■第六一夜:嵐のなかへ
「さーて、そんじゃあ特級のお茶でもご馳走しましょうかね。たぶんだけれど、今日をのぞいたら、もうこんなにゆっくりとした時間はしばらく取れないだろうからネ」
茶器を揃えながらイズマが言う。
アシュレもスノウも応えない。
言葉の意味がわからなかったからではなく、そんな予感と覚悟がすでにあったからだ。
そして、それは数時間後には現実のものとなる。
「イズマ──この間の夜中のヤツもそうだけれど。今朝のあの嵐、遠かったけれど間違いなく普通じゃなかった」
アラム式の茶を振舞うイズマを前に本題を切り出したのはアシュレだった。
うん、とイズマは茶葉の薫りを嗅ぎながら頷いた。
「そうだね。間違いなく異常だ。この時期に、洋上ならともかくも森のなかであんな巨大な嵐がいきなり生じるってのは……まあ考えられないことだね」
グラフベルドを襲った巨大な暴風雨の一件はすでにヘリアティウムでも話題になっていた。
というより、その様子はヘリアティウムの城砦や塔の上からも観測されていた。
数千年の月日に耐えた水道橋の一部が破壊され、森の木々が根こそぎ引き倒された。
人的被害がなかったのは奇跡だと市民たちは囁きあった。
「黒曜海の守護者:シドレラシカヤ・ダ・ズーの怒りに何者かが触れたんだ、ってウワサで持ちきりさ」
熱々の湯を注ぎ赤い茶が抽出される間に、イズマは茶器にハーブを摘めていく。
これは原則として飲酒を禁ずるアラムの作法である。
そのかわり、この時代貴重品であった砂糖と紅茶を惜しげもなく用いる贅沢な趣味でもあったわけだが。
「でも市中が騒がしいのは、それだけが理由じゃない」
「うん。わかってる。聞こえてきているよ。ついさっき使者があった。オズマドラの大帝からの正式なね」
無言でアシュレは頷いた。
イズマも同じくする。
ここまできて大帝からの正式な使者となれば、その内容はもうたったひとつだけだったからだ。
「ついに始まるんだね」
流れるような手際で茶器に注がれる紅茶を眺めながらアシュレはつぶやいた。
「宣戦布告。ついに開戦か」
どうかなあ、とイズマは手元に目をやったまま応じた。
「そんな単純な話ではないみたいだけどね。むこうの口上から受ける印象は……」
「まさか聞いたの? 読んだの? 文面を?」
「まさか。送られてきたんだよ、写しが。アスカ殿下から」
たっぷりとハーブの詰められた茶器を差し出しながら、土蜘蛛の男はささやいた。
「そうか。さっきのハヤブサは──アスカか」
なるほど、とアシュレは合点した。
ハヤブサの見せた愛情表現の仕草についてである。
むー、とスノウが唸る。
その様子をちらり、と片目で確認してイズマは懐を探った。
「うん。これ、オズマドラの大帝:オズマヒムの口上の写し」
ハヤブサが運んできたという手紙。
芳香を発する茶には口もつけず、手渡された書面に目を通そうとしたアシュレの手が止まったのはそのときだ。
書状の内容以前に、アシュレは驚愕を覚えていた。
それは紙質のことである。
「すごいな、これ。紙からして普通じゃない。羊皮紙じゃない。パピルスなんかでもない。不思議な感触。こんなに薄くて軽いのに、強靭だ」
「ビブロンズ皇帝と謁見した勅使が持参した書状も同じ紙質だったか、あるいはこれ以上だったろうね」
宣戦布告の口上も気になったが、アシュレはまず使われている紙の質そのものに目を瞠った。
西方世界ではいまだに羊皮紙が記録媒体として主流である。
もちろんその質は過去のそれとは比べ物にならないほどに向上してはいるのだが、いまアシュレが手にした書状は文字通りモノが違った。
軽く薄くなめらか、それでいて充分な強度を持つ上質な紙の存在は、その紙を使う文明圏の書籍そのものの質やサイズ、重量を想像させずにはいない。
これほどの紙が大量に生産できるのであれば、書籍を小型化することも軽量化することもたやすいだろう。
わかりやすく言えば、それは知識や記録の携帯を圧倒的に楽にするということである。
アシュレはまずそこに驚いたのだ。
「文化レベルの差を思い知らせるのに、これほど効くものはそうないだろうね」
「文人皇帝と名高いルカティウス十二世相手ならなおさらだね」
西方世界の書籍といえば一抱え、重量も鞘付きの長剣に勝るのが普通だった時代だ。
やりとりを交わした両陣営代表の顔を思い浮かべつつ、アシュレとイズマは溜め息をついた。
「あっつ!」
そんな大人たちのやりとりに退屈したのか喉が渇いたのか、熱々の紅茶に口をつけたスノウが小さく悲鳴をあげた。
あわてて茶器をテーブルに戻す。
小さな笑いが場に起る。
「受け皿にすこしずつ受けて飲んでもいいらしいよ」
そんなスノウの茶器に砂糖を足してやりながらイズマが言った。
「でもさ……こんな宣戦布告ってあるかい。見たことも聞いたこともないよ」
テーブルに書簡を投げたのは、その間に文面に目を通していたアシュレだ。
「そうだねえ。文面だけ見てると、宣戦布告というよりこりゃ相手の窮地を救おうっていう親書にしか見えないもんね」
両手を頭の後ろで組んだアシュレに、手元に紅茶を引き寄せながらイズマも同意した。
そこに記されていた内容を要約するとこうなる。
オズマドラ帝国の現皇帝:オズマヒムは、ビブロンズ帝国の現皇帝であるルカティウスに帝国の統治権を委譲するよう求めた。
ただそれは武力によってビブロンズ帝国を攻め滅ぼそうという意図からではなく、エクストラム法王庁現法王:ヴェルジネス一世が発布した十字軍に対しての行動の一環であり、東方諸国ひいてはビブロンズ帝国そのものを守るためであるとされた。
宗派は異なっても同じイクス教徒であるビブロンズ帝国領土を信仰の守護者であるはずの十字軍が攻めるというオズマヒムの想像は理屈が通っていないように思えるが、実は歴史的にはすでに事実としてある。
というよりも、過去の十字軍によってヘリアティウムは進駐を受け、わずかな年月であるが占領下に置かれた過去がある。
その歴史的事実といかにして十字軍が撤退したのかを紐解きはじめるとあまりに長くなるので割愛するが、なかなかに酸鼻を極める──記録に残すのをためらわれるような状況であったらしい。
このとき失われた歴史的遺産の価値は、第二の統一王朝滅亡と喩えられたくらいだ。
結論としては、異教徒の廃絶を掲げてヘリアティウムに進駐した十字軍は略奪と暴行の果てに「我を失って」撤退したと記録されている。
オズマヒムはその過去をちらつかせながら、すでに老境にある文人皇帝を労る文面で帝国の統治権と軍事による防衛行動を認めるよう迫ったのだ。
その内容は、一見にはまるで詩文にしか見えぬほどおだやかで洗練されていた。
「親愛の情をもって、義父と敬愛する皇帝陛下に申し上げる。苦難の時代にあって、双肩にのしかかる重責をともに担わんと欲す。我、御身の盾と矛とならん──これって、そのまま読んだら、義父同然のあなたを助けさせてくださいって意味になるものね」
「国家には肉親もなければ、友人もないけどね。その意味では非常に洗練されたやり口だとは思うけど」
書状に記された結びの一文を読み終え、ようやく茶に口をつけたアシュレにイズマは微笑んだ。
「そんなふうに割り切るのは……ボクにはまだ難しい」
どんなに親愛の情にあふれているように見えても、オズマドラ皇帝:オズマヒムがビブロンズ皇帝:ルカティウス十二世に対して送った書状は脅迫文だ。
西側から押し寄せる十字軍の脅威をちらつかせながら、国家そのものの自治独立を譲り渡せとオズマヒムは迫ったのだ。
刃を交え血を流すことなく“もうひとつの永遠の都”を引き渡せと言ったのだ。
絶対的強国としての立場を利用した駆け引き──これはもう強請りと表現するべきだろう。
それくらいはもうアシュレにだってわかる。
だが、いま胸中を吹き荒れる複雑な感情の正体は、それだけが原因ではなかった。
すでにアシュレはオズマヒムとその背後に暗躍する真騎士の乙女たちの思惑についても、アスカを通じてかなりのところまで掴んでいた。
だから、わかってしまったのだ。
書状に隠された本当の思惑、本当の《ねがい》が。
オズマヒムと真騎士の乙女たちは究極的には人類世界のことなど、どうとも思ってなどいない。
ただ、自分たちの信じる絶対的な正義、不純と矛盾を消し去った完全なる秩序世界の到来こそが真の目的なのだ。
そこに至る過程で人類世界がどのような結末を迎えようと、彼ら彼女らは一顧だにしない。
なんの後ろめたさもない。
罪の意識もない。
自分たちの基準に適わぬものなどどうなろうと構いはしない。
それを独善と言わずしてなんというのか。
たぶんこのときアシュレは、東方の騎士と讃えられたオズマヒムの行いに、どこかで人間として矜持を期待していたのだ。
ひとりの人間として、国を治め民を導く者の責任において、しかし己の野望を自覚しつつ、手を汚すと決めた男としての振舞いをどこかで信じていたかったのだ。
オズマヒムという男の決断──《意志》の痕跡を見たかったのだともそれは言える。
だが、そこにあったのは己の掲げた理想を疑おうともしない陶酔だけだった。
いたわりに似せて相手の人間性や歴史を軽んずる薄っぺらい正義。
アスカとその母君との過去を利用して、それを吹き込んだ真騎士の乙女たちのやりくち。
それらすべてに吐き気を催すような作為を感じた。
だれかの描いた歌劇の脚本にすべてを任せた人間だけが持つことのできる巨視的視座。
そこから見える景色に他者を下等と侮り、善導しようという傲慢。
神を気取るがごとき振舞いに対する人間としての反抗心が、アシュレのなかで嵐のように吹き荒れていた。
いっぽうで、そんなアシュレの心中を見抜いたのか、イズマは笑みを広げる。
おもしろそうに目を細める。
「でも、キミもここが仕掛けどころだと思ったから──今日、来たんでしょ?」
図星を突かれてアシュレは大きく溜め息をついた。
そのとおりだった。
皇帝:ルカティウスの執務室に挑戦状を叩きつけ、その精神的動揺を使って魔道書:ビブロ・ヴァレリへの秘密の経路を暴くというイズマの計画を実行に移すとしたら、今日このときしかないとアシュレは確信したのだ。
だからここに来た。
ただ、それを言い当てられることには罪悪感があった。
要するにこれもまた脅迫の計画だからだ。
ただ一点、違うのは、アシュレには己が己の《意志》で持って手を汚すという決意があっただけのことだ。
「どうなの」とイズマが問えば「そうだけど」とアシュレは答えた。
試すようなイズマの赤い瞳に、アシュレは口をヘの字に曲げてそっぽを向いた。
そんな主の姿をスノウが不思議そうに見上げる。
アシュレの不機嫌の理由がまだよくわからないのだ。
イズマはさらに笑みを広げる。
いい感じに悪党になってきたな、という意味で。
計画はその夜、実行に移された。




