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■第五六夜:裂ける笑み


「いるな。なんだ、だれだ」


 アスカが伏せながら言った。

 先行していたアテルイが待った、と合図したのはそれほど前のことではない。

 キャンプをたたみ、痕跡を丁寧に消してから帰路に着こうとした矢先のことだ。

 海が近い上に森林地帯ということもあり周囲は乳白色の濃い霧に覆われている。

 用心していなければ気がつかなかっただろう。


「見張り、でしょうか。点々と間隔を空けて、かがり火をかざしている。総数はわかりませんが……小戦隊のようです」


 苔むした神殿の遺跡に身を潜めつつアテルイが意見した。

 いつのまにか苔むしくずおれた神殿内部のそこここに、武装した兵士たちが配されていたのである。

 彼らは冷え込みのキツイ明け方の、じっとしているだけでじっとりと濡れてくる濃霧のなかにあってさえ愚痴ひとつこぼさず、しわぶきひとつ立てず歩哨を続けている。

 これはなかなかできることではない。

 兵というものは列を並ばせ、まっすぐに歩かせるだけでも大変なものなのだ。

 だれに監督されているわけでもなく個々人が黙々と任務をこなすというのは、練度・志気ともに相当に高いと見るべきだ。

 弱兵と揶揄やゆされることの多いビブロンズ帝国の兵士たちがこれほどとは、アスカは正直意外な気がした。

 現在視界内に確認できるかがり火の数は三つ四つといいったところだが、たぶん、蛇の神殿内部の要所を押さえるようにさらに人数が配されているのは間違いないだろう。


「明らかに我々の帰路を見張っていた、という感じだな」

「直立不動で、身じろぎひとつしないところも不気味です。見た感じ傭兵隊ではないようですが……これほどの練度をビブロンズが擁していたとは正直、驚きです。」

 暗闇に目を凝らしながらアテルイが言った。

 かがり火程度の明かりではアスカたちの姿よりも、見張りの姿を照らし出す。

 壺から流れ出た乳のように白い世界のなかでその周囲だけがオレンジ色に染まり、人影をぼんやりと映し出していた。

「どれぐらいいると思う?」

「さて、正確な動員数は不明ですが、もし我らの正体がわかっているのだとしたら──それに対抗するには最低でも五〇〇名の精鋭が必要なことくらいはわかるはず。ですが、いまのビブロンズに正規戦力から数百名もの戦闘集団を裂く余裕があるかどうかは、はなはだ疑問です」

 

 アテルイは冷静にビブロンズ帝国の国家人口とそこに占める成人男性の数や現状から、敵戦力を割り出した。

 

「敵主力二十万が城壁に迫ろうかという時期に、自前の正規戦力がようやく一〇〇〇、武器を持てる年齢の国民を動員するしても四〇〇〇が良いところでしょう。傭兵を傭うにせよさらに一〇〇〇程度が関の山。そんな小国家が、希少な正規兵力をこんな任務に裂くでしょうか?」


 副官の試算にアスカも頷いた。

 たしかにここは神殿の祭壇深部とは異なり《スピンドル》のトルクが不安定だ。

 この状況でそれなりの兵力を投下すれば、いかに《スピンドル能力者》といえども人間だから仕留めることはできるだろうが……ここでアスカを討ったとて落日の帝国の運命に大差はあるまい。 

 それにいくら《スピンドル》の回転が弱いといっても《フォーカス》は起動するし、アスカもアテルイも歴戦の兵士が舌を巻く使い手同士。

 真っ向からやり合ったら敵もタダでは済まない。

 それなりに算盤の弾ける将であれば、犯すリスクが割に合わないとは感じるはずだ。


「幸運にもこの濃霧です。可能な限り交戦は避けつつ、必要な場合はためらわず速やかにこれを排除して、突破を計りましょう」

「それが良さそうだ。馬たちにもその旨、伝えよう」

 動物たちとの以心伝心のアーツを得意とするアスカが、愛馬たちに自分たちの戦い方を伝えようとしたそのときだった。

「武装した兵士が数百名もッ?! どういうことだ。これではまるで我々をだれかが待ち伏せていたかのようではないではないか!」

 密かに様子を窺うふたりとは裏腹に、普段と変わらぬ音量でダリエリが言った。

「シーッ!」

「しずかにせんか、このバカ者がッ!」


 アスカは唇の前に指を立てて、アテルイはゲンコツで沈黙を促した。

 ぐぬう、とダリエリは不満げに唸る。


「ん、いまこちらでなにか物音がしたようだが」


 と、そんな声がしたのはそのときだ。

 三人は慌てて息を殺し、身を潜める。

 かがり火を掲げる兵士のかたわらに、もうひとり人影が近づいてくるのがわかった。

 声をかけられた兵士は、返答ひとつしない。

 宮殿を護る衛兵たちのようだ。

 本当に精鋭らしい。

「どうした、大丈夫か。いまの物音はなんだ?」

 新たな人影が聞いた。

 かちゃりかちゃりと金属鎧の音がする。

 姿はよく見えないが音の具合から全身に板金鎧をまとった上級騎士だと思われた。

 その男が言う。


「なにい、また鹿かなにかじゃないか、だと? ふむん、なるほどたしかに、この森は豊かだがそのぶん野生動物が多いからな。ウサギや鹿ならまだいいが、イノシシや狼、クマまでいるらしいぞ」


 相変わらず兵士の声は聞こえないが、騎士のものはよく届いた。

 兵たちの練度に比べて、こちらはなんというか……おっとりした調子で緊張感を欠く。


 ビブロンズ帝国の国教であるアガナイヤ正教はイクス教のなかでも特に精神的で神学的思考や瞑想を重要視するという。

 信心深いのは良いことだが、そのぶん現実を見ることを軽視し指導者たちは宗教的議論に没頭する傾向があるとも言われている。

 同じイクス教徒であるエクストラム正教のものたちからさえ「思考はすれど実践せず」と揶揄やゆされるくらいだから、その傾倒具合は大変なものなのだろう。

 あるいは上級騎士はそういう傾向が強い男なのかもしれないと推察された。

「まあいい。それよりもオマエ、すこし顔色が悪いぞ。連日の任務で疲れているんだ。どんなに真面目に勤めても、倒れたらなんにもならんぞ。休息を取れ。いったんキャンプに戻ろう。もう朝じゃないか」

 とまあそんな感じで一方的に兵士に話しかけて、歩哨を中断させた。


『予想外にチャンスが巡ってきたな』

『このままやり過ごしてもいいのですが──もっと状況を把握しましょう。敵の総戦力も訊き出したいので』


 言うが早いか、アテルイはアスカの腕のなかに潜り込んだ。

 松明の明かりと金属鎧の響きは連れ立ってゆっくりと去っていく。

 上級騎士は他の歩哨たちにも休息を与えるつもりらしい。

 払暁はたしかに人間が集中力を欠く時間帯でもあるが、それにしても呑気な騎士殿だ。

 それでなくとも持ち場の交替時間というのは隙が生まれるというのに。

 善人かもしれないが出世はできないタイプだな、とアスカは思う。

 なにを仕掛けるにしても好機であるのは間違いなさそうだった。


『いつものやつか』

『この距離と相手であれば大仰な準備は無用。殿下の匂いとぬくもりを命綱にいたしますゆえ』


 その言葉を最後に、かくり、とアテルイのカラダから力が抜けた。

 意識体を離脱させ、去ろうとする兵士のひとりに憑依しようというのである。

 効果はすぐに現れた。


「おい、どうした急に立ち止まって。キャンプはもうすぐそこだ。がんばれ」


 いつのまにか隊になった歩哨たちを率いていた上級騎士が振り返って言った。

 兵士のひとりが遅れていたのだ。

 騎士が言うように連日の疲れもあるのかと訝しんだのだが、なんだろうか。

 このカラダおかしいとアテルイは思う。

 ひどく寒い。

 いや、冷たい。

 思いつつも眼前の会話に対処する。


「あ──ああ。ちょっと、ぼんやりしていました」

 うまく声が出せなくてアテルイは慌てたが、上級騎士は無精ヒゲの生えた口元になんとも言えぬ笑みを浮かべて笑った。

 壮年であろう男の顔は表情によって深いしわができる。

 それが陰影となって他では代えられぬ個性を生み出していた。

「まあ無理もないさ。オズマドラの皇子の同行を見張れ、と言われて出向いてはきたものの目ぼしい手がかりも掴めぬまま森のなかで野営して、同じ場所を何度も何度も巡回してたらな」

「なんで……なんで、こんなことをオレたちはしていたんでしたっけ」

「ヲイヲイ、しっかりしろよ。寝不足なのはわかるが、仕事だからな。皇帝陛下のご命令だよ、勅命だ」


 皇帝陛下というのはビブロンズ帝国皇帝ルカティウス十二世のことか──殿の青年に憑依したアテルイは思考を巡らせた。

 考えるまでもなく彼らの装備から当然ではあるのだが……だとすると、この兵たちは蛇の巫女:シドレの差し金ではなくビブロンズ帝国皇帝のめいを受けてのものとなる。

 やはりシドレとルカティウスは内通していたのか。

 しかし、それにしてもこの青年の肉体はどうも妙だ。

 重たい。

 疲れているだけなのか、あるいはなんらかの薬物の効果なのか。

 まるで水のなかの出来事のようにすべてがもどかしい。


「そうだった。皇帝陛下のご命令でしたね」

 内心の動揺を悟られぬようアテルイは相手の言葉を、そのまま返した。

「一見、好々爺としてるがな、我らが陛下は。ああ見えてかなりの策略家よ。そうでなければ、我らとて従わんよ」

「策略家」


 直前のやりとりを経るまでもなく、これまで仕入れてきた情報から文人皇帝:ルカティウス十二世の世間一般での評判と実体に大きなズレがあることには、すでに確信を得ていたアテルイである。

 だが、いくら本人の耳目がないとはいえ皇帝を策略家呼ばわりするとは。

 なんだこの騎士は。

 アテルイは思う。

 そう考えるといま目の前に見えるヒトの良さそうな笑みも、なんだか面に張り付いたうわべだけのものであるかのように思えてきた。

 そんなアテルイの心の動きを汲んだ様子もなく、いっそう調子よく騎士は言うのだ。


「そうそう。蛇の巫女を従えてるだけじゃない。ウワサでは他者の過去を暴く魔法の本を使って、辣腕を振るってきたって話だぜ」

「魔法の本」


 このときアテルイは話の流れに奇妙なものを感じていた。

 いま眼前でにこやかに話すこの男……なぜ、ここまで詳しい?

 しかし、全身を包む冷たい倦怠感ともいうべき感覚が邪魔をしてうまく考えられない。

 調子がいいのは眼前の騎士だけだ。


「それだけじゃない。先を読む能力もなかなかのものだ。軍才がねえって話だったが……これまでの将軍

どもに意気地がなかっただけだとオレは思うね」


 さきほどアスカとの話題にも上ったが、ビブロンズ帝国の戦下手は有名だ。

 かつての領土から見て現在の姿に至るまで、国土面積にして数千分の一にまで帝国が没落した理由のすくなくとも半分はそこにある。

 現皇帝:ルカティウスに至っては西方諸国の口さがない者たちから陰で淫売扱いされているほどだ。

 領土を切り売りして偏狭な一都市国家を守ろうと躍起になっている老人と。


「だが、オレがあのヒトにホントに共感したのは世界に平和を打ち立てそれを維持したい、という思想にだったんだ。穏やかで、変化のない、平穏な世界を創り出したい。そのために──危険要素を廃し、操作し、リスクを分散する。そうう考え方にオレは魅かれたんだよ」

「オマエ……は……だれだ?」


 おかしい、とこのときアテルイは確信した。

 絶対にこの男は変だ。

 反射的に問うた。

 本当は逃げるべきだった。

 でも、それは不可能だった。

 最初から罠だったのだ。


「そううオマエこそ、だれよ?」


 男の笑みが耳まで裂けて見えた。



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