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■第四九夜:深淵は誘う



「だとすれば、この祭壇の深奥にこそ、蛇の巫女めがわたしに見せたかったものが眠っているということだな」

 思い切りの良いアスカの言葉に、思わずアテルイがしがみついた。

「殿下、危険です。罠ということも充分に考えられます!」

「それについては議論を尽くしたぞ、アテルイ。蛇の巫女めが真に我らの命を狙っているなら、こんな回りくどいことをせずとも昨夜の間に、我が本陣を襲っていただろうよ」

「しかし」


 それこそ陰謀のための演出なのではないか。

 蛇の本当の狙いはアスカという存在ひとりだけなのではないか。

 アスカの衣を握りしめるアテルイの指からはそんな思いが感じられた。


「おまえの案ずるようにはかりごとは、たしかにあろう。しかし、それがいかなるものか確かめてみたくはないか? 手を打つのは蛇めの出し物を見てからでよい」


 なぜなら、と食い下がるアテルイにアスカは微笑んだ。

 肩からたすき掛けにしたバッグの奥で、傷ついた宝珠が鈍く光を放っている。


「いまここにある宝珠こそは蛇めの瞳、そのものだ。だからこそ我らはここへと辿りつき得た。つまり我が眼をくりぬき引き換えにしてもなお、見せたいものがあの蛇には──シドレにはあるのだ。ヒトを頼むには手段と態度も不遜そのものだったが、わたしは案外とこの件、嘆願ではないかと考えているのだ」

「嘆願?! 蛇の巫女が、嘆願ですと?!」


 アスカとアテルイはそんなふうにして議論を交わしながら、長方形のあなの姿をした蛇の祭壇だという遺跡を水面を目指して降りて行く。

 そういう観点で見れば、ジグザグに折り返しながら地下へ地下へと伸びる無数の階段は、たしかに祭壇に群がる蛇の姿を思わせる。

 アテルイの声はその四方に反響し、殷々(いんいん)と響き渡った。


「アテルイ、うるさいぞ。怖いなら、上でダリエリとともに待っていてもよいのだぞ」

「なにをおっしゃいます! 行きます、ともに行きますとも! それがわたくしの役目なのですから。ここで怖じ気づいて殿下をおひとりで行かせてしまったら、旦那さまに合わす顔がありません!」


 いっぽうこちらの制止の言葉など聞かずについてくるとばかり思われた巨匠マエストロことダリエリだが、おもむろに画架イーゼルを立てると祭壇の精密な写しを描き始めた。

 そして、ひとたび絵筆を取った彼にはもうアスカのものもアテルイのものも、とにかく声は届かないのだ。

 なるほどこれが本物の天才かと、ふたりは半分感心し半分呆れ、諦めて自分たちの仕事に取りかかることにした。

 そしてこうやっていま、地下へとひたすらに続くつづれ織りの階段を下っているわけだ。


「それにしても、やはり奇妙だな。他の泉とこの祭壇とでは水面の高低差が数十メテルは確実にあるぞ」

「そう言われてみれば。失念しておりました」

「それにおかしな気配を感じる。耳の奥でだれかが囁くような声がする」

「我らの話し声の残響……などということはなさそうですね」


 そして、ここがいかに特別な場所なのかを示すように、アスカは手をかざして見せた。

 グォン、と力場の渦が生まれるのをアテルイは見た。

 常人には不可視の《ちから》。

 《スピンドル》の回転だ。


「抜かるまいぞ」

「はい」


 ほどなくして主従は祭壇の底へと辿りついた。

 そこは満々と水をたたえる泉である。

 水は恐ろしいほど澄んでいる。


「地の底にある澱みのはずなのに、これほど清浄な水をたたえているとは」

「ほのかに光を発しているようにすら感じられます。まるで……神官たちが水垢離みずごりに使う清水のよう」

 周囲に満ちる静謐な空気にアテルイが言った。

「巫女たちの禊の場、という意味ではまさにその通りかもしれんぞ」

 アスカの答えに、アテルイは納得の頷きを返した。


「しかし、これで終わりか。道が絶えてしまったぞ」

 鏡のような水面をのぞき込みながら言ったのはアスカだ。

「ずいぶんと下って来ましたが……まさかこの無数にある階段のどこかに隠し扉のような仕掛けがあるというのでは……」


 ダリエリの昔話に出てきたユガディールの隠し部屋の件を持ち出して、アテルイが応じた。

 見上げると気の遠くなりそうな数の階段と踊り場で壁面は埋め尽くされている。

 こうして底から見上げるとそれは逆三角形のピラミッドとも取れた。


「もしそうなら、我らだけでは十日かかっても全部を改めることはできんぞ」


 冗談であってくれ、とアスカは溜め息をついてもう一度、水底をのぞき込んだ。

 水は清くどこまでも透き通っているが、深い淵の底までを見通すことはできない。

 魚でもなければ、ここから先に進むことなど到底不可能だ。

 それなのにどういうつもりなのか四辺を縁取る階段は、その先にもずっと続いているのだ。


「水はこれほど澄んでいるのに、見通せない。どこか別の世界に通じていそうなほどに深いな……」

「水の世界を我が物とする蛇の巫女たちであれば、あるいはこの淵を潜れるやもしませんが……」


 ふたりが顔を見合わせたのはそのときだ。


「それだ」

「階段はまだ水のなかにも続いている!」

 アスカとアテルイの予想は正解だった。

 そして、その言葉に応じるようにバッグのなかの宝珠が光を放ち始めた。

「なんだ、これは。このあたたかい光は」

 蛇眼の宝珠が突如として放ち始めた光は持ち主であるアスカの肉体に伝播し、これをやさしく包み込んだのである。

「殿下!」

「案ずるな、アテルイ。危険は感じない。むしろなにか、加護を垂れてくれているようだぞ、この宝珠は」


 驚愕するアテルイを押しとどめ、アスカは己が肉体を包み込むかすかな光の幕を眺めた。

 それから思い立ったように、踊り場に膝をつくと水面に顔を沈めて見せた。


「殿下!」

 

 ふたたびアテルイが叫ぶが、アスカは腹心の声を無視した。

 それからどれくらいしただろうか。

 おそらく、時間単位にして数分。

 短いが、特別な訓練を経ていない人類が水中で息を止めておける時間としてはあきらかに限度を超えている。

 なにより驚いたことは、それからたっぷり三十秒も待って水面から顔を上げたアスカが、息切れひとつしていなかったことだ。


「おどろいたぞ、アテルイ。息が出来る。宝珠の加護だ。すばらしい」


 水を滴らせながら満面の笑みで言う主君に、アテルイは言葉を失う。

 子供のような無邪気な笑顔のその先に、難局にあって次々と決断を下していく覇王の姿をかいま見たのだ。

 そして、アテルイの思いの通り、アスカの行動は素早かった。


「試してみよう。アテルイ、手を出せ。光が移せるかどうか、やってみよう」


 アスカはアテルイの手を取り、蛇眼の宝珠の加護が他者にも移せるのかどうか試みた。

 だが、こちらはうまくいかなかった。


「なるほど、わたしだけに来い、と言っているのか」

「殿下! なりません!」


 三度みたび叫んだアテルイを尻目に、アスカは衣服を脱ぎ始めた。


「な、な、なにを。殿下!」

「なにって……他者の神域に入るのだ。身ひとつになるは、礼儀であろう」


 人界に伝わる蛇の巫女たちの物語ではヒトに恋した彼女たちが正体を見抜かれ海に、あるいは湖に、あるいは河にと帰るとき、衣を脱ぎ裸身となるという類型が多い。

 このときアスカはそれを思い出していたのだ。

 加えて脱皮・・は、蛇のサガである。


「だからといって……無防備過ぎます、殿下! 御身にもしものことがあったなら」

「恐れるな、アテルイ。故事にも言う。虎穴に入らずんば虎児を得ず。それに我には告死の鋏:アズライールの加護もあるわ」


 驚くべき潔さで衣服の一切を脱ぎ捨てた主の笑顔に、アテルイにはもう言葉がない。

 ただただ無事の帰還を祈るように身を寄せ、唇を差し出すのが精一杯だった。



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