■第五三夜:来歴を胸に
そこに記された魔道書の来歴は想像を絶するものであった。
大秘書庫の司書にして、自ら魔道書と成り果てし者。
文字禍の女王にして、その身を《物語》に喰らわせたり。
ついにはオーバーロードと成り果てぬ。
葬むられし過去を愛し、偉人の墓所を暴く者。
その身に潜みし《物語》は疫病のごとく。
獰猛にしてヒトに憑き、ついにはこれを迷い狂わす。
その変えたるは人品だけに留まらず。
種や属さえも変えるほどに。
ヒトを《物語》に、《物語》をヒトに、そもそもヒトは《物語》なりければ。
己の姿は弱きを好むも、真の邪悪を腹に宿す。
秘められし性、残酷にして狡猾なり。
嗜虐にして淫靡なり。
頁に現れたるものは真実なれど、過ぎ去りし日の過ち。
すなわち蔑視すべきものなり。
「オーバーロードッ?! まて、どういうことだ。魔道書は物品ではなかったのか?! ということはビブロ・ヴァレリが実はオーバーロードであると、アシュレたちは知らずに潜入しているのではないか?! しかも大秘書庫の司書だと?! 保管されている本ではなく、主だとそう言うのか?! いかん、大秘書庫は敵のテリトリーだ!」
驚愕しながらも石版の図説と文言を頭に焼き付けるべく、食い入るように読む。
もう一度、さらにもう一度。
努めて冷静に。
己にそう言い聞かせながら。
「その身に潜みし《物語》は疫病のごとく。獰猛にしてヒトに憑き、ついにはこれを迷い狂わす。その変えたるは人品だけに留まらず。種や属さえも変えるほどに──その種や属さえも変えるほどに」
読めてきた、読めてきたぞ。
アスカは納得して深く頷いた。
これもやはりアスカが、これまで考えた予想通りであった。
《夢》つまり《物語》を仲介せねば受胎できない真騎士の乙女たちにとって、《物語》を自由に操るビブロ・ヴァレリは天敵に等しい存在なのだ。
おそらく真騎士の乙女たちは純粋であるがゆえに《夢》や《物語》という言葉で表される情報群の受容体が極端に敏感なのであろう。
人界の言葉に直せば「感化されやすい」ということになる。
ビブロ・ヴァレリはそこを突くことができるのだ。
そして、そうやって《物語》に汚された真騎士の乙女たちは理想像としての姿を保っていられなくなる。
さらに《物語》は自分たちと番となるべき人類の英雄が英霊となるのを阻害したりもする。
英霊なる存在を──人類の枠を超えた《夢》と捉えるならば、同じ理屈が働くのはもう間違いのないことだろう。
やはり、とアスカは唸った。
だから黒翼のオディールはアスカを前面に押し立て、ビブロ・ヴァレリをこの世から消し去ろうとしていたのだ。
真騎士の乙女の血を半分しか受け継がず、人間の血に至っては受け継いでいるかどうかすらわからないアスカは、純血の真騎士たちやあるいは人間に比べても《物語》的攻撃に対して耐性が高いという算段も、あるいはあったのかもしれない。
適材適所と呼べば聞こえはよいが。
だが、この扱いは──捨て駒であると考えるのがスジだろう。
アスカはこれまで自分が立ててきた仮説と推理が正しかったという証拠と確信とを、ハッキリと得た。
真騎士どもの思惑はともかく、父:オズマヒムにさえそのように扱われた事実を歯を食いしばり噛み殺した。
いまは感傷に浸ってよいときではない。
予想しえなかったただ一点=魔道書:ビブロ・ヴァレリこそはオーバーロードであるという新事実を前にしては、これまでの推察・予想・予測など風の前の塵に等しい。
「弱点は……なにか弱点はないのか」
なんとしてもこの試練に打ち勝つという思考に、頭を切り替える。
喪失の予感に震えているばかりではならない。
いまヘリアティウムに潜入しているアシュレたちは魔道書:ビブロ・ヴァレリがオーバーロードであることも、かつての大秘書庫の司書であることも知らぬのだ。
それは敵将の素性を知らぬまま、軍勢の待ち受ける敵地へと歩を進めるに等しい。
なんとしてもこの情報と敵に打ち勝つ方策、そのきっかけでも持ち帰らなければならない。
居場所を失う恐怖に震えていた自分を受けいれ、ともに闘うと誓ってくれたアシュレや仲間たちの姿をアスカは脳裏に思い描いた。
目を皿のようにして続きを読む。
「己の姿は弱きを好むも、真の邪悪を腹に宿す。秘められし性、残酷にして狡猾なり。嗜虐にして淫靡なり。頁に現れたるものは真実なれど、過ぎ去りし日の過ち。すなわち蔑視すべきものなり。されど……うむ、あったぞ続きだ」
アスカは古語調の文脈をつかまえなおし、読み進めた。
「この者、すなわち書籍狂なり。傑作の信奉者なり。娯楽を愛す己が性には逆らえじ。それこそが規矩なり──なんだ?! これ、だけか?! たったこれだけ?! ないのか、弱点は?!」
あまりのことにアスカは狼狽する。
これまで立ててきた仮説や推論に対して確たる裏付けをもらえたのはありがたいが……これでは。
そんな思いが鎌首をもたげる。
だから、いま自分が読み上げた決定的な「弱点」に気がつけない。
後に隼を用いてアスカから届けられた書簡に対し、どうしてイズマが満足げに頷いたのかまでは知らない。
「ともかく、すべてをできるだけ正確に憶えておこう。アシュレたちに連絡も取らねば」
つぶやいたアスカが次なる情報へと手を伸ばそうとした──そのときだった。
ごぐん、と施設そのものが揺れた。
「なんだ?! どうした?!」
「接続が急激に不安定になってきている。帰還を勧める」
背後を振り返ればその言葉通り、施設への侵入口であった銀色の水面の瞬きは、これまでにないほどに激しい。
他人事のように言う少女に、思わずアスカは食ってかかった。
「帰還?! 帰還って……オマエ……あなたはどうするのかッ?!」
「我は蛇の巫女たちの末裔として、この地を守護するが定め。蛇の氏族がヒトの十数倍の長命と驚異的な生命力を与えられたのは、そのためでもある」
ふたりの問答をふたたびの振動が遮る。
「ここに留まり、知識を守り後世に伝えるのが己の仕事だと、そう言うのか?」
「いかにも」
少女はアスカを見上げて答えた。
「しかし、それでは」
外界を知らず、いつ次の来訪者があるともわからぬ、この死せる知識の牢獄にたったひとりで──喉元まで出かかった言葉を押しとどめたのは少女が伸ばした指だった。
それだけは外見年齢そのままのふっくらとした指先が、アスカの唇に触れる。
「知識は死なない。いつの時代にも真にそれを欲するヒトがいる限り。知の《ちから》を灯火として、暗がりに黄昏る世界を切り拓こうという《意志》を、ヒトが捨て去らぬ限り。ここは必要とされる。死せる者の場所──墓所ではないのだ。いつかヒトの目に触れ甦る日を待つものたちのための場所なのだ」
「…………」
言葉を呑み込むように大きく息を吸いこんだアスカの様子に微笑み、指を離しながら少女はつけ加えた。
「その証拠に、今日はあなたが来てくれた」
理由のわからぬ感慨に襲われてアスカは泣きそうになってしまう。
いつそのときが来るかもしれぬ、必要とされるかどうかもわからぬ知識を、それでも求める者が現れると信じて後世に託し伝える。
そんなことになんの意味があるのかという同調圧力と時代の荒波を跳ねのけ、ここまで知識を守り抜いてくれた蛇の巫女たちの志にアスカは胸を打たれたのだ。
「さあ、急ぎなさい」
「ま、まってくれ、もうひとつ。もうひとつだけ!」
手を引き帰還を促す少女司書に抗い、アスカは三度、石柱の天面に指を走らせた。
「この期に及んでなにを」
「後生だ。たのむ。あとひとつ、あとひとつだけでいいんだ!」
《スピンドル》を励起し、アスカは最後の質問を検索する。
だが──結果は「該当なし」。
「ダメ、か。やはりないのか」
「なにだ? なにが知りたい。時間がない。特例だがサポートする」
アスカの必死さに、少女が鉄面皮を崩した。
老成した態度をかなぐり捨て、アスカの手に己がそれを重ねる。
「助かる。だが、しかし……」
「言え。なにを知ろうというのかは知らないが、決めたのなら、躊躇は美徳ではない」
少女の言葉にアスカは力強く頷き、告げた。
「わたしの、わたしの正体が知りたい。わたしがなにものなのか。それがどうしても知りたいのだ」
「それは哲学的・概念論的問いかけか?」
我々はなにものなのか、我々はどこへいくのか。
そういう人類誕生の端緒から連なる問いかけか、と少女は詰め寄った。
違う、とアスカは首を振り、笑った。
「もっと俗な、即物的な話だ。わたしが生物学的には……なににあたるのか、ということだ」
「どうしても知りたいのか?」
それを知ってどうするつもりだ、と少女の瞳は言っていた。
「踏ん切りをつけたい。己の出自のすべてを知った上で、運命を乗り越えたい。いかんか?」
遅滞なくそう言い切ったアスカに少女は頷いた。
「ならば、話は簡単だ。石柱に手をかざせ。種の同定は“接続子調律”の基本中の基本。数秒で解析は終わる」
そう少女が言い切った瞬間には、石柱から切り取られた文字板が、まるでアスカ宛ての手紙のように現れ出でた。
「これが、そうなのか?!」
「驚いているヒマはない。走れ、異邦の姫よ。時間が、もう時間がないのだ!」
文字板の中身を確認しようとするアスカを急かして少女が手を引いた。
うむ、とアスカは走る。
この施設へと上陸するときに使った水面は、もう消えかけてしまいそうなほどに儚く瞬いている。
「いかん、間に合わん」
「いいや、間に合うッ! 潜り抜けるッ! わたしは帰るんだッ!」
アシュレやアテルイの待つ、向こう側へッ!
絶望に満ちた少女の叫びを切り裂いてアスカは跳躍した。
その瞬間には強力な《スピンドル》の唸りが、両脚を成す告死の鋏:アズライールへと伝達されている。
「おおおおおおおおおおお──虚心断空衝ッ!!」
アスカは全身を捻り、まさしく光の矢となって世界の境界面を突破する。
ビャウ、という轟とすさまじい余波を残し、現れたときとは裏腹に凄まじい勢いでアスカは《門》を潜り抜けた。
生じた突風に飛ばされた少女が衝撃から立ち直り身を起こしたときには、もう影もカタチもそこにはない。
「なんという慌ただしい来訪者だ」
少女は思わず悪態を吐く。
そして、それがなんと数百年ぶりのことであるのに気がついて、ひとり嬉しそうに笑うのだった。




