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■第三十八夜:湯船の密談

         ※

         

「そこで相談なのだが」

 イズマのアタマの話でひとしきり笑いあったあとで、エレはそう切りだした。

「じつは折り入ってシオン殿下にお願いがあるのだ」

「願いごと? エレ殿が、わたしにか?」

 あまりのことにシオンは聞き返した。

 

 土蜘蛛の姫巫女たちとシオンとは、かつて命を賭けて戦った仲である。

 それもそんなにむかしのことではない。

 特にいま話を切りだした姫巫女の姉のほう=エレヒメラとシオンの因縁は深い。

 シオンの肉体にはエレの手によって埋め込まれた人体改造の魔具:ジャグリ・ジャグラが、いまも潜んでいるのだ。

 もちろん、敵意の根源が誤解にあると知った後、エレは頭を地にすりつけ自らの首を差し出して謝罪した。

 シオンはそれをふたつ返事で受け入れ、両者は和解したのだが……。


「いけないだろうか」

 改まり殊勝な態度で聞いてくるエレにシオンはふむん、とため息をついた。

「内容を聞いてみないとなんとも答えようがないが……なるべく努力してみよう。ほかならぬエレ殿の頼みだ」

 フレンドリーと呼んでいいのか普段からアシュレやシオンに積極的に絡んでくるエルマとは対照的に、どちらかといえば超然としているエレの真剣な要望にシオンは真剣に答えた。

 当然だ、とエレも頷く。

 なるほど先ほどの件も含め、互いの絆・信頼はここ数ヶ月の間に急速に育っているようだ。


「そのまえに確認しておきたいのだが……。シオン殿下、そのだな。アレ以来、ジャグリ・ジャグラの調子はどうなのだ?」

「つまり、いまから話すというエレの頼みごとには、アレが関わっているというのだな?」


 アレ以来、というのは確認するまでもなくユガディールとの最終決戦、巨大な塔の上での──文字通り頂上決戦にほかならないだろう。

 あの夜、アシュレは人体改造を行う魔性の具:ジャグリ・ジャグラの真の使い方に目覚め、その《ちから》によってユガディールを打ち倒した。

 シオンの肉体に癒着・潜航していた《フォーカス》は青きバラ=夜魔の姫君を守る強力な棘として生まれ変わり《魂》の導体ともなった。

 エレはその後の経過を聞いているのだ。


 シオンはこれまでエレを前にしたとき、意識してジャグリ・ジャグラの話題を口の端に上らせないようにしてきた経緯がある。

 謝罪を済ませた彼女に過去の行いを意識させないためだ。

 それがシオンの優しさの在り方である。

 だが今回、口火を切ったのはエレ本人だった。

 よほどのことであろうと察することができた。

 念押しするシオンに、エレは先ほどよりも深く頷いて返答に代えた。


「そうだ。シオン殿下……その……アレ以来、御身とジャグリ・ジャグラの関係性に、変化はあるまいか?」


 真剣に問うてくるエレに対し、シオンは簡潔に答えた。

 ある、と。

 やはり、とエレも首肯で同意を示した。

 土蜘蛛の姫巫女は態度で詳細を促す。

 シオンのまなじりが決意に引き締められる。

 ある意味でこの話題は自らの恥部の現状について披歴するようなものである。

 けれどもすでにシオンはエレを信じると決めていた。

 それでも頬が紅潮するのは止められない。


「まず、そうだな。魔性の治具:ジャグリ・ジャグラはいま現在、以前の状態に戻ってしまったというか……凶悪化したというか。うん」


 凶悪化している、というシオンの言葉に紅玉色のエレの瞳が大きく見開かれた。

 わなわなと指先が、唇が震える。

 ショックを受けているのだ。

 シオンはその手を掴み、目を細め、首を振って見せた。

 そなたのせいではない、とゼスチャーする。


「なぜだ。あのとき……アシュレの《魂》に触れ、魔性の治具:ジャグリ・ジャグラのなかに溜められていた邪悪な《ねがい》=インクのごとき人体改変の欲望は霧散・消失したのではなかったのか?」


 あの夜、繰り広げられた戦いの最中にヒトの子の騎士の手によって起こされた奇蹟の場面を反復しながら、エレは掠れた声で問うた。

 うん、とシオン。


「そのとおりだ」

「では、なぜ?!」


 エレにとってあの光景は福音ですらあった。

 姫巫女の地位を失い凶手として貶められ生きる過程で、エレ自身が魔性の治具:ジャグリ・ジャグラによる改変を嫌というほど味わわされてきた経緯がある。

 男たちの欲望の道具としての改変である。

 それを愛する男を奪い去った敵と憎んだシオンにエレは投じた。

 けれども夜魔の姫はアシュレとの愛によってその邪悪なる意志に打ち勝った。

 あの瞬間、眼前で起きた現象は、同じく魔性の治具:ジャグリ・ジャグラによって己の肉体だけではなく人生までも捩じ曲げられてきたエレにとって「自分もまたその呪縛に打ち勝てるのではないか」という希望を与えてくれたのだ。


 それがまさか──悪化しているとは。

 聞きたくなかった、というのが本音であろう。

 そんな彼女の様子を愛しげに見つめてシオンは話を続けた。


「よく聞いてくれ、エレ殿。いまわたしの身に起きていることは、ジャグリ・ジャグラに溜め込まれてきた邪悪な意志とは次元が別のことなのだ」

「次元が別?」


 どういう、ことだ?

 エレは話の流れが理解できずに聞き返した。

 ふたたびシオンはうん、と頷く。 


「おそらくは、アシュレのなかに生じた《魂》の導体となったせいであろう。魔性の治具:ジャグリ・ジャグラはもはや以前のような邪悪な意志によって被害者を貶めるものではなくなったのだ」

「え? まて、どういうことだ。それなのに……それなのに、」

 悪化しているとは?

 エレの瞳が宙を泳ぐ。

 無理もあるまい、とシオンはさらに優しく微笑んだ。

「つまり、改変自体は止んでいない。ただし、それは邪悪な意志によるものではない。《魂》が──伝導されたあの凄まじき《ちから》が。わたしを《魂》の駆動体として未熟だと急かすのだ。もっと導線を太くよ、と急かしているのだ」

「導線……《スピンドル伝導》のためのそれのようにか」

「しかり」


 シオンがそう告げた瞬間、その胸元から純白の草木の芽のように件の道具が切っ先を覗かせた。


「うわっ」

「な? 手のつけられぬやんちゃ坊主であろう」

 エレが思わず声を上げる。

 そして、それをたまらなく愛しいという顔で見つめるシオンに見惚れてしまう。

「では、では、まさか、御身の改変は」

「いまも進行中だ。それも急ピッチで。突貫工事だよ」

「それはいつから……いつまで……」

「さて。始まったのはあの夜から。果ては……ないかもしれん。アシュレが歩みを止めぬ限り。《魂》の真実に迫ろうとする限り」


 頬をバラ色に染め晴れやかな笑顔で、自らの肉体を侵食する道具の事実を認めてシオンは言った。

 エレは姿勢を正すと、深々と頭を下げた。


「エレ殿……そなたを責めているのでは……」

「いいや、ちがう、シオン殿下。これは敬意だ。わたしは、わたしはやはりあなたを──あなたとアシュレの関係を深く尊敬する」

 改まった態度で面と向かって敬意を述べられ、シオンははにかんだ表情を浮かべた。

「なんだいやぶからぼうに。照れるではないか」

「そして、いま、確信した。やはりイズマさまのご慧眼に狂いはなかった」


 照れるシオンに対し、面を上げてエレは距離を詰めてきた。


「いま御身に起きている出来事を聞いてなおのおこと確信した。是非とも我が願いを聞き届けてもらいたい。いや、聞き届けてもらう、必ず」


 エレの率直な、しかし、真摯な態度にこんどはシオンが気圧された。

 冗談や企みごとのあるような態度ではそれはない。

 そのためであればいかなる代価・代償をも支払う、という意気込みを感じた。


「真剣なのだな」

「うむ、真剣だ。というか、ハッキリ言おう。わたしがいまから御身に伝えるのは、このヘリアティウム攻略戦……いいや、伝説の魔道書グリモア:ビブロ・ヴァレリの奪取に必要不可欠の要諦、そのものなのだ」


 今度はシオンの瞳が見開かれる番だった。


「まて、エレ殿。そのような大事を、なぜ、わたしにだけ打ち明けるのか。どうして全員が揃った軍議のなかで提案しないのか……なぜ……」

 そこまで口にしかけてシオンは気がついた。

 そうか、と。

「これはまさか、策の話か。謀略を仕掛けようというのか、まさかイズマは……皇帝:ルカティウス十二世と魔道書グリモア:ビブロ・ヴァレリを相手に、ここからさらに」


 シオンの理解に、しかり、とエレが頷く。

 凄みのある笑みがその唇に戻ってきた。

 聞かせろ、とシオンが促す。

 言われずとも、とエレが耳打ちする。

 そして、次の瞬間シオンの口から迸ったのは──絶叫であった。


「な、な、な、なんだとーッ?!」

 その叫びは浴室の天井を突き抜け、夜空に響き渡った。



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