■第四二夜:初恋は嵐のように
『だ・か・ら、親密度を最大限まで高めろ、と言ってるんですの!』
浴室の床に座り込んだスノウはエルマからの至上命令を反芻して、固まった。
なお、アシュレのほうは浴槽に身を沈めたまま、すでにスノウから最大限の距離を取っている。
互いの位置を入れ替える王の入城を応用した一本釣り──魔道書:ビブロ・ヴァレリ奪取作戦の要と意気込んで請け負ったまでは良かったが、それには前提条件を満たす必要があった。
その条件とは対象となるふたりが、親密な存在にならなければならないということである。
逆説的に王の入城を用いるには、スノウとアシュレの親密度が足りてないと土蜘蛛の姫巫女たちは指摘したのだ。
それでこのスノウの行動である。
「ど、どういうことなんだ、スノウ! いいや、理由はなんでもいい。早く出て行くんだ。こんなことを二度と女のコがしちゃいけない!」
当然だがそんな事情など知る由もないヒトの騎士の混乱は頂点に達していた。
スノウの行いを叱りつつ、自分を大事にしろと諭す。
アシュレの模範的な騎士としての態度に、スノウは思わずなぜ自分がこんな破廉恥な行動に出なければならなかったのかを説明しそうになって、あわてて口をつぐんだ。
それは出来ない。
してはならない相談なのだ。
なぜなら事情をつまびらかにした瞬間、この計画そのものが瓦解するのだから。
このわからず屋! と叫びたくなる衝動をかろうじて押さえ込む。
「あうううううう」
全身の血液が沸騰したかのように熱い。
耳の奥で鼓動が教会の鐘のようにガンガン鳴っている。
たぶん、いま自分は頬や耳どころか全身真っ赤になっているに違いないとスノウは思う。
それをアシュレに知られてしまっているという事実が、羞恥心をさらに煽り立てる。
正直、ここまで来るだけでスノウはいっぱいいっぱいだったのだ。
「スノウ、出て行きなさい! そしてボク以外のだれに言われても、こんなことを二度としちゃいけない。早くここから出て、服を着て」
それなのに主人である騎士はそんなことを言う。
『健全な殿方であれば、こんなかわいい従者さんのサービスを袖にできるはずがございませんの。お邪魔虫のコウモリ女は我らが押さえます。さささ、急いて、はよう。今宵を逃したらこの作戦の配役は私と姉さまが担当いたしますわよ?』
エルマの言葉を思い出してスノウはさらに煩悶した。
「ううう、エルマの嘘つき! 否定されてる。メチャクチャ拒絶されてるし!」
思い通りに進行してくれない現実に、スノウは激しく狼狽した。
スノウだってまさかここまで強硬に拒否されるとは思っていなかったのだ。
これまでスノウは容姿という意味でも性格という意味でも、器量においてそこそこ以上のものがあるという自負を持って生きてきた。
実際、村の若い男たちはスノウには特別優しかった。
その自分が背中を流しに現れたら、どんな殿方もきっと悪い気はしないはずだと思っていたのだ。
心の中で、これまでは。
それなのに!
これは計画のどこかに無理があったのではないか。
たとえばアシュレがエルマの想定したような健全……この場合は女性に反応する(?)人物ではなかったのではないか?
いや、それはない、とスノウはこれまで目撃してきた数々の現場を思い出して、即座に否定した。
だとしたら……わたしのサービスに不安があるのか。
いや背中くらい流せるし。
ではまさか、わたしがかわいくないとかそういうのだろうか。
もしくは実は嫌われているという可能性も、ある。
導き出された結論にガーン、と頭のどこかで弔鐘めいた音が鳴り響くのをスノウは聞いた。
とたんにそれまで全身を駆け巡っていた熱い血が、一気に冷めるのを感じた。
ふらふら、と立ち上がればめまいがした。
無意識のうちに「そうなの……まさか……」とつぶやいている。
「そうなの……まさか。ねえ、ご主人さま……もしかして、わたし」
かわいくない、んですか?
壊れそうなくらい虚ろな瞳で半裸の半夜魔の娘は訊いた。
「はい?」
あまりの急展開にアシュレはまったくついていけず、バカ丸出しの顔をした。
それがスノウを再点火させた。
「やっぱり、かわいくない──かわいくないんでしょ! でなければ嫌いなんだ! そうなんだ! だから、わたしを拒絶するんだ!」
迫り来る肌着姿のスノウに圧倒され、アシュレはついに浴槽の縁にまで上半身を退避させねばならなくなった。
「いや、ちがうって。っていうか、なにを言ってるんだスノウ! そうじゃあない! そうじゃあなくって! ボクが言っているのは、キミはキミ自身をもっと大事にしろってことだ! これまでもそうだったろ。密航している間にどんな目にあった?! インクルード・ビーストに襲われ、エルマのヘンな薬でピンチになり──頼むから、自分を省みて欲しいんだ」
アシュレの言葉は正論だったが、自分を見失いかけている娘さんに対してのそれは逆効果であることのほうが多い。
今回もそうだった。
あっ、と言う間もなかった。
バンビのような小柄でしなやかな肉体が苦もなく浴槽のへりを乗り越える。
ざぶり、と水しぶきを上げてついにスノウはアシュレに肉迫した。
「スノウ、なんてことを!」
「答えて、アシュレ! どうなの?! あなたは、わたしをどう想っているの?!」
慌ててスノウを掴んだアシュレを、半夜魔の娘は掴み返して訊いた。
強く、拒否させないほど真剣に。
アシュレは彼女のペパーミント色の瞳の奥に宿る、あの狂気にも似た光を見つけてしまった。
それは初めて出逢った闘争の夜に見たものと同じだ。
自分の居場所に怯える目。
だから、答えた。
できる限り誠実に。
「かわいいと思うし、嫌ってなどいない。大事だと想っているよ」
「聞きたいのはそういうんじゃない!」
どうしてこんな展開になってしまったのか、当のスノウにももうわからなくなっていた。
最初は作戦の遂行のために必要だったからのはずだ。
こんな大胆過ぎる行動に出れたのだって、そういう必要があったればこそだ。
きっとそうだ、そうに違いなかった。
もちろん、これが倫理的・道徳的にトンでもない行いなのだとはわかっている。
もし計画が成功したあとで、成り行きでアシュレとの関係がどこまでいってしまうのか想像だってした。
でも、それでも構わないと覚悟した。
それくらいにはスノウのなかで、すでにアシュレは大きな存在となっていた。
なにしろ──見失ってしまった人生の目標=ユガディールの替わりなのだ。
わたしからあのヒトを奪ったのはアンタなんだから、とスノウは思う。
なのにアシュレは肌着姿のスノウを、ひと目見ただけで拒絶した。
触れようとさえしてくれなかった。
ひどいショックをスノウは受けた。
殿方に献身を拒まれるということが、こんなに心を傷つけるものなのだとは知らなかった。
全世界に拒否されたように感じた。
気がつくと涙が止められなくなっていた。
どうしてわたしを拒むの、と言い募ろうとした。
するとアシュレは言ったのだ。
「ボクがキミをどう想っているのかは知っているはずだ。キミはボクの心ものぞいたのだから。《スピンドル》を繋げ、互いに心を通わせたのだから」
その言葉がきっかけだった。
ずきり、とスノウは胸に痛みを覚えた。
胸郭の奥から生じたその心の痛みは実体を得て、たちまち肋骨をねじ切るようなうねりになった。
息が、うまく、できない。
その間にもスノウの脳裏を過っていくのは、いつか船中で見たアシュレの心の中身だった。
彼の言葉が夜魔の血に起因する優れた記憶力に、きっかけを与えたのだ。
あの日、心を繋げた記憶。
そう、いまのアシュレの言葉に嘘偽りはない。
たしかに大切には想ってくれていた。
でもそれは──たとえばシオンやアスカやアテルイ、あるいはイリスに対するような暴力的なほど切ない狂おしい想いでない。
兄が妹に対して抱く親愛の情にさえ迫れていただろうか。
すくなくともそれは他者のことを自らの半身とも、あるいは自分自身とも考える錯誤=スノウの信じる“愛”とはほど遠い感情に違いなかった。
知りあったばかりの男女としては、それでもたぶん破格な位置づけであったはずなのだ。
だが、それはスノウの望む順位ではなかった。
スノウの心をのぞいたアシュレは、そのことまで含めてもうとっくにぜんぶを知っているはずだった。
告白したも同然のはず。
それなのに。
夜魔の血が与えた長い犬歯がギリリッ、と音を立てた。
「わたしのなかでは、ちがうのに!」
スノウのその叫びをアシュレが聞くことはできない。
くしゃくしゃ、となにかが壊れる音がして、それに呼応するようにスノウの胸から嵐が吹き出してきたからだ。
それは不完全な《スピンドル》の回転という、未熟だからこそ激しい想いの乱流だった。
世界に想いの嵐が吹き荒れた。




