■第四五夜:蛇の巫女
「だれぞ」
裸身のままアスカは暗がりに問うた。
枕元の宝剣:ジャンビーヤに手を伸ばすことさえしない。
アスカにとってはその両脚こそが、すでにして世界最強クラスの武装であった。
「さすがは、我が見込んだ御方。まずはよく気づかれましたと褒めておきましょう」
対する応えは、ぎょっとするほど近くから聞こえた。
声は先ほどアスカとの逢瀬で果てたアテルイの口からもたらされたのだ。
そして、それがアテルイのものでないことも、アスカには瞬時にわかった。
「アテルイの霊媒としての《ちから》を利用したか……」
アスカの副官であるアテルイは《スピンドル能力者》であるだけでなく霊媒という、そのなかでもさらに特殊な資質の持ち主である。
ヒトの共感能力に直接働きかけ情報の伝達を行う術に長け、死者の言葉を引き出すことのできる霊媒たちは、政治・軍事を問わず強力な決定力であり、その存在は権力者たちによって畏怖され秘され、あるいは疎まれてきた。
行商人や巡礼に託す伝言や、使者の携える手紙、伝書バトや狼煙による伝達が連絡手段のほとんどすべてだった時代だ。
時と場所に制限されることなく、望んだ相手にのみ確実にメッセージを伝えることのできる霊媒たちが切り札としてどれほど有用かは、あらためて語る必要もあるまい。
死者の言葉を代弁する口寄せの強力さに至っては、時の権力者たちが彼女らを排斥した理由もわかろうというものだ。
その上で、どうやらいまその口を借りて話す者はそんなアテルイの秘したる異能を、いずこかで知り得ていたらしい。
さらに彼女ら霊媒が口寄せを行う際、トランスの過程である種の薬剤や酒精、ときには性的な快楽を利用することさえ熟知しているようでもあった。
つまるところ彼の者は、アスカとアテルイの性的交歓を触媒に使ったのである。
「名乗れ」
だから、アスカの口調には愛する者との逢瀬を覗かれたという怒りがあった。
しかし、同時にこのような手段を用いて接触を図ってくる相手への好奇心も、どこか笑みを含んだ言葉遣いからは感じられた。
そんなアスカの心と豪胆さを感じ取ったのか。
ふむん、とアテルイの口を借りた相手は唸ってみせた。
「いまはまだ蛇、とだけ」
「蛇。ほう、いささか意味深な名だな」
うろんなヤツ、とアスカはつけ加え、ひじ掛けに腕を載せて姿勢を崩した。
美しい褐色の胸乳がふるり、と揺れる。
もちろん裸身を恥じるようなアスカではない。
「で、その蛇がこんな時分に、わたしの寝室になんの用か」
「殿下にぜひお伝えしたきことがございまして」
「なぜ、使者を立て、白昼堂々とやってこない」
「いまからわたくしがお伝えするのは、秘事にございますれば」
「うろんな連中は必ずそう言う。残念だが謀ならば間に合っているぞ。さがれ」
アスカのけんもほろろな受け答えにふふふ、と“蛇”と名乗った声の主が笑った。
「威勢のよいこと」
「わたしは一軍を預かる将にして、皇子であるぞ。胆力と覇気で他者に負けているようでは話にならん」
「その心ばかりか肉体までも恋する乙女でありながら、この豪胆さ──さすがはオズマドラ帝国の第一皇子。このシドレラシカヤ・ダ・ズー、感服いたしてございます」
アスカの正体を言い当てた蛇は、その無礼の代償であるかのように名乗った。
ほう、とアスカは目を細めた。
蛇と言われた時点でだいたいの見当はついたが、これはとんでもない大物が出てきたものだな。
裸身の姫皇子の口元には、自然と獰猛な笑みが浮ぶ。
シドレラシカヤ・ダ・ズーの存在は、これまでオズマドラ帝国がヘリアティウム攻略に二の足を踏んでいた要因のひとつである。
黒曜海を主な住み処とするこの大海蛇は、オズマドラ帝国とビブロンズ帝国を物理的に仕切り分ける海峡にも出没することが確認されていた。
狭い海峡を挟んでにらみ合った両国が、それなりにしても友好な関係を長年続けてこれたわけ。
そして、オズマドラ帝国が主兵力を陸軍に求めてきた理由。
かの蛇の巫女は、それぞれの遠因でさえあったのだ。
とすれば、この密談の目的は……なんだ?
アスカは思う。
次の瞬間には訊いている。
「命乞いか」
ビブロンズ帝国の、とまでは言い切らぬがそれでも充分単刀直入なアスカの問いかけに一拍、間があった。
それから、またあの静かな笑い声がした。
「わたくしはただ御身に勝利を捧げたく思い、まかりこしました」
大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーからの意外な答えに、今度はアスカが一拍おいた。
ここで言う“勝利”とは、ヘリアティウムを捧げるとの意にさえ取れたからだ。
これまで黒曜海の安寧を願い、どちらかと言えばオズマドラの覇業に対し抵抗し続けて来た蛇の巫女からの言葉とはとても思えなかった。
「にわかには話の意味がわからぬが……。だいたい、わたしはこの地に遊行に参っただけ。しかも父から疎まれた日陰の皇子だ。勝利を捧げるならば、我が父:オズマヒムにするのだな」
言外にこの戦いの決定権は自分にはない、とアスカは言ったのだ。
ビブロンズ帝国の、そしてその首都:ヘリアティウムの命運の采配を握るのはオズマヒムだと。
直談判なら相手を間違えている、とそう指摘した。
だが、蛇の巫女は引き下がらなかった。
「御身の現在の地位がどうであるかは問題ではございません」
「それは未来の勝者にわたしを推す、という意味と取ってよいか」
アスカの問いかけに対し、返ってきたのは長い沈黙だった。
頃合いか、とアスカは思った。
未来の勝者がアスカ自身であるとするならば、父:オズマヒムはそうではないとこの蛇は言っているのと同じだ。
だとすればこれは、オズマドラ第一皇子として耳に入れてはならぬ類いの奸計に相違あるまい。
話を聞いたという事実だけを抜き出し、アスカリヤに叛意ありという繰り言を捏造することさえ出来なくはないのだ。
圧倒的な《ちから》を誇る蛇の巫女がいったいどのような策謀を巡らせたものか気になりはしたが、迂遠な駆け引きはアスカにとって、もっとも性に合わないものだった。
即断した姫皇子は、話題を切りにかかった。
「しかしだ、蛇の巫女よ。夜も更けた。オマエも知るように激しく愛を交わしたあとだ。ひどく眠い。戯れ言を弄しに来たのであれば、疾く帰るがよい。そして、付け加えるならば、オマエは策略を持ちかける相手を間違えている。わたしはオマエの笛では躍らぬ。その娘から出て行け」
「いいえ。思い違いをされているのは殿下、御身のほうです。わたくしが今宵、馳せ参じましたのは謀のためではなく、御身の失われた愛のため」
御身の、つまりアスカ自身の失われた愛のため。
蛇の巫女はそう言ったのだ。
そして、それはアスカにとっての逆鱗だった。
なぜならそれは父:オズマヒムと、アスカの母にして真騎士の乙女がひとり:ブリュンフロイデの間にあった“心”のことを意味していたのだから
「なに?」
なぜ貴様がそれを知っている?
低く怒気を孕んだアスカのつぶやきに呼応するように、アテルイの背にまるで目に見えぬ蛇が這っているかのごとく縄目様の痣が次々と浮かび上がった。
「わたくしの《ちから》を甘く見ぬよう」
そのさまに、すうう、とアスカが息を呑むのが聞こえた。
「その娘を傷つけたなら今度はオマエを必ず同じ目に合わせる。いまここで我が神:アラム・ラーに宣誓しよう」
アスカの一喝に、目に見えぬ蛇はその進軍を止めた。
消えもしなかったが。
それから唐突に、蛇の巫女は言い放った。
「グラフベルドに向かいなさい。あの深き森に、御身が求めるものがありましょう。伴のものは最小限で、お忍びで参られることを勧めます」
「少人数で、忍んで、だと?」
そんな言葉が信用できるものか。
アスカの言葉には怒りを通り越し、呆れがあった。
指定の場所に敵将をほとんど単騎で釣り出すことができれば、あとは計略を仕掛け放題というものだ。
しかも、蛇の巫女の誘いである。
こんな申し出に応じる将など、大陸全土を探してもどこにも居はしないであろう。
いや……とそこまで考えてアスカは目頭を揉んだ。
アシュレならあるいは、と考えてしまったのだ。
あのバカなら。
そんなアスカの様子をどう捉えたのか。
蛇の巫女は動じた様子さえなく、続けた。
「今宵の逢瀬が夢幻でなく、偽りでもない証拠を我は殿下に差し上げましょう。明日、黒曜海の浜辺を家臣たちに探らせなさい。我が真心の証が、そこにはあるでしょう」
「なんだと、おい貴様、どういうことだ!」
「これは御身と御国の今後に深く関わること──ゆめゆめお忘れなきよう。我が忠告を、決して軽んじなさいませぬよう」
言い募ろうとしたアスカをおいて摩訶不思議な会話は、それきり途切れた。
ぶつり、とまるで糸が切れたようにアテルイの肉体から気配が抜け出す。
アスカは跳ね起きるとアテルイに駆け寄り、その裸身を抱き起こした。
ふう、と深い吐息がアテルイの唇から漏れる。
ぐっしょりと肌を濡らす汗は、アスカとの交歓によるものだけではない。
さいわいにも命に別状はないようだ。
だが、その肉体にはあの蛇が這ったような痣が、うっすらとだが残されていた。




