■第六〇夜:翼は報せ
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「いてててっ、ちょっ、痛いって言ってるでしょ! 味方、味方だから、ボクちんは! ついばまない! お肉を! 駄目だって、ちょっと、そこは駄目ェ!!」
さて、数日振りにイズマのアパルトメントを訪ったアシュレは、突然の展開に呆然とした。
時間軸的な話をすればこれはアスカがグラフベルドの森で蛇の巫女たちの神殿から帰還した朝と同日、その午前中のことになる。
アラム風の意匠を取り入れた泉亭を備える中庭で、イズマはひとり転げ回っていた。
自称:土蜘蛛の忘れられた王を襲っているのは、どこかで見覚えのある猛禽類=ソウゲンハヤブサである。
「あの……なにしてるのイズマ?」
にわかには状況が理解できず、アシュレは問うた。
「やあ、アシュレ、ごきげんよう! いやそうじゃなくて! 見たらわかるでしょ、襲われてるんですよ、ハヤブサに!」
アラム式の衣装に身を包んだイズマは、タイル張りの地面を転がりながら答えた。
ちなみにソウゲンハヤブサはたしかに獰猛な狩人だが、サイズそのものは猛禽の仲間のなかでは比較的にしても小さいほうだ。
市中でよく見かける鳩よりは大きいが、カラスより一回り小柄と言えば想像しやすいだろうか。
女性が腕に乗せていても大して負担には感じないほどのサイズと重量である。
イズマはその翼の持ち主に翻弄されていた。
パッと見、襲撃を受けているというよりも、戯れているというか遊ばれているという絵面である。
気をとりなおしてよくよく見ても、状況はさっぱり掴めない。
「いや、あの、なに遊んで……なんで襲われてるんです?」
「そんなのボクちんが知るかって、うわっ、ちょっ、まて!」
ハヤブサはイズマの顔面に猛攻を浴びせたかと思うと、土蜘蛛の男がメチャクチャに振り回した両手をかいくぐり、今度は狙いをアシュレに定めた。
「危ないッ! アシュレ!」
珍しくイズマが警告した。
猛禽の仲間としては小さいとはいえ、ソウゲンハヤブサは優秀なハンターである。
そのくちばしと鉤爪は、獲物の骨を砕き強靭な毛皮を切り裂いて肉をついばみ、引きちぎることのできる強力な武器だ。
人類といえど繊細な感覚器官の集中する頭部に襲撃を受ければタダでは済まない。
耳や鼻くらいなら簡単に引きちぎることができるし、まぶたや眼球に傷を受ければ致命的だ。
反射的にアシュレは腕をかざし顔面を守ろうとした。
そこへ、ハヤブサの鉤爪が──ふぁさ、と優しく舞い降りる。
恐れていたアタックは……ない。
どころかちょんちょん、と幼鳥のようにジャンプを繰り返して肩まで上ってくるではないか。
「アレッ? なんだか……ずいぶんとヒトに馴れていませんか、このコ」
拍子抜けしてアシュレが言う。
「いや、それはいかんでしょ。露骨が過ぎるでしょ。ソウゲンハヤブサって神経質ですごく扱いづらいコなんですよ、ホントは! こんなの差別じゃない。いいの、コレッ?!」
アシュレを母鳥と思ったか、あるいはつがいの相手かというような様子で身を寄せるハヤブサに、イズマは地べたから抗議した。
その様子に苦笑したのは、アシュレに同行してきたスノウである。
そんなかんじでハヤブサはひとしきりアシュレに甘えると飛び去った。
上昇気流を捉えては天高く舞い上がり、あっという間に視界没する。
「すごいな。お伽噺の真騎士の乙女みたいだ」
「まー、あながち間違ってないかな、そのたとえは」
相変わらず自重を感じさせない身軽さで跳ね起き、イズマはアシュレの感想をそう評した。
ぽんぽんとホコリをはたいて、向きなおる。
それからアシュレがいまの騒ぎの経緯を尋ねるより早く、話の穂を継いだ。
「それにしてもいいタイミングで来たね。言いつけ通り、玄関も勝手口も使わずに侵入できたみたいだし。事前に警告はしておいたけど仕掛けておいた警戒網にも引っかかってない。なかなかの手際だよ」
手放しに称賛されれば、さすがのアシュレも照れる。
「市街地での隠密行に馴れろ、っていうのも課題だったからね」
「アシュレだけでじゃなく、スノウちゃんまで連れて来れたのは上出来だね」
イズマはふたりを中庭に設けられた泉亭に案内しながら、あらためてふたりの来訪を褒めた。
作戦の実施に先立ち、イズマは戦隊の面々にいくつか課題を与えていた。
それはこの都市=ヘリアティウムが戦争状態に陥った際、あるいはそこを飛び越して戦場になった際に個々人の生存率を高めるためのカリキュラムだ。
特に隠密行動や市街地での行動能力があまり高くないアシュレとスノウには壁を乗り越えたり、あるいは普段は道と認識されない空間を発見し、これを走破する訓練が最重要課題として与えられていた。
「馴れたかい?」
「だいぶ。聖堂騎士から聖騎士に昇格する試験の前にエクストラムの街路を使った訓練をしてたこともあるし、シオンとはカテル島の路地で影踏みめいたリハビリもさんざんやったからね」
「でも、土蜘蛛的発想はまたちょっと違ったんじゃない?」
「鉤繩とか補助具の使い方もそうだけど……それまで道だとは思いもしなかった空間が通れる場所なんだって気がつくと街の見えかたが一変したよ」
アシュレはここ数日の出来事を思い出して言った。
「夜間には閉じられる街区ごとの門をどうやって掻い潜るかとかは、ホントに勉強になった」
うん、とイズマは頷く。
「戦時にはあすこが全部閉じられて、移動経路を塞ぐ仕組みだからね」
「エクストラム法王庁の周辺の街区も似た構造だけど……首都防衛戦闘なんて経験したことないからなあ」
この当時、それなりの規模の都市は周囲を守る城砦の内部で壁によって細かく区切られ、夜間はその門が閉じられて通行が制限されることが多かった。
これはイクス教圏ではわりと一般的な仕組みで、戦時にはそれぞれの街区の門が敵軍を食い止めるための防衛装置としても機能する設計だった。
その構造について熟知するということは、逆説的にこれを攻略する立場からすると戦場を下見するのに等しいという理屈だ。
イズマが隊を率いる司令官たるアシュレにこの課題を課したのは当然といえば当然だった。
「でも、訓練の到達目標点がサウナだったり、花街の楼閣だったりするの──どうにかならなかったの」
訓練の目的と成果について語る男ふたりに抗議するようにつぶやいたのはスノウである。
イズマは訓練のコースを指定する際、最終到達目標を必ず設定した。
それ自体は適切な、むしろ指導教官としては先見の明ある指示である。
問題は指定された場所そのものだった。
「えっ、だって……ご褒美がないと訓練は効果が薄いからサ」
「わたし、あんなの──エッチなのはいけないと思う!」
「ええー、それはどうよ? ねえ、保護者であるところのアシュレくん」
保護者であるところの、と話を振られて、アシュレは苦笑した。
たしかにこの訓練の到達目標地点が、女性専用の蒸し風呂や繁華街の娼館を指定されているのを知ったときは、アシュレも面食らったものだ。
だが、冷静になってみればどちらも情報交換の場としてはこれ以上ないロケーションである。
アラム式の茶屋:チャイハネは男たちの社交場だが、蒸し風呂は女性たちの、そして娼館は男女の語らいの場である。
イズマはそういう場所を探ることの重要性を示唆していたのだ。
なるほど情報というものは交換される場所で収集するのが効率がよい。
さらに言えば民衆が集まる場所というのは流言飛語の類いにもことかかないが、そこでささやかれる噂話のなかにこそ真実が潜んでいることもまたよくあることだからだ。
「ボク的にはたいへん興味深かったというか。それにアラムの文化が、一応とは言ってもイクス教国家であるはずのヘリアティウムにこんなにも入り込んでいるとは知らなかった」
「そうだなあ、信教はイクス教の国だといっても、毎年相当額の年貢金を収めてるヘリアティウムは実質的にはオズマドラの属領だからね。それにやっぱり文化の混交っていうのはまず一番最初に貿易の場で起るもんだよ」
イズマの見解にアシュレの瞳が好奇心に輝いた。
それは大戦争に突入するか否かという現状を受けて抑制されてはいたが、この青年騎士のことを知る者が見れば一目瞭然なくらいにはわかりやすかった。
古代の歴史や遺跡・遺産、文化や文明の成り立ちや仕組みに興味を抱きそれらを愛した少年の気質は、成人し一人前の騎士となったいまでも変わらずアシュレの根底を成している。
いっぽうで普段はふざけているように見えても、その方面に関するイズマの見識が相当なものであることも、アシュレはもう熟知していた。
思わず語りに熱が入るのを止める道理はない。
「そのこともさ。ヘリアティウムはいまやファルーシュ海世界最大の交易都市だ。オズマドラ帝国との、さらにその東に広がる地域との接続点。まさに東西貿易の要。その重要性はビブロンズ帝国一国に限定されたものではない。いまやヘリアティウムはファルーシュ海沿岸地域だけではなく、ファルーシュ海と黒曜海に接続する東西の、いや南北すべてを含む世界全体へと物資と文化を供給する心臓部なんだ」
いま“もうひとつの永遠の都”:ヘリアティウムは、長年憧れ続けた土地だったという存在を超えて、現実に体感する歴史の交差点として掛け替えのない体験をアシュレにもたらしていたのだ。
そして、そんなふうに興奮している自分に対してどこか照れた様子で語るアシュレを、イズマは興味深げに眺める。
無言で。
その沈黙に背中を押されるように青年騎士は続ける。
「対するオズマドラ帝国は、数年ごとにビブロンズ帝国との平和条約を更新する見返りに莫大な年貢金を手に入れられる立場にある。これはたとえ自分が昼寝していても、誰かが稼いだ多額の資金が手元に転がり込んでくる仕組みだってことだ。ちょっとでも金勘定のできる人間なら、条約を破棄してまでケンカを仕掛ける道理がない。いくら十字軍に備えるという大義名分を掲げるにしたって、戦争するなら別のやり方があるはずだ。なのにわざわざこの時期にヘリアティウムを奪いに来るからには──やっぱり絶対に譲れない理由があるんだなって。そう実感したんだ」
そこまで言い切ると、アシュレは言葉を切った。
騎士にとって饒舌さはあまり褒めるられるべき資質ではない。
ましてやいまは子弟に対する規範として、騎士とはなんたるかを示さなければならない立場なのだ。
歴史的視点からの突然の考察に、隣席のスノウが目をしばたたかせる。
アシュレはバツが悪そうに眉をしかめてあらぬ方向に目をやった。
「うん。いや、いい読みだと思うよ」
そして、そんなアシュレにイズマは首肯を繰り返した。
たぶん男としての成長を実感したのだろう。
反対に「ムッ」っと唸ったのはスノウだ。
オマエは読みが甘い、と遠回しに指摘されたように感じたらしい。
それにしても以前のようにアシュレに突っかかる様子は見受けられない。
むしろ、そのまなざしにはアシュレの見せた世界情勢への見識や洞察に対する感心というか、憧憬のようなものさえある。
へえ、とイズマは声にはせずそちらの様子も観察した。
エレとエルマの姉妹から報告は随時受けているが、なるほど、とこれは予想以上にイケるかもしれない。
うんうん、とまた頷く。
それから、茶葉を選びに立ち上がった。




