおかしくはない」
なにしろ人類圏での《スピンドル能力者》の発現率は一〇〇〇〇分の一だそうではないか。
アシュレの甲冑の留め具を点検しながらシオンが言った。
「ただ、それも考えものだ。《スピンドル能力者》は《スピンドル能力者》と対峙する運命にある。一般人には決して訪れることのない数奇で過酷な運命との対決だ」
それを勘案すると、
「実際のところはあまり変わらんのではないかな、戦場で死ぬ確率というのは」
「だからって」
「そなた……なんど死にかけた?」
反論しようとしたアシュレをシオンの指が先んじて封じた。
思わずアシュレはこれまで死にかけた回数を数えた。
《スピンドル》の覚醒時を勘定に含めるとたぶんだが、片手の指の数は軽く死にかけている。
というかほとんど死んでいた案件が……三度はある。
な、とシオンが諭した。
「ここまでそなたが生き延びてきたのこそ、ほとんど奇跡なのだ」
「でもさ、だからって潜入班はないよ」
「そうかな。わたしにはイズマの主張こそもっともに聞こえる」
深いシオンの紫色の瞳に見つめられ、アシュレは言葉を失った。
イズマの主張を要約するとこうなる。
《スピンドル能力者》として未熟なスノウを乱戦、あるいは乱戦以前の混乱した市街に放り込むことは危険すぎる。
真騎士の乙女たちのような飛翔能力、土蜘蛛たちの雲猿風脚は言うに及ばず、人類が習得できる移動能力強化の切り札:疾風迅雷すらスノウは習得できていない。
なんどか試みたものの《スピンドル》の回転はやはりアシュレの手助けなしでは安定どころかそもそも始動せず、この短時間では異能の習得には至らなかったのだ。
「安定期に入ったとも考えることもできるんだけどネ」
「疾風迅雷は夜魔の血筋とあまり相性が良くない。そのせいかも知らんが」
ひとことめがイズマ。
ふたことめがシオン。
それぞれのスノウの資質に対する評価である。
とにかく大挙する群衆から一挙に距離を取り混乱から脱出するための手段を、スノウはまだ習得できていなかった。
「そのたんびに、ボクがかけ直せば済むことじゃないか」
アシュレはそう言い張ったし、なぜかそのときだけスノウの瞳が喜びに輝いてはいたけれど……。
「それがどんなに無謀なことかはわかるよね」
イズマにたしなめられ、アシュレはまたへの字に口を曲げた。
「混戦時・乱戦時は言うまでもなく、高空から都市を蹂躙できる真騎士の乙女たちにとって真に有効な反撃手段を持っているのはアシュレ、キミだけなんだぜ? そりゃ地表すれすれの戦いに彼女たちが応じてくれれば姫やエレの手だって届くだろうけどサ」
イズマが右手でアシュレを、左手で真騎士の乙女たちを表しながら説明する。
「キミは単身か、ヴィトライオンに乗って疾風迅雷の加護を得た状態で高速で動き回りながら彼女たちを狙い撃ちにしなくちゃならない。そんな状況下で、スノウちゃんの面倒までは見れないでしょ」
「ボクの後ろに乗っていれば」
「アシュレくん、わかってる? 真に有効な迎撃手段を持っているのがキミなんだとしたら……真騎士の乙女たちの頭がよっぽどかトリ頭でない限り集中砲火で狙われるのキミだよ」
「じゃあ、シオンの側に」
「広範囲殲滅攻撃を得意とする姫の側に配置したらどうなるか」
「それなら、エレさんやエルマが」
「彼女たちは本来、機動力戦闘を第一とする。というか、ボクちんが異常にタフなだけで持久力はあんまりないんだぜ、土蜘蛛って。で、足の速さを活かした撹乱戦法を得意とする兵種に拠点防御みたいな仕事をさせるの? 足を止めて撃ち合うっていう限定空間での戦いならともかく、そんなの狙い撃ちだよ」
意見のことごとくを論理的に打ち負かされて、アシュレは喉を詰まらせた。
「でも、だったら」
「だからこそさ。潜入班つったて、実際に切り込むのはボクちんとノーマンの旦那のふたりだけ。非《スピンドル能力者》のバートン爺ちゃんとスノウちゃんは近場で待機。なにか動きがあったら対処してもらうプランだからさ。アイテム使っての陽動とか」
「でも、それだって市中であることは変わりないじゃないか」
「いつでも逃げれる状態でスタンバイしてるのと、渦中からなんとか逃げ出すのは天地の差だよ、アシュレくん」
不満げに黙りこくったアシュレを見て、イズマは面白そうに肩眉を上げ目を三日月のカタチにした。
「なんだい、もしかしてアシュレくん……かなりご執心なのかな?」
「彼女の保護者・騎士として、だよ」
「ふーん、こちらこう仰ってますけど、ねえ?」
いきなり話を振られて、背筋をびくんっ、と伸ばしたのはスノウである。
なぜか顔を真っ赤にして、はにかんだ様子で床を見つめていたところであった。
「スノウちゃんはどうしたいの?」
「わ、わたしはっ!」
反射的に口をつきかけた言葉を、たぶんこのときスノウは呑み込んだんだと思う。
スノウを見つめるイズマの瞳が笑ってないのに気がついたのだ。
「わ、わたしは……騎士さまの……わたしのご主人さまの……あ、アシュレさまの足手まといになるのだけはイヤ」
「そう、そうなの、そうなんだわ」と何度も自分に言い聞かせるように繰り返すスノウ。
イズマは感動したように深く頷いた。
アシュレはその様子にまず驚き、次に諦めたように長くため息をついた。
「なるほど。ボクはちょっと冷静さを欠いていたかもしれない。たしかにイズマの言う通りだ。それにスノウの心がもう決まっているなら、それを覆す権利はボクにはない」
わかった、受諾した。
それだけ言うとアシュレは立ち上がり、午後の中庭を去ろうとした。
戦列の変更をいち早く自分が率いる部隊に報せるのも戦隊を預かる者の使命だ。
だから、イズマは止めない。
ただ決行の予定時刻を報せただけ。
今後の連絡はエレ、エルマ、バートン、そこにスノウが加わった四人による主にアイテムを用いた簡易的なものに限定される。
入り組んだなにかを伝えるなら、この瞬間をのぞいてほかになかった。
そっ、とアシュレに駆け寄り袖を掴んだのはスノウだった。
振り返ったアシュレの腕のなかに小柄なスノウのカラダが収まる。
「スノウ」
アシュレは名を呼び、彼女を抱きしめる。
「あの……」
「ん」
抱き返していいものかどうか迷った指が、意を決してアシュレの腰に回された。
「わたし、あの……」
「うん」
「実は……もうすぐ……」
「もうすぐ?」
なにか伝えるべきことがあるのだろうと身構えたアシュレはスノウの様子に戸惑った。
耳まで真っ赤になった半夜魔の娘は、なぜかもじもじしている。
「どうしたの?」
「わたし、もうすぐ成人するんだけど」
おお、とイズマとアシュレの口から同じ音が漏れた。
なおゾディアック大陸において各国ごとに多少の差はあるが十五歳が平均的な成人年齢である。
「おめでとう」
アシュレは模範的な解答をした。
「こんどなにか……この戦いを潜り抜けたらお祝いしなくちゃ、だ」
だから、続くスノウの言葉の意味をうまく理解できなかった。
「あの、だから……大丈夫だから。その、いろいろと帰ってきたら──はい」
アシュレはこのとき、スノウの発言を「自分は大人になるのだからあまり心配したり世話を焼かなくてもいい」と言われたのだと理解した。
付き合いは短いが、ひとりっこであったアシュレにとっては妹の自立を見るようで、誇らしく思えた。
もちろんだが、完全に間違えていた。
「わかった。じゃあ、しっかりたのむよ」
「は、はい。え、えと。が、がんばる、ます」
ぎゅっと強くスノウを抱きしめたアシュレに、半夜魔の乙女は急き込んで答える。
これがふたりがふたりのままで言葉を交わした最後の刻になった。




