■第五九夜:嵐の夜明け
「来たか、蛇の巫女よ。一世紀も昔にはアンタらと肩を並べて闘うことになろうとは、想像さえもしなかったが──敵の敵は味方とはよく言ったもんだ。たとえ神敵と罵られようと、無知なる民に異端と指弾されようとも、いまのオレたちはすでにエクストラム法王庁の旗の下に神の正義がないことを知っている。そして、ルカティウス十二世陛下と志を同じくするアンタは人間ではないが、その罪を赦され神の國に迎え入れられるべき女性だとオレは感じている」
朝霧に濡れ水を滴らせる女にガリューシンが言う。
立ちこめる朝霧が作り出す乳白色のヴェール。
その向こうから現れた人影がだれなのか、アスカが尋ねるまでもなかった。
ひとことで言うなら、女はこの世ならざる美貌の持ち主であった。
ぬばたまの黒髪を垂髪に。
それをまとめる丈長は繊細な銀の細工物。
青い鱗を思わせる柄の上着を羽織り、巫女としての地位を示すのは純金と山珊瑚でこしらえられた前天冠。
小振りな顔立ちに抜けるような白い肌。
アーモンドを思わせる切れ長の瞳。
完璧な、美術品のごとき女であっただろう。
ただひとつ、その顔に刻まれた深い傷跡さえなければ。
ざくり、という音をいまでも想像してしまいそうになる傷跡は、狙いあやまたず巫女の瞳の真上に轍がごとくに残されていた。
瑕瑾という表現が脳裏を過る。
「シドレラシカヤ・ダ・ズー」
アスカは静かにその名を呼んだ。
やや伏せ気味だった蛇の巫女のまぶたが持ち上がり、残された片方の瞳がアスカを捉える。
数秒の間。
互いに言葉はなかった。
ただただ視線が交錯する。
蛇の巫女と男装の姫皇女のそれが絡まる。
なにか意思疎通があったのか、なかったのか。
アスカは恨み言ひとつ言わなかったし、シドレの側には弁明はおろかそもそもコミュニケーションをしようという態度すら見受けられなかった。
だから、話すのはガリューシンばかりだ。
「シドレ、今日の助力に礼を言う。狙いすましたタイミングで、この場所をオズマドラの第一皇子が訪れるように誘導してくれた。そして、天候。これほど深い霧の日でなければ、アイアンメイデンたちをここまで効果的に使えたかどうか。さすがは天候を司る蛇の巫女さまだ。かねてからの計画通り敵の霊媒師は捕らえた。あとはコイツを人質に、って……オイ、どうした」
アテルイの意識が宿るアイアンメイデンを玩具のように撫でていたガリューシンが声を上げたのは、そのときだ。
ばさり、という音とともにシドレラシカヤ・ダ・ズーが濡れた羽織りを地に捨てたからである。
どころか、蛇の巫女は無防備な様子で、一歩二歩とアスカとの間合いを詰めていくではないか。
「まて、アンタ、シドレ──」
予期せぬ展開に狂信者を自称するガリューシンさえ制止の声をかけた瞬間、それは起こった。
ビョウオウオウオウオウ──と風が唸ったかと思うと、不快な違和感が襲いかかってきた。
アスカは激しい耳鳴りを憶える。
続けて苦痛を。
内耳が、ひどく痛む。
「激しい気圧変動か。これは」
とっさに耳を両手で庇い、後方へと跳躍する。
その判断は圧倒的に正しい。
「おいおいおいおい。ちょっとまて、ちょっと──まってくれ」
その声に目をやれば立ちふさがるシドレの肩越しに、この機に乗じて遁走しようというのか、アイアンメイデンを担いだガリューシンが退いていくのが見えた。
「逃がすか!」
大層な口上はどこへやら、早々に逃げを打ったガリューシンを追い、アスカは駆け出そうとした。
アテルイの意識を取り戻そうとした。
けれども、それはできない相談だった。
キイイイイイイイイィィィィン、と耳鳴りがひときわ酷くなる。
乳をぶちまけたような霧の帳が一箇所に吸い寄せられ、それが瞬く間に上空へと伸びる巨大な塔のごとき姿に変じるのが見えた。
「これは竜巻?! まさか──そうだと言うのか」
正解だった。
この激しい耳鳴りと内耳の痛みは、対峙したアスカとガリューシンの間に、巨大な竜巻が生じる過程で引き起こされたものだったのだ。
もちろん、これほど急激な気圧変動が自然現象であるはずがない。
アスカは渦を巻く大気の中心に、元凶である女の姿を捉えていた。
そして、それが瞬く間にヒトとしてのかりそめの姿を失い、荒れ狂う巨大な蛇の化け物へと変ずるのも。
GoShaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa──ッ!!
大海蛇としての姿を取り戻したシドレラシカヤ・ダ・ズーが咆哮すれば、呼応するようにいかずちが幾本も束になって周囲に降いだ。
強烈な風とともに拳大もある雹が地面を打ちつける。
樹木がへし折られ火災が発生し、これまで数千年もの間、風雪に耐えてきた神殿の名残が破壊されていく。
これが黒曜海の主として密かにも崇められてきた蛇の巫女の本当の《ちから》。
比喩ではなく生ける暴風雨そのものである。
「くそッ! アテルイ、アテルイ──ッ!!」
「なりませんぞ、殿下!」
そして、それでも渦を巻きはじめた竜巻を擦り抜けアテルイの元へと駆け出そうとしたアスカを引き止めたのは、これまでいずこに潜んでいたのか、巨匠:ダリエリそのひとであった。
「オマエ、いままでどこに」
「《スピンドル能力者》同士の戦いに、わたしが口を挟む余地などどこにもない。しかし、この状況にあってすべきことはだれでもわかる。撤退です。逃げなければ!」
強風と雹の余波にもみくちゃにされながらも、ダリエリはハッキリと進言した。
「だが、アテルイが、アテルイが捕らわれた! 助けねば! 取り戻さねば!」
「そのあたりのいきさつ、一部始終見ておりました。すべて存じております。が、それもこのアテルイ殿の肉体が無事であればこそのお話。現状を御覧なさい。いまは撤退あるのみです」
視線を走らせれば、なるほどどうやって鞍に乗せたのかアテルイの肉体がそこにはある。
荒野に生きた騎馬民族の血がそうさせるのか、アテルイの肉体は無意識のままなんとか鞍に掴まっている。
ダリエリは意識のないアテルイの肉体を馬に預け、自分は件の小馬に跨がり駆けてきたのだ。
それに、とまだなにか言いたげなアスカを制した。
「それに相手のガリューシンとかいう男の、あのいかにもモタついたような引き際も気になります。あれはなにかある動きだ。ワザと怪我をしたふりをして、仲間たちから猟師の気をそらす狐のように」
戦の素人だとばかり思い込んでいた美の巨人からの指摘に、アスカはハッとなった。
そういう視点で見れば、これまでは立て続けに起きた混乱でわからなかったが、なるほどどこかにあざとさがある。
「まさか、罠だというのか」
「将を射るにはまず馬を射よ、という言葉もございます。殿下ならご存知でしょう。殿下を将とするならば、アテルイ殿はまさに馬。その馬を捕らえるため、これほどまでに周到な罠を張る男が、あんなみっともない撤退はしないでしょう」
「だとすれば」
「罠でしょうな。そうでないなら説明がつかない」
アスカを馬上に押し上げ、アテルイの肉体を保持させながらダリエリが言った。
「だが、そんな」
にわかには納得できないアスカは、思わずガリューシンを振り返る。
すると、なぜかガリューシンと目が合った。
その口元に皮肉げな笑みが浮かんだように見えたのは──気のせいではきっとない。
『気がついたヤツがいるのか』
男の唇がそう動いた気がした、次の瞬間。
アスカの疑念を証明するように、アテルイの意識が捕らわれたままのアイアンメイデンを突き飛ばすと、剣を片手に男は駆けてきたのだ。
「逃さねえよ」
今度はハッキリと聞こえた。
荒れ狂う嵐を切り裂き、打ちつける雹を切り捌き、まるで嵐とダンスを踊るかのようにガリューシンはアスカに肉迫する。
超人的な身体能力。
アイアンメイデンの重さに与太つく足取りで逃げようとしていた後ろ姿は、間違いなくアスカを誘い込むための演技だったのだ。
「殿下、お早く!」
「だが、だが、」
ダリエリが拍車をかけようとしたが、このときのアスカにはまだ迷いがあった。
アテルイへの想い。
未練である。
しかし、議論している間などもうなかった。
数秒のちには、ガリューシンは確実にふたりに襲いかかる。
そうなっていたら──歴史はまた別の方向へと動いていたことだろう。
もちろん、そうはならなかった。
ダリエリが小馬に背負わせた大荷物の覆いを外したのは、そのときだ。
すると、その奥に隠されていた箱から、まるでタンポポの綿毛を何十倍にも大きくしたような物体がいくつも飛び出したではないか。
ダリエリの荷物から飛び立った綿毛はおりからの強風に煽られ、いや──当然だが竜巻に向かって吸いこまれて行く。
それは図ったのようにアスカに迫るガリューシンの進路と重なった。
「しゃらくせえええ!」
叫ぶが早いか、ガリューシンは聖剣:エストラディウスを振るってこれを退けようとした。
途端、まるでいかずちが直撃したかのような衝撃と閃光に打ち据えられることになる。
「ぐ、ムッ?!」
衝撃で剣が弾かれ、さらに隣りの綿毛に触れる。
するとまた衝撃と閃光が──連鎖反応的に次々と巻き起こる。
「ぐう、こりゃあ《フォーカス》じゃねえ。この匂い、火薬か」
《閉鎖回廊》外では安定した性能の得難い《フォーカス》と異なり、火薬を使った武器は消費型のアイテムと同じく、なんの問題もなく効果を現す。
たしかにダリエリの披露した新兵器=浮遊機雷ともでも言うべき品は、現在のゾディアック大陸の文明レベルに照らし合わせたとき、あきらかな逸脱をしてはいた。
このような悪天候のなかで効果的に火薬を用いる技もそうだが、衝撃に反応して爆発を起こす──いわゆる雷管の技術は人類圏ではいまだに未見のものだ。
それはアスカが見せた驚愕からも明らかだ。
革新的技術。
だが、それはたしかに《フォーカス》のような神代の時代から受け継がれた超文明のギフトではなく、この時代の人間が試行錯誤によって辿りついた技術であった。
そして、ダリエリの放った機雷群は、ガリューシンにこれ以上の深追いを諦めさせることに成功した。
「なんだあれはッ?!」
「説明は後で。敵は動揺している様子。これはチャンスだ! 脱出を!」
アスカが問うが、ダリエリは退却を最優先した。
巨匠の言うように、追撃の手は緩んでいた。
アスカは断腸の思いで馬を走らせた。
さて、それにしても。
実のところ東方聖堂騎士団の最後の生き残りである男は、ダリエリの手品じみた攻撃そのものに恐れをなしたのではない。
関係がなかったわけではないが、懸念したのはそこではない。
まず、この混乱をついてアスカが反撃に転じ、あるいはガリューシンが手放したアイアンメイデンの回収に成功したならば、と考えたのだ。
そうなっては計画そのものが水泡に帰す。
そもそもアテルイの意識を捕らえたアイアンメイデンを奪取するだけなら、その役が皇子:アスカリヤ本人である必要はない。
アスカがガリューシンを引きつけている間に、オズマドラの手の者が行動を起こさないとどうして言い切れる。
別動隊や絡め手の可能性を懸念していたのは、なにもオズマドラ側だけではない。
不測の事態が起きるのが戦場というものだ。
ガリューシン自身が仕掛けた策を、相手が使ってこないという道理もない。
さらにアスカが帯びる告死の鋏:アズライールの強力な攻撃能力のこともある。
その一撃をまともに浴びれば不死者であっても身体の欠損は免れない。
たとえそれがガリューシンにとっては一時的で再生可能なものだとしても、計画に大きな遅延を生むことを男は身を持って知っていた。
もちろん不死者かつ《スピンドル能力者》であるガリューシンにそれほどの深手を与えるには、相応の《スピンドル》の練りが必要だったし、正面切って一対一で対峙するのであれば、その隙を与えぬ自身がガリューシンにはあった。
だが、ダリエリが放った浮遊機雷群は、アスカに練りや溜めのための時間を与える可能性がおおいにあった。
実際に体験して、これも実感したのである。
むやみに深追いすれば、どのようなしっぺ返しが待っているかわからない。
そのためにいま手元に確保したアテルイという切り札を失うわけにはいかない。
具体的に言えば、ダリエリという男の不確定要素にガリューシンは懸念を抱いたのだ。
そしてなにより蛇の巫女:シドレの巻き起こした暴風雨──独断的な暴走こそガリューシンにとって想定外と呼ぶべき最大の出来事だった。
私怨か、あるいは血に狂う蛇の巫女たちの性情によるものかまではわからない。
なんにせよ突如として巻き起こされた竜巻は制御不可能の不確定要素を戦場にもたらした。
それが東方聖堂騎士団最後の生き残りであり狂信者を自称する男をして、追撃を躊躇させた理由であった。
ガリューシンが触れなかった機雷が竜巻に呑み込まれて閃光を放つ。
その光が、竜巻の奥に息づく巨大な蛇の巫女のシルエットを浮かび上がらせる。
巨大な咆哮が、また世界を揺るがした。
なにはともあれ、こうしてアスカは危地を脱する。
小馬に跨がった巨匠がこれを先導したのは言うまでもない。




