■第五〇夜:水底の蛇神
アスカは静かに泉に身を浸した。
身を切られるほどではないが、泉は冷えている。
南トランキア平原の先に連なる峰々は、高度はそれほどでもないが深く豊かな森を持っている。
いま眼前に湧く泉の清浄なる水は、トランキアの森林地方に降った雨や雪解け水が地下へと潜り伏流水となって、ここグラフベルドの森でふたたび地上に姿を現したものだ。
争いを好まず、平穏を愛し、黒曜海の一地方ではいまだに航海の無事を護る蛇神として崇められているというシドレラシカヤ・ダ・ズーのことを思い出しながら、アスカは水中に伸びる階段をゆっくりと下っていった。
やがて首から下がすべて泉に没する。
「殿下」
案ずるように小さく己を呼ぶアテルイを一度だけ振り返り、アスカは微笑んだ。
そして、意を決したように水を蹴った。
水面から伸び上がり、勢いをつけて──潜る!
蛇の巫女の加護は、驚くべき体験をもたらした。
窒息の恐怖と恐るべき水圧からアスカはこのとき完全に自由だったのだ。
蛇の巫女の加護なくば得られなかったであろう解放感に、アスカはつかの間、陰謀論を忘れた。
『まるでお伽話に出てくる人魚姫のようだな』
持ち物は両脚をカタチづくる告死の鋏:アズライールと蛇の瞳の宝珠を入れたバッグのみ。
それ以外はまさに一糸まとわぬ姿で潜水していくアスカのシルエットは、たしかに幻想的な生物に見えた。
そして、幻想的であるというのであればアスカの言うように人魚こそ、その筆頭である。
ファルーシュ海沿岸地域において存在自体がもはや伝説・幻に近いという意味でも、そうだ。
数十年に一度、目撃例があれば良いほうで、図版はともかく実物を見たことのある人間はまずいない。
漁師たちによれば、彼女たちは死ぬと驚くべき速さで泡になってしまうのだという。
だから標本にもはく製にも、ミイラにすることもできないのだと。
わずかに骨の一部と鱗が残るばかり。
食せば数百年の長寿を約束するという眉唾なウワサもあるが、死すれば泡になるというのでは調理する側も饗される側も文字通り泡を食った話になるというわけだ。
人魚が泡になるのは一説には神の手なる被造物ではないがために、その胸の裡に《魂》を持たぬからだと言われてもいる。
だとしたら──わたしもあるいは死したならば泡に還るのかもしれぬ。
それはアラムの教えに照らせば同じく神の被造物ではないとされる真騎士の乙女の娘として、アスカがこれまでずっと胸に秘めてきた怖れのカタチだ。
トラントリムでの戦いで巨大な《フォーカス》:ログ・ソリタリの内側に捕らわれ、そこで相対した“再誕の聖母”:イリスの宣告がそれを決定的なものとした。
すなわちオマエは父:オズマヒムの血さえ受け継いでいない、という告知だ。
そして、父の背後に暗躍する黒翼のオディールたちの存在が否応もなく、己が血筋に対する怖れを煽り立ててくる。
自らは間違いの側に立つと宣言したものの、いつのまにかアスカは自らの不備や不足を指摘し、突いてくる者どもに心を折られそうになっていた。
それを察知し心のウチを吐き出すことを許してくれたのは仲間たちだ。
オマエには《魂》などない。
オマエは人間ではない。
オマエは嫡子としての血を引いていない。
そんな『正しさ』を背景にした圧力から、アスカを救ってくれたのは周囲に集ってくれた人々の繋がりだった。
不完全で、間違いだらけで、運命に翻弄されながらも抗う者たちがアスカに居場所を示してくれた。
そういえば、いつだったかアシュレが言っていた。
イズマと初めて出逢ったときの話だ。
夢に出てきていきなり言われたそうだ。
「ヒトに《魂》などない。この世界のすべてのものにさえ、だ。オマエのような小僧になど言わずもがなだ。──ただ、《魂》に近づくことはできる」
続けてこうも。
《スピンドル》を思え、と。
アシュレを蹴飛ばしながら。
「それは螺旋であり変化の《ちから》。《意志》あるものだけに訪れる《閉鎖回廊》を打ち破る《ちから》の名前。小僧、貴様もそうだろう?」
導かれるように深みへと向かいながら、アスカは考えている。
「オマエには《魂》などない」という宣告と「ヒトに《魂》などない」という言葉の違いを。
《意志》あるものだけに訪れる《閉鎖回廊》を打ち破る《ちから》のことを。
いつしかヒトを《魂》へと近づける《ちから》のことを。
《意志のちから》──すなわち《スピンドル》のことを。
なぜなら、アスカは実際に見たのだ。
《スピンドル》を経て《魂》に辿りついた男の姿を。
それはいつか自分もその戸口に立てるであろうという希望だ。
そもそも皆が持ち得ていない《魂》の有無を正しさの象徴として掲げ他者を苛むやり口と、イズマやアシュレのそれは真逆にある考え方だ。
この世にまだない。
あるけれども、所有することはできない。
ただ、限りなく近づくことはできる。
だから、ただただそこへ《意志》をもって向かうということ。
具体的には懸命に生きること。
それがイズマが示し(アシュレの見た夢だが)、実際に可能であるとアシュレが示してくれた希望のあり方だ。
あの光を忘れてはならない。
あの輝きを色褪せさせてはならない。
水底へと、それも暗闇の底へと潜るという行為は、もしかしたらヒトに内省を自然に促すのかもしれない。
アスカはそんなことを考えながら、気がつけばずいぶんと深みまで降りてきていた。
ここまで来てしまうと水面から差し込む光も弱々しく、ほとんど頼りにはならない。
だが、暗闇を押しのけるようにバッグのなかの蛇の瞳の宝珠が強く輝きを放ち始めたのはそのときだ。
あたたかなオレンジ色の光が、強く、弱く、脈打つように瞬きながらも周囲を照らし出す。
次の瞬間、ほとんど暗闇に等しい水中で浮かび上がった光景に、アスカは息を呑んだ。
青き鱗で装飾された巨大な平面の蛇神の頭部の意匠が足下に、まるで絨毯のように広がっていた。
西のものでも東のものでもない独特なセンスで意匠化されたそれが門を思わせて、そこにはあったのである。
「まるで門のような……いや、そうではない。これは……これこそが門そのものなのか」
アスカはいまや光の球と化したシドレラシカヤ・ダ・ズーの瞳を掲げ、その意匠を観察して回った。
「だが、どうやって開く。取っ手もなければかんぬきのごときものもないぞ?」
しばらくその巨大な門を見回って唸った。
「まさか……告死の鋏:アズライールで破壊するわけにもいかんだろうし。そんなことを蛇の巫女が許すはずもない」
構造を見る限り、いまこの扉を告死の鋏:アズライールの超破壊能力で打ち抜いてしまったら──泉の底が抜けることになる。
それがいったいどのような結果をもたらすのか想像もできないが、周囲の泉水との水面の高度差を考えるにこの祭壇の泉が特別であることは間違いない。
そんなものをうかつに破壊したら、とんでもないことが起こるであろう。
「まさか、また蛇の一族にだけ許される特別な証がいるのか。しかし、いまわたしが持っているのはこの宝珠だけだぞ」
うめきつつ視線を走らせたアスカは、あることに気がついた。
いま眼下に見える蛇神の瞳は、ひとつきりだ。
「蛇神が片目とは……蛇の巫女:シドレではないが、よくよく蛇の一族というのは……」
何の気なしに口走った己の言葉にアスカはもう一度、息を呑んだ。
「そうか、わかったぞ!」
言うが早いか、アスカは蛇神のもうひとつの瞳があるべき場所へと泳ぎついた。
「ない。こちらには瞳そのものがはまっていない」
アスカが辿りついた蛇神の眼窩には、ちょうどいまアスカが携える宝珠がすっぽり収まる大きさの穴が玉を受ける台座を思わせて空けられていた。
「やはり。ならば!」
からくりを理解したアスカは、意を決して己が掲げる光球をそのなかに投じる。
蛇の巫女の瞳はアスカの直感のとおり、台座にぴたりとはまった。
どくり、どくり、と瞳が瞬く。
その直後、がごり、とアスカは蛇神の扉の内部でなにかの装置が動く音を聞いた。
「これでよいのか? 正解か?」
だが、それっきり扉であるはずの蛇神の頭からはなんの反応もない。
「まだ、まだなにか足りないのだな」
アスカは冷静に分析する。
西側諸国による「その性、慇懃を装いて酷薄。教養と道理の通ずぬところあり。時に激発す。交渉相手として不適」などという表面的な人物評価とは裏腹に、幼少期から物語を愛し、少女時代を書籍に親しんで過ごしてきたアスカである。
西側大使たちによる評価も、道理や激発の部分はともかく、教養に関しては相手のそれの不十分さ・不正確さにではなく、その不正確さを盲信したまま奢る態度に怒っただけのことである。
つまるところ、アスカリヤという人物はその内側にいまだ文学少女としての部分を住まわせるヒトだったということだ。
それゆえ、こういう遺跡の謎解きめいた探索行にはすくなからぬ憧れを抱いてもいた。
それが証拠に、口元には作意的ではない自然な笑みがある。
すこしだけ浮上して、蛇の両目が視界に収まる位置につけばからくりは自然と理解できた。
「なるほど、両目をはめただけではダメなのだな。瞳には光が灯っていなければならないのだな?」
直感に従い泳ぎ寄り、瞳を成す宝玉に手を触れると、アスカに宿っていたシドレラシカヤ・ダ・ズーの瞳の輝きがその手を伝播して蛇神のそれにも移った。
これで蛇の両目に光が宿ったことになる。
「どうだ」とアスカが言うが早いか。
がごり、と音がしたかと思うと今度はゴゴゴゴゴ、という地鳴りとともに泉全体が震えた。
「なんだ? どうなるんだ?!」
アスカがあわてて周囲を見渡す。
だが、揺れは次第に収まりやがて静かになった。
「これで終わり? どこに変化が?! 扉は開かないのか?!」
拍子抜けする結果にアスカが叫んだときだった。
気がついたのだ。
蛇神の額の真んなかに空けられたくぼみが、まるでもうひとつの水面のように銀色に輝きを放っていることに。
もちろん、ここは水中である。
下方にもうひとつの水面など、あるはずがない。
もちろん、それはここが普通の泉であれば、だ。
「まさかこの現象……《門》なのか?」
アスカは過去、《門》へと飛び込んだときのことを思い出し、一瞬だが躊躇した。
「いけるのか」
しかし、戸惑っている時間はなかった。
なぜなら、その銀色の面は瞬くように明滅を繰り返していたのだ。
よく見れば《門》の瞬きは、蛇神の片眼=シドレラシカヤ・ダ・ズーの傷ついた瞳の拍動と連動していた。
おそらく瞳が傷ついているため《門》を支える《ちから》が完全ではないのだ。
いつまでこの状態を維持できているものかさえも、これではわからない。
一秒、アスカは目を閉じ考えた。
そして、次の瞬間──《門》へと身を投じた。




