■第五七夜:歴史の向こうから
ガリューシバル・ド・ガレは一〇〇年前を生きた男だ。
生誕はだから、それを四〇年は遡るだろうか。
イクス教生誕の地であり、エクストラム法王庁が長きに渡り十字軍によって奪還しようとし続けてきた土地:ハイア・イレム。
ガリューシバルは、一〇〇年前、その聖都に本拠地を構える東方聖堂騎士団の団長だった男である。
医療と奉仕を司るカテル病院騎士団の前身:イレム病院騎士団と双璧を成す軍事の要として、遠くファルーシュ海の東端で、東方聖堂騎士団は聖都の統治と巡礼者たちの安全、財産の保全に尽力した。
そして、カテル病院騎士団がそうであったように巡礼たちからの信頼を勝ち得、その名が西方諸国に轟くにつれ莫大な財力と権力とを得ていく過程もよく似ている。
しかし、その後、ふたつの騎士団が辿った歴史は大きく違っている。
東方聖堂騎士たちは、あるときまったく突然に、異端の咎でエクストラム法王庁より告発されたのだ。
騎士団からの多額の借金に悩んだいくつかの国家の王侯貴族たちが共謀したとも、法王庁内部で彼らの増長を危険視した派閥が画策したとも言われるこの事件は、結果的に東方聖堂騎士団の解体と首脳部以下団員全員を異端として処刑するまでに発展する。
各国名士や王族から除名嘆願や弁護も行われ、一時は穏便な措置に留まるかと思われた事態が急変したのは、ハイア・イレムにおける騎士団本部の詳しい捜索が行われたあとだった。
罪状は悪魔との取引に加え、忌むべき魔の十一氏族との混交とされた。
混交なる単語が交流を表すのか、種的交わりを示すのか、あるいはそれ以上のおぞましいなにかを指しているのかについては当時のエクストラム本国の記録を当たるしかないが、この裁判の記録は禁書とされ法王の裁可がなければ閲覧不可能な状態にいまもある。
事実上、歴史の闇に葬られたことになる。
だが、手がかりがないわけではない。
当時の騎士団の秘密施設を捜索した者たちはその直後、凄まじい惨状を見たとこぼしているし、それは懺悔を聞いた聴聞僧の証言からも明らかだ。
そう──彼ら東方聖堂騎士団は魔の十一氏族を捕らえてはこれを屠り、あるいは生きたまま解体し、種の謎に迫ろうとしていたのである。
それを世界の謎に迫ろうとしていたと考えるか、眼前の敵について知悉しようとしていたとするか、あるいは異端審問官たちの言うように悪魔との取引と解釈するかは、意見の分かれるところだ。
さて、人体解剖を各地の修道院が行ってきた事実は周知のことであろう。
罪人の遺体を腑分けし、その構造を把握する努力ははるか昔から連綿と続けられてきたものだ。
修道院とは単なる修業場ではなく、神の御心により近づくため、人間を理解するための研究施設なのである。
だから、単なる人体解剖であれば、それ自体が問題視されることはまずない。
特に最前線にある宗教騎士団付属の施設では当たり前のことだ。
だが──異種族の解剖実験は話が違った。
それは法王の裁可なくしては絶対に行ってはならぬ禁忌であった。
「魔に知悉するは、すなわち魔に近づくに似たり。汝、正しさを過信するなかれ。みだりに知ることなかれ。神の御心をこそ知れ。信仰だけが汝を導く」
とは、エクストラム法王庁聖遺物管理課の研究室に掲げられている警句である。
東方聖堂騎士団の面々がこのような所業に手を染めた最初期は、おそらく最前線での必要に駆られてのことであろう。
快速船での船旅でも優にひと月以上はかかるエクストラム法王庁に裁可など求めていたら、返答が届く頃には肝心の品物は良くても死体に、そうでなければ腐り果てている。
現場での判断と恐懼に震えながら行っていた仕業が、やがて日常茶飯事となり、ついには最大の関心事にまで発展した。
きわめつけの証拠がある。
暴かれた秘密施設には壁一面にこれまでの研究成果が精密な図解入りで描かれていたそうだ。
もちろん彼らの刑の確定後、施設が徹底的に破壊され文字通り灰燼に帰されたので、実物を見ることはできない。
それでも数少ない証言を拾い集めるとこんな表現に辿りつく。
「この世に現れ出でた知る地獄」
そして、いまアテルイの眼前で笑みを広げた男こそ──その知る地獄を地上に現出せしめた超弩級の異端者、本人であった。
としたら、どうしようか。
いけない、とアテルイは思った。
動きの鈍い肉体を捨て瞬間的に離脱を試みる。
だが、どうしたことだろう。
「憑依が、解けないッ?!」
かわりにガチンとなにか錠前が落ちるような音がした。
「つかまえた」
あの耳まで裂けるような笑顔で、穏やかに男は言った。
「な、なんだこれはッ?! オマエはだれだッ?!」
「いかんねえ、これだから異教徒は。ひとさまに名前を尋ねるときは、自分がまず名乗らなくちゃならないんだぜ。お父さんか、お母さんか、教会の司祭さま……じゃねえや寺院の神官かアンタのとこは。に、習わなかったのかい?」
ニコニコと笑みを絶やさぬ男から、アテルイは例えようのない寒気を感じた。
「でもまー、いまここでそれ聞いてしまっちゃあ、あとのお楽しみがないからな。いいぜ、教えてやるよ、名前。オレは──ガリューシバル。ガリューシバル・ド・ガレ。ずいぶんと古い男だ。ワインもそうだが、男も古いほうが良い。その意味でオレは間違いなく年代物だよ」
このときアテルイには、にわかには眼前の男が誰なのかを思い出せなかった。
そんなアテルイの反応をどう解釈したのか。
いっそうなれなれしい態度で、男は語りかけた。
「オレのことは気安くガリューシンと呼んでくれ。弱兵で聞こえたビブロンズ帝国だから、油断しただろ? こんなヤツがいるとは思わなかっただろ? そりゃそうだ。オレも長い長い年月、あの歴史だけはやたらとありやがるクソったれな都の地下に幽閉されてたんだからな。員数に入ってなくて当たり前だぜ」
「くそっ、なんだこれは、離せっ!」
アテルイは暴れる。
意識だけで。
もちろん、肉体は微動だにしない。
「いやいや、それも説明してやるからちょっと待ちなさいよって。いまアンタが憑依を試みたのはおとりなんだよ。ほら、退魔師たちがよくやるでしょうが。救済対象にわざと悪魔を憑依させてから結界で閉じこめて、逆に攻撃を加えるヤツがさ。アラム教圏では、しない? これはそれをもっと突き詰めた道具。そのための精巧な自動人形なんだよ」
専門用語ではアイアンメイデン、とか呼ぶんだけどな?
相変わらずにこやかに笑いながらガリューシンは言った。
もうアテルイは理解している。
この男の笑みは、内側に潜むどうしようもない闇を糊塗するための仮面に過ぎないと。
「オレたち東方聖堂騎士団も悪魔や魔の氏族、それからアンタらみたいな異教徒のやり口にはだいぶと精通してたつもりなんだが、まさかルカティウス皇帝陛下がこんな装備をこんなにもたくさんお持ちとはしらなかったよ。いやあ、歴史って大事なんだなあ」
「罠だ、というのか。最初から、わたしがこうやって仕掛けてくるのを見越して」
「あたり」
昔々、ずいぶんと痛い目を見たんでね、対策は練らせてもらった。
そう言って、ガリューシンが頭を掻いた瞬間だった。
フッ、という呼気とともに濃密な霧のヴェールを切り裂いたアスカの跳び蹴りが、男の頭部を狙って放たれた。




