■第六二夜:ヒトは群れなして
大帝:オズマヒム率いるオズマドラ本国軍の威容が確認されたのは、その日の午後のことである。
これはアシュレとスノウが連れ立ってイズマを訪問し、そののち戦隊の意志を確認して、来る決戦に向けての最後の準備を整えていたころと重なる。
市中はこれまでにない混乱に陥った。
無理もない。
実際に布陣を始めた二十万の軍勢を目の当たりにして平静を保てるものはそう多くはない。
まさに見渡す限りの大地を埋め尽くす空前の規模の大軍は、見る者に無言の決断を迫るものであった。
ヘリアティウム市民のオズマドラとの開戦に関するこれまでの態度は、大きく三つに分類できた。
まずひとつめは主戦論者たちである。
これは西方、エクストラム正教を信奉する聖職者や原理主義的な傾向の強いエスペラルゴの──移動宮廷を率いて闘う若き軍人皇帝:メリセナリオの旗を掲げる──商人たちである。
彼らは口々にオズマドラ軍の過去の所業を列挙し、徹底抗戦を呼び掛けた。
なにより西方で起きすでに進軍を始めているという十字軍との連携によって、アラムの軍勢をこの地から一掃する好機であると説いた。
しかし、彼らはヘリアティウムにおいてはごく少数派に過ぎない。
まず東と西、同じイクス教とはいえヘリアティウム市民の大多数がアガナイヤ正教を信奉している事実がある。
いっぽうでエクストラム派の聖職者はいうに及ばす、エスペラルゴの民はエクストラム正教原理的信仰の急先鋒である。
この時点で大きな溝が二者にはあった。
なによりエクストラム派の主張の背後には、東西ふたつに分けられてしまっている現在のイクス教のあり方を問い直し、エクストラム法王庁の主導の下でこれを合一すべきだという考えが透けて見えていたのだ。
ふたこと目には彼らの口をつく「信教の東西合一」というスローガンを、ヘリアティウム市民は迷惑げに顔をしかめ遠巻きに眺めていた。
これにはやはり、ごく短い期間だとはいえ過去、十字軍の進駐を許した件がある。
金品や文化、古代からの遺産だけではなく、こんどは信教まで取り上げようというのかという思いが彼らヘリアティウム市民にはあった。
それは敵対者であるはずのオズマドラとその国教であるアラム教が、支配地域で取ってきた他の宗教に関する姿勢も無関係ではない。
異教は邪教と判断しがちなエクストラム正教のスタンスに対し、所定の年貢金を収めているなら、そして実際の邪教でないのであれば属領の民がいかなる神を信じようと構わないというのが、この当時のアラム教の基本的な態度であった。
布教せず、強制せず、来るものは拒まず、去る者は追わず。
もちろんさまざまな場面で信教の違いを発端にそれなりの問題は起るのだが(市井における婚姻などがそのよい例である)、それにしてもアラム教は他の信教に対して極めて寛容な教えであった。
あるいはそれはオズマドラという国の方針であったのかも知れないが、それにしてもだ。
おそらく、改宗を強要されるのは近衛隊に編入される若い少年少女たちくらいのものではないだろうか。
歴史を紐解けば、ハーレムに入れられた妃たちのなかにも、あるいは皇帝の側近のなかにもイクス教徒がいたという実例がいくつもある。
それに比べるとアラム教の脅威を金切り声で唱える主戦派たちの姿のほうが、よほど「狂信的」に市民の目には映っていたのだろう。
信教の自由を失うくらいならむしろオズマドラに下ったほうが良いのではないのか、という気分も密やかではあるが決して冗談としてではなく伏流水のごとくにあったのだ。
ふたつめは現実主義者たちである。
これは主に西側のなかでも商業都市国家同盟の商人たちだ。
彼らは比較的にしても早い段階で、個人レベルはともかく国家レベルではオズマドラ皇帝:オズマヒムの計画を察知していた人々である。
特に同盟の盟主であるディードヤーム共和国の動きは素早かった。
共和国議会内に存在する特殊諜報機関にして最高意志決定機関──十一人委員会が情報を掴むや否や、にわかにそして密かに特使たちがディードヤーム本国とオズマドラ帝国の間を往き来しはじめた。
先だってのアシュレの評にもあるように、ヘリアティウムは東西貿易の要である。
大した領土を持たず、一国の人口も最大で四〇万人という小さな国の集まりである商業都市国家同盟にとって、販路たる海路と商業拠点こそが命綱なのだ。
比較材料としてだが、かつてのヘリアティウムは首都とその近傍の農村地帯だけで一〇〇万人、ビブロンズ帝国最大領域時の総人口は二〇〇〇万人を優に超えていたことも併記しておこう。
現在のオズマドラ帝国はその規模に迫る勢いを持っている。
そのような大国と小さな商業国家の集まりでは生き延び方が変わってくるのは必然というものだ。
具体的に言えば、彼らはヘリアティウムを失うこと──正確にはヘリアティウムにおける自分たちの販路を失うことだけは、なんとしても避けなければならなかった。
それゆえ両国を往き来する特使たちは最上級の権限をあたえられた全権委任大使、それも各国選り抜きの交渉巧者に限られた。
おもしろいことに後の記録を見ていくと、大帝:オズマヒムの動きそのものは寝耳に水というわけではじつはなかったらしい。
真に仰天というのであれば、むしろ新法王=少女法王と言われたヴェルジネス一世による十字軍の発布のほうだろう。
こちらにはほんとうに驚いたらしく、ディードヤーム共和国の議員のひとりは報せを聞いて椅子から転げ落ちたという記録がある。
まあつまるところ、商業都市国家同盟の商人たちは去年の暮れの段階である程度はこの事態を予測し、年が明けるや否や対応策に乗り出していたのだ。
アシュレたちが雪に閉ざされたトラントリムで数奇な運命に翻弄されていた間にも、世界は慌ただしく動いていたということだ。
内々だが、すでにオズマドラとは通商条約の堅持の約束を取りつけた国も実はあった。
そういえば入国時に見た商人たちの、気ぜわしくはあっても、どこか余裕のある働きぶりは通商条約の堅持が確約されていたことに起因していたのかもしれない。
それにしても、やはり彼らの立場が微妙であったことは否めない。
生業が貿易商人だろうとなんだろうと、商業都市国家同盟の面々はエクストラム正教を奉ずるイクス教者であることもまた間違いがないことなのだ。
実利面はともかく社会的立場というものが彼らにもある。
かといって、通商条約の件で面と向かってオズマドラへの宣戦布告をすることを許されない彼らは特使を駆使してこれまでと変わらぬ通商条約継続の約束をとりつけつつも、少女法王:ヴェルジネス一世の要請に応じて戦争の道具を調えることでイクス教者としての体面を保った。
事実、開戦までの約五ヶ月の間に、商業都市国家同盟は法王庁から求められた十字軍艦隊約二〇〇艇を納期通りに仕上げて納品している。
これはディードヤーム本国の洋上に浮かぶ巨大造船所:アルセナーレだけで大型軍用ガレーシップならば三日に一艇、高速の小型ガレーならば、ほぼ一日に一艇がロールアウトしていたという計算になる。
同盟の他国の造船所もフル稼働していたはずだが、ディードヤーム共和国のそれには到底及ばない。
この当時の大型軍用ガレーシップで漕ぎ手が約二〇〇名。
戦闘要員が漕ぎ手とほぼ同数で定数だというから、それら人員を載せてあまりある船体を三日ごとに一艇進水させる──その生産能力がいかに凄まじいか理解できるであろう。
それだけではない。
造船に生木を使うわけにはいかない。
これは自国製造量だけで二〇〇艇という大艦隊の建材を賄うだけの木材がすでに備蓄されていた、ないし充分に乾燥を経た材木がいずこからか買いつけられたということだ。
これだけの大艦隊である。
ある地方の山々が──ひとつやふたつどころではない──ぐるりまるごとハゲ山になったことであろう。
常人の想像を遥かに超える商業国家の底力というほかあるまい。
商業都市国家同盟の面々は、強硬な少女法王の要求と教義を盾に取った訴追の危機をこうして躱してみせたわけだ。
これが商人の国の政治である。
さて三つめ、つまり最後のひとつは楽観視型である。
現在のビブロンズ帝国つまりヘリアティウムは、数年ごとにオズマドラと平和条約を締結・更新し続けている。
最新の条約更新は、昨年の秋。まだ一年と経っていない。
アシュレの分析ではないが、この状況下で莫大な年貢金を毎年滞りなく収め続けている同盟国に対して、いきなり戦争を仕掛けてくるとは考え難いというのが楽観視型の大勢を占める見解だった。
なおヘリアティウム市民の大多数がこれに当たる。
ビブロンズ帝国大帝:オズマヒムの評判がその憶測を後押ししていた。
アラムの地が生んだ大英雄。
“東方の騎士”の名は遠く西方諸国にさえ鳴り響いていた。
法と正義を愛し、情にも理にも通じた大帝はヘリアティウム市民にも人気があった。
すくなくとも西側の法王や枢機卿たちよりは明らかに民衆に好かれていた。
なにより、大帝とビブロンズ帝国皇帝ルカティウスとは親交と呼べるほどの付き合いがあった。
オズマヒムが送った親書にある「親愛の情をもって、義父と敬愛する」の文言は形式だけのものでは実はない。
歴史と伝統に彩られた“もうひとつの永遠の都”:ヘリアティウム。
その地を統治し続けてきた皇帝の血筋にオズマヒムは敬意を抱いていたし、なによりも文人皇帝:ルカティウス本人の深い教養と落ち着いた人柄を愛してもいた。
妻を失い、その反動で皇子:アスカリヤに蟄居を言い渡したオズマヒムにとって、ルカティウスはある意味で対等に世界についての見解を話しあえる、唯一の相手ですらあったのかもしれない。
アラムの史書には夜更けまで話し込むふたりの記述が、幾度か現れる。
そんな親子ほども歳の離れたふたりの関係をなんと表現すべきかは迷うところだが、すくなくともそこには圧倒的な権勢を誇る支配者とその属国の君主という対比はなく、立場は違えど志を同じくした──同志にも似た空気があったという。
そして、文人皇帝のほうもまたオズマヒムと同じくらいに民草には好かれていた。
事実、白馬に跨がりビブロンズの皇帝色である紫のマントを翻しつつ、市井の者にも親しげに声をかけるルカティウスを悪く言う者はヘリアティウム市民のなかには、ひとりもいなかった。
いまや世界に冠たるオズマドラ帝国の大帝が個人的な謁見を求めるほどの人物として、どんな階級の人間であろうとも、ルカティウス本人を知る者であれば一目も二目も置かれていたのである。
だから、そのふたりがぶつかりあうことだけはあるまい、とヘリアティウムの民はどこかで信じていたのだ。
しかし、この夜を境に主戦論者、現実主義者、楽観主義者、それぞれの思惑が段階を追って打ち砕かれることになる。




