■第五四夜:太陽の皇子の帰還
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さて、アスカが蛇の神殿深奥に位置する門を潜り抜け、大秘書庫・分館のなかで短い探索の時間を費やしていたころ。
外界ではすでに数日が過ぎ去ろうとしていた。
「やはり、これはなにかあったと考えるのが妥当では」
無精ヒゲを撫でながら言ったのは件の巨匠:ダリエリである。
「なにかあった、とはどういうことか! 殿下は必ず戻られる!」
もちろんそれがどんなに妥当な推論であれ、看過できないアテルイだ。
「しかし、泉の底に潜られてからどれほどになるか。いかに蛇神の加護を受けたとはいえ……あまりにも長い。長すぎる。我々の糧食も払底しつつある」
「こんなときだけ常識人のような振舞いは止めろ、ダリエリ! それも貴様がバカスカ喰らうからだろう!」
時刻は真夜中。
いっこうに戻らぬアスカをアテルイとダリエリは野営をしながら待っていた。
季節は初夏といえども深い森のなか、それも水辺となれば否応なく冷えてくる。
だが、ビブロンズ帝国の国境を侵犯している身としては、煮炊きはおろか暖を取るための焚き火を組むことさえ最低限としなければならない。
さいわいにも水に困ることだけはないが、持ち込んだ食料には限りがある。
兵の手前もあるし、隠密行ということで糧食は最低限しか持ち出せなかった。
いまさら言っても詮無きことだが、そもそもが日帰りのつもりであったこともある。
そこに来て、この宿泊延長は響いた。
五月の森は実りの季節ではない。
動植物を捕らえたにしても、それを安全な食料とするには火がいるのだ。
危険な病原菌や寄生虫の脅威をのぞくには、加熱調理は絶対に必要不可欠なプロセスであった。
ここでこのままアスカの帰還を待ち続けるのは、ダリエリが言うようにそろそろ限界だったのである。
砂獅子旅団残留組が偽装工作を施してくれてはいるが、軍団の総司令官たるアスカの不在がこれ以上長引くのは明らかにまずい。
オズマドラ帝国軍本隊の足並みがいかにゆっくりとしたものであろうとも、そろそろ到着するはずだ。
宣戦布告が為される前には必ずアスカのもとへ軍使が来る。
それまでには戻らなければならない。
この間、けんもほろろに追い返したビブロンズの木っ端役人とはわけが違う。
大帝からの勅使を待たせたり袖にしたりすることは不可能だ。
寝具として持参した羊駱駝の毛皮に包まり、アテルイは静まり返った水面をのぞき込んだ。
いっぽうこちらは熱さ寒さなど感じた様子もないダリエリが、腕組みしたまま同じく泉の様子を観察している。
「殿下ぁ」
情けない呼びかけがアテルイの心労を示している。
そんなアテルイの様子にふむん、と唸ったのは隣りのダリエリだ。
「アテルイ殿、貴女がそんなに思い詰めていてはいけない」
案ずるように巨匠は口を開いた。
「なるほど、この泉が普通でないということだけは間違いがない。観察の結果を言えば、この神殿は異界との結節点ではないのか。たとえば《閉鎖回廊》のように。凡人にはそのなかで起った出来事をうまく思い出すことさえ難しいという、そういう場所との。つまり、この泉の深部は我々のいるこの場所とは時の流れからして異なっているのでは? そういう理由で殿下は戻られないのでは?」
ダリエリは己の分析を披露した。
まさかこの男の口から優しい慰めが出るとは期待してはいなかったアテルイだが、これには完全に呆れた。
「だれがいまそんな分析を聞きたいと言った!」
思わず吼えるのも無理はない。
逆ピラミッドの体をなす蛇の祭壇がそれを拾って、こだまを返す。
「しかし、毎夜毎夜、ここまで降りてきて待っているだけというのはいかにも不合理だ。長期戦になるというのならば備えも変えなければならないし、いつ戦時になるとも限らない。実際にもう数日も軍団との連絡は途絶えたままだ。潮時というものが物事にはある。それを見極めるには観察し、推論すること。仮説を立て、対策を練ることこそが状況を打開する唯一の方策だとわたしは考えるが」
アテルイせよダリエリにせよ、主君あるいはパトロンであるところのアスカが不在のため、互いの言葉遣いが素のものとなっている。
「では聞くが巨匠、あなたの仮説はどんなものだ。いったいいま我々が取るべき方策はどんなものだ」
冷静沈着というか、ヒトの気持ちを斟酌しないダリエリにアテルイが食ってかかった。
「落ち着きなさい、レディ。この場合、まずいちばんはじめに考えなければならないのは、最悪の事態についてだろう。つまり、このままアスカリヤ皇子殿下が帰還しなかった場合のことだ」
「ななな、なんだとう?!」
ダリエリからすれば不測の事態に備えておくのは当然のことで、アスカの死が確定しているなどという考えがあっての発言ではなかっただろう。
いっぽう、ダリエリの考え方など知ったことではないアテルイにしてみれば、血の気が引く話だった。
「ででで、殿下が帰還しなかった場合、だと?!」
「あくまで可能性の話だ。備えておくことは重要だ、ということだよ。ふむん、しかしそれはたしかに困った事態だ。わたしは次はどこのだれに資金援助を乞えばいい?」
そんなアテルイの心中などどこ吹く風。
巨匠と呼ばれた男は様々な過程をすっ飛ばし、トンでもない推論を口走った。
「きさまあああ、斬首だ、斬首にしてくれる!」
「だから、落ち着くべきだと言っている。よく考えなさい、レディ。これはあなた方:砂獅子旅団にとっても重大な局面だ。他の軍団はいざ知らずあなた方はアスカリヤ皇子殿下の人徳・カリスマに心酔して集まった集団なのだから。慎重に対応策を考えておく必要がある。いざ予想が現実のものとなってからでは遅い」
「な、な、な」
本当に剣を引き抜きそうなアテルイを前にして、真剣な顔で諭してくるダリエリはやはり真の天才なのだろう。
危機感とか自分の命の危険とか、そういうものとはまったく別次元の理屈で動いているのだ。
「さて、それはそれとして。そういう事後処理的な発想も大事だが。いま現在、目の前で進行中の現実に対する対処も同時に考えるべきだと、わたしは考えるが」
そして、唐突すぎる思考の切り替えにアテルイは言葉を失う。
ぱくぱく、と鯉のように唇を開閉させるのが精一杯だ。
天才となんとかは紙一重というが、本当だと思う。
「たとえば、だ、レディ。この泉が超常的な秘密を宿しているのだとして。そこに我らが敬愛すべき殿下が挑んでいかれたとして。その生死を確かめることができるとしたら──それはもうやはり同じく超常的な手段によってでしかないのではないかな?」
「な、に」
いきなりの提案に反応できないアテルイを前に、変わらぬ調子でダリエリは続けた。
「つまり、わたしはこう言っているのだよ、レディ・アテルイ。貴女の霊媒としての《ちから》であれば、時空の境界を飛び越えアスカリヤ殿下に声を届けることもできるのでは?」
ハッとした。
なぜいままでそれを思いつかなかったのだろうか。
いや、とそうではなかった。
アテルイだってわかってはいたのだ。
己の霊媒の才能を使えば、泉に潜っていくアスカに同道することさえ可能であっただろう。
それを阻んだの理由はふたつだ。
ひとつにはもしアテルイが意識体となってアスカに憑依し、まるで守護霊のように蛇の神殿に潜り込んだとしたら……それは蛇の巫女の神事をのぞき見ることになりはしないかという考えがあった。
事実、アスカはこう言った。
他者の領域に入るとき、身ひとつになるのは礼儀だと。
たしかに、それはそのとおりだ。
アテルイも厳しい戒律に生きる荒野の民である。
神事をよそ者に覗き見されるなど、許されぬことだと思う。
さらに蛇は復讐を司る氏族でもある。
神域に土足で踏み込んだり、浅知恵のとんちめいたやり方で境界を越えようとしたのならばどんな報復がまっているかわかりはしない。
ふたつめは、現実の帰還場所の確保だ。
意識体として肉体から抜け出たアテルイの肉体は仮死状態となり指一本動かせなくなる。
その状態でいられるのは半日がせいぜいで、それ以上、肉体を意識が離れるともう戻れなくなる。
だから霊媒たちは普通、十全なサポートと砂時計や水がめを使った時計を用い、さらに安全装置をいくつも設け肉体を離れる時間を区切って意識体を肉体から切り離す秘術を用いるのだ。
ところが、ここにいま他者としているのはダリエリだけ。
いかにも大事を任すには不安しかない相手だった。
つまるところアスカが泉に身を投じたあの時点で、この現場を確保できるのはアテルイをほかにおいてなかったのだ。
しかし、それ以降この時点まで、アテルイが己の《ちから》の行使を行わなかった理由はそれらふたつとは異なる。
ごく短時間であれば意識体となって泉のなかを探り、アスカの行方、その手がかりなりなんなりを調べ確かめることもできたであろう。
ただ、それを実行したとき、アスカという存在がこの世界のどこにも認識できなかったとしたら。
あるいはそれよりもなお恐ろしい事実を突き止めてしまったとしたら。
そのとき自分はどうすればいいのか、アテルイにはわからなかったのだ。
「どうしたのか、レディ。ぼうっ、として」
だから、ダリエリの言葉はこのときのアテルイにとって、ある種の決断を促すものとして作用した。
「た、たしかに。たしかにそうだ、巨匠:ダリエリ。あなたの言う通りだ。ここでアレコレ考えていても仕方がないことだ。わたしに出来ることをまず行わなければな」
茫然自失から一転。
やってみよう、とアテルイは頷いた。
みるみる《意志のちから》を取り戻していくアテルイの瞳をのぞき込んで、ダリエリも頷き返す。
「わたしも一度、霊媒の儀式なるものを拝見したかった」
真顔で言うダリエリにまっすぐな視線を向け、アテルイが言った。
「手伝ってくれ。不慣れな助手でも、いるのと居ないのでは不測の事態への対応力からして違う」
「いかにも。それにこれでもわたしは様々な手順について理解するのは早いほうだと自負している」
覇気を取り戻したアテルイに、ダリエリが凄みのある笑みを浮かべる。
「それに……霊媒たちの禊のための清い泉もここにある。さあ、レディ、まずは脱衣のお手伝いを」
「やややややっ、それれれれは! ききき、貴様は、ひひひ、ひっこんでいろーッ!!」
早いのは手順ではなく手のほうではないのか。
アテルイの渾身の蹴りを食らい、巨匠は泉に落ちた。
しかし、このふたりの機転が最終的にはアスカを助けることになる。
告死の鋏:アズライールの技:虚心断空衝を使い《門》を突破しようとしていたアスカは、その途上で深刻な事態に陥っていた。
接続が不安定になった《門》は接続点を一時的に見失っては、繋ぎ直すという現象を繰り返すようになっていた。
傷ついたシドレラシカヤ・ダ・ズーの瞳では完全な意味での制御がもはや難しくなりはじめていたのだ。
トンネルの途中で出入り口が開いたり閉じたりするような状態にアスカは捕らわれてしまった。
明滅を繰り返す異次元空間では出口の方向を一度でも見失ってしまったら、帰還は限りなく難しくなる。
その陥穽に陥りかけたアスカを呼んでくれたのはアテルイだった。
『でんか……でんか──殿下ッ!』
水を伝わる声のように最初くぐもっていたそれが、まるでアスカの耳朶に直接触れるように届いた。
「アテルイッ! アテルイかッ?!」
『殿下、どこにおいでです、殿下?! アテルイはここです。こここそ、殿下の帰還されるべき場所です!
』
このときの事実を言えば、アテルイはアスカの姿を捉えていたわけではない。
泉のなかに意識体として潜航はしたもののアスカの姿を発見することさえできず、件の蛇神の尊顔を前に一心不乱に呼び掛けた──ただそれだけのことであった。
だが、このような切迫した局面でヒトの運命を変えるのはいつもそんなささいな違いだ。
アスカはそのとき、水底に向かってゆっくりと落ちていく底に穴の空けられたガラスの椀を幻視した。
金泥銀泥で絵付けされたそれは、まるでクラゲのようにゆらゆらとちいさく揺れながら一定の速度で落ちてくる。
このガラス椀は宮殿内で遊技や競技の試合時間を計るときに用いるもので、これまた大きなガラスの壺になみなみと水を張りそこに投じるのだ。
精妙な加工を要求される砂時計よりもずっと古くから用いられてきた、古風で雅な時の計り方だった。
そして、このとき、そのなんとも優雅な水没の速度が、アスカに帰り道を教えてくれた。
ガラスの椀は必ず上から下へと向かって落ちるものだ。
「だとしたら……!」
たちまちアスカは上下の感覚を取り戻す。
途端にあらゆるものが鮮やかになる。
出口が見える。
そのむこうからアテルイの声が聞こえる。
「いま帰るぞッ!」
アスカは思わず叫んでいる。
その瞬間、出口側の《門》を潜り抜け終えていた。




