■第五五夜:帰路
「殿下ッ! アスカリヤ殿下ッ!」
鏡のように凪いでいた水面を蹴り割り帰還したアスカに、アテルイは抱きついた。
「助かったぞ、アテルイ。おまえの呼ぶ声がわたしを助けてくれた」
ふたりはまるで恋人たちがするように(いや恋人なのだが)抱擁し、深くくちづけを交わす。
「わたしの推論は正しかった。やはり、観察は重要ということだ」
そんなふたりをまじまじと見つめて言うのはダリエリだ。
「そうか、貴君の発案か。助かったぞ、あらためて礼を言う」
泉に潜る間にほどけて身体に張りつき水を滴らせる黒髪を捌きながら、アスカは笑った。
長い潜水時間のせいで紫色になりつつあった唇にも色が戻りつつある。
ダリエリはひざまづいて頭を垂れた。
「礼など。わたしはただこの場で出来ることをしただけ。実際に能力を行使し殿下を呼び戻すことに成功したのは、アテルイ殿の功績。しかし、もしわたしに褒美を取らせるというお心がおありなのでしたら、どうか金品ではなく──」
アテルイの功績を持ち上げ謙遜するにみせかけて抜かりなく褒美の話に持ち込むダリエリの抜け目なさに、アスカは先ほどとは別の種類の笑みを浮かべて応じた。
生還の喜びと重要な情報を持ち帰った達成感に、多少の無茶は聞いてやろうという鷹揚な気分がそこには現れている。
「なんだ、金ではないほうが良いというのか。己の知的好奇心の探求のために資金はいくらあっても困らないと豪語していた男が殊勝だな」
金以外がよい、というのはだいたい金以上の価値のあるものを所望するときの前置きだが、それでもかまわないとこのときアスカは思っていた。
その言葉にダリエリもわが意を得たりと笑みを広げた。
視線をアスカに戻す。
「はい、じつは、それにも勝るものをいま眼前にしておりますので」
「金銀財宝に勝るものを、いま眼前に?」
「御身のお姿です」
「ん?」
いち早く反応したのはアテルイであった。
まったく手加減のない蹴りがダリエリを横から見舞った。
大の男が吹き飛び、派手な水音を立てて泉に没する。
「アテルイ、どうした?! いまのはどういうことだ?!」
「殿下ッ! こちらをお早く! 御身はいま、ら、裸身にございますれば!」
「あ、ああ、ああああ、そういう。そういうことか!」
「不届き者、不届き者め! 殿下の裸身をまじまじと見つめるとは、極刑に値するぞ! 殿下も、お早く! わ、わたくし以外にそのお姿を愛でて良いのはアシュレさまだけです!」
慌てた様子で脱いだ上着をまとわせてくるアテルイにアスカは破顔一笑した。
「そうだった、そうだったな。わたしはいま『すっぽんぽん』だったのだな」
「殿下! んもう! 笑いごとではありません!」
からからと笑うアスカにアテルイは眉をキリキリと吊り上げる。
ばしゃりと水音がして、巨匠が復帰の兆しを見せたこともある。
「殿下、アスカリヤ殿下! 御身、御身は美しい! ぜひ、そのお姿を画布に!」
「そんなことができるかッ!」
皇子であるはずのアスカリヤの裸婦画が後世に伝えられればいったいどんな混乱が巻き起こることか。
断固阻止せねばならぬとアテルイはこのとき心に決めた。
泉から這い上がりかけたダリエリにもう一発蹴りを見舞い追い落とすと、アテルイは鼻息も荒くアスカの手を取る。
さあこちらへ、と先導して神殿の深部から地上に主君を引き戻していく。
「まて、そう急くな、アテルイ。わたしにも消耗があるのだ。それにずいぶんと夜も更けたようではないか。むこう側にいたのはわずかな時間だと思っていたが……わたしが潜ったのは昼下がりにもなっていない時刻だったよな?」
息を切らしながらも屈託ないアスカの言葉にアテルイは一瞬振り向いて、それから溜め息をついた。
「どうした」
「やはり思った通りでした。殿下の赴かれたこの神殿の最深部は外界とは時間の流れが違う場所だったのです。殿下が潜水を試みられてから……じつはもう数日が経っているのでございます」
「なん……だと」
これにはさすがのアスカも驚くしかない。
「アラム・ラーが我らの地に降りられるより以前、アルカトリアの高原地帯やそれより南部の砂漠地帯を跳梁跋扈していた魔神などのシャイターンの逸話に出て来るでありましょう。ヒトの世とは隔絶された時間の流れとそれを可能にする人外魔境が──殿下が立ち入られましたのはそういう場所だったのでございます」
「そうか。たしかにそうであるかもしれんな。あすこは、たしかにヒトの理の外にある場所であったやもしれぬ」
アスカはつい先ほどまで己が身を置いていた不思議な空間を思い出して言った。
「たしかに帰還時はどうなることかと思った。けれどもな、アテルイ、我が赴いた場所は決して不快だったり危険だったり……そういう場所ではなかったぞ。むしろいまはかけがえのない知己を得た気分だ」
「軍団は……我ら砂獅子旅団は殿下のおかえりをいまや遅しとお待ちしておりました」
思い出を語る主君に、アテルイは帰還を待ちわびていた臣下を代表して言った。
隠しようもないアスカへの想いがそこには滲んでいた。
それに気づかぬアスカではない。
「すまなかった。心労をかけたな」
「いいえ。殿下の成し遂げられることに我らは付き従うのみでございます。それに……そのどこか晴れ晴れとしたご様子。なにごとか得るものを得て帰ってきた、というお顔にございます」
ちらりと振り向いたアテルイの横顔は笑っていたが、その瞳には涙があった。
この場で押し倒して愛を伝えてやりたいと思うアスカだが、軍団が帰還を待ちわびてくれていると言われては、そうもいくまい。
「たしかに面白い体験だったがな」
「お手のものは?」
「これか? これはいずれ、な。いや、それよりも優先せねばならぬことがある。アテルイ、アシュレたちにすぐさま連絡を取らねばならない。敵の手のウチを考えると念話はまずい。馬を飛ばして自陣に戻り隼を使うか、それともこの森で猛禽なりを捕らえるか。いずれにしても緊急事態だ」
言いながらアスカの足取りは、どんどんと速くなっていく。
地上に戻る頃にはアテルイの手を引くのはアスカのほうだった。
「し、しかし、まずはお召し物を。そのお姿はあまりに神々しきく……あまりに目の毒です!」
アテルイの主張に従ったアスカが着替えを終える頃になって、ダリエリも地上に這い登ってきた。
三発目の蹴りはさすがになかったが、アテルイの言葉は辛辣だ。
「さあ、巨匠、支度を整えてください。どんなに遅くとも払暁にはここを立ちますよ!」
ずぶぬれでもの言いたげなダリエリを黙殺して、アテルイはキャンプをたたみはじめた。
「殿下もなにか軽くお腹に詰めておいてください。蛇めの話がこれで終わりであれば良いのですが……ここからでは外界のことはうかがえません。近いとは言っても自陣までは数時間は要しましょう。その間に伏兵がないとも限らないのですから。もし不期遭遇戦でもなったら、どう考えてもまず殿下のお力を拝借せねばならないのですからね」
「まかへておへ」
言われるまでもない。
平パンを夕食の残りのシチューに浸して頬張りつつ、アスカは答えた。
長い沐浴を終えたようなカラダの疲れに、乾燥させたヒツジ肉にハードチーズと数種の豆を加えたシチューの塩味がやたらとうまい。
だが、このときのアテルイの心配が現実のものとなるとは、このときまだ三人のうちのだれひとりとして知るよしもなかった。




