■第三十七夜:姫巫女の告白
「シオン殿下。ご一緒させてもらってもいいか?」
中庭に面した廊下でシオンに声をかけてきたのはエレだった。
見れば手には着替えなどを持って湯浴みの準備万端だ。
「かまわぬぞ。それに……そうだな、エレ殿とは話しておきたいこともある」
渡りに舟とシオンはこれに応じた。
さてひとつ屋根の下で暮すということになったアシュレたちではあるが、未成年の手前、大人としての規範は見せねばならぬということで、大前提としての浴室は男女別々のものを使うことになっていた。
ちょっとしたプール並の大浴場が女性陣。
小さな側がアシュレである。
まあ人数からしても妥当な話ではあったし、騎士の見本として立ち振る舞わなければならないアシュレとしてはいかにも混浴は避けたいところであっただろう。
シオンだけはアシュレと湯船をともにすることもあったのだが、それが露見して昨夜は大変な騒ぎになった。
もちろん相手はスノウである。
「昨日の今日で、さすがにあの騒ぎは避けたいしな」
「姉の夫に横恋慕した妹、というところだな」
「ふんっ……どういうつもりかはしらんがあの小娘め。本気なら堂々と来ればよいものを。ああいうひとさまのモノをねだるようなやり方を、わたしは好かん」
「ふふっ、モノと来たか」
このところシオンの憤懣の聞き手を務めていたのはエレであった。
騎士と従者という関係上、アシュレにそちらの話題を降るわけにはいかないというシオン自身の配慮にエレが協力してくれているというカタチである。
なお、スノウ側はエルマがその任に当たっている。
もちろん、当のスノウは過日のこともありエルマには苦手意識があるようだが、それを言いだしたらたぶん土蜘蛛という種族そのものに不信感を抱いているだろう。
湯浴みの件も、食事の用意の手伝いを理由に捕まっていた。
「実際にはわたしのほうがアシュレの所有物であるのだから、まあ主人がどうしてもいうならしょうがないが。認めたくはないがな! せめて自分の居場所は自分の真心で勝ち取れと言いたい!」
「そういえばシオン殿下は、アテルイやアスカリヤ殿下に関してはこのような愚痴を言ったことがないものな」
衣服を脱ぎながら、ふたりの美姫は会話した。
「怒る理由がないからな。あのふたりもアシュレにしか居場所を見出せなかった……言わば同胞だ。ともに死地も潜り抜けた。己の命と尊厳──人生を賭けて戦った。それに彼女たちは己の想いをキチンと口にしたではないか。その上であるのならわたしも同じ立場だ、というだけのことだ」
そういう女たちからアシュレを独占して奪い取ることなどできんよ。
こともなげに言うシオンに、なるほど、とエレが苦笑した。
「なんだ。おかしいか?」
「いいや。かつて手合わせしたあと、わたしが殿下に負けた理由を考えてみたのだ。で、その答えにいま辿り着いた気がしてな」
「なんだい、やぶからぼうに」
「あのときのわたしたちは任務だ復讐だと言いながら、イズマさまを奪われたのだという嫉妬に目を曇らせていた。取られた、と思ったのだな。だが、殿下はすでにその先にいたというわけだ」
「勘違いしてくれるなよ、エレ殿。わたしとて、こんな心持ちに自分がなるなどと思いもよらなかったというのが実際だ。事実、女に二股かける男は最低だと思うぞ。だが、アシュレという男の器の大きさをわたしひとりが占有していいものか、と問うとだな……」
「それはできん、と」
先回りしたエレの返答に、シオンはうむん、と曖昧に頷いた。
その様子に、エレはこれまで見たこともないようなやわらかい笑顔を見せた。
じつはな、と呟いた。
「わたしもシオン殿下のようにありたいと思うようになったのだ」
「ん?」
話の流れを見失ってシオンは怪訝な顔をした。
いやいや、そういう意味ではない、とエレ。
「アシュレのことが愛しくなってしまった、とかそういうのではないぞ」
「ああ、ああああ、そ、そうか。それならよかった。よかったが……でないならどういう意味だ、エレ殿」
お互いにそれぞれの国境線は守るぞ、というゼスチャーをして誤解を解消してからエレが話を再開した。
「旦那さま……イズマさまのことだ」
湯船に浸かりながら頬を赤らめるエレにシオンは足を滑らせ、瞬間的に溺れそうになった。
がぼが、げっぼごっほ、と水か泡か、とにかくすごい音がした。
「げっほ、ごっほ……イズマ、のこと?」
「大丈夫か、シオン殿下?! そうだ。もっと広い心を持たねばな、と。仕える方の器の大きさをわたしたちが狭めてはならんな、と」
イズマの器、という話にシオンは思わず遠い目になった。
たぶん、深宇宙を見つめるような、それは瞳だ。
「シオン殿下? シオン殿下?」
「ああ、ああああ、器な? 尽くす相手の器量な? ははあ。イズマの……器か」
シオンは脳内でイズマをあらわす器を想像した。
前衛芸術?
首を捻るとエレがまた苦笑した。
「あ、すまぬ。そのっ、だな、そなたの、そなたたちの想いを疑ったのではなくて!」
「わかっているよ、シオン殿下。底なしだ、と言いたいのだろう?」
シオンの頭の中身を覗いたようにエレは笑って見せた。
たぶん、微妙なところで食い違っているはずのニュアンスを訂正したものかどうかシオンは迷う。
「底なしというか、底抜けというか……」
「じつは最近、恐いのだ。あの方がどこか遠くにいってしまいそうでな」
だが、そんなシオンの想いとは別にエレは胸中に抱いていた不安を口にした。
「底抜け、というシオン殿下の評は正鵠を射ている気がするのだ。こう……なんといえばいいのか。最近のイズマさまからは……虚無のようなものを感じるときがあるのだ」
土蜘蛛の姫巫女は両肩を抱いて震えていた。
恐怖によってその名を知らしめた最凶の暗殺者教団:シビリ・シュメリのなかでも屈指の凶手であったはずのエレのそんな姿に、シオンは胸が締めつけられるような思いを味わった。
「虚無とか……いいや、そういうのはあるまいよ。あやつは、ほら、ノーミソからっぽなだけで!」
「シオン殿下は──イズマさまの心に触れたことがないから! そんなことが言えるのです!」
突然、姫巫女時代の言葉遣いになってエレが食って掛かってきた。
さすがのシオンも目を剥くことしかできない。
「あ、失礼……失礼をした」
なんとか自分を取り戻した様子で、エレが返す。
だが、と続けた。
「だが、シオン殿下はイズマさまのお心に触れたことがないからそのように笑っていられるのだ。わたしも、エルマも──見てしまったからな」
いつかイズマに仕掛けた傀儡針とそれによって引きだしたイズマの中身を思い出して、エレはうつむいた。
シオンはそこに涙を見てしまう。
「償いとしての傀儡針を投じてもらうたび《スピンドル》を通して……見える。感じてしまうのだ。あの方のなかに口を開けた深い深い淵を。巨大なうつろ。がらんどうを」
いつも冷静沈着な態度を崩さぬエレが、その身のうちにどのような種類の不安を呑んできたのか理解してシオンは即座に謝罪した。
「エレ、エレ殿……すまぬ、わたしが不躾であった。そなたの抱く不安は、わたしのそれとなんら変わらぬ。すまなかった。許されよ、このとおりだ」
率直に頭を下げるシオンに、いいえいいえ、とエレはかぶりを振った。
その仕草は、やはり情け深い生来の姫巫女としての気質をエレは失っていないと感じさせるのに充分だった。
それからシオンに向き直って言った。
「不躾だとか、失礼をされたなどといっさい感じていない。わたしがこんなことを告げるのは……そうではなくて」
意を決するようにしてエレはシオンをまっすぐ見た。
「そうではなくて……シオン殿下とアシュレには、わたしたちとイズマさまのような状態になる前に強く心を結びつけて欲しい、と思うのだ」
エレからの言葉は、シオンの無理解をなじるものではなかった。
しかし、だからこそ、胸を貫かれるような痛みをシオンは味わう。
「イズマとそなたたち……姉妹と……」
ああ、とエレが頷く。
「あの方の心の底に穿たれた穴を、わたしたちでは埋められない。あれは心が、《意志》が、あるいは《魂》が悲歎と絶望に引き裂け穿ったものだ。あの方は、その巨大な穴をご自分の《ちから》で補修し、なんとかいまのカタチを維持されているに過ぎない」
エレから語られるイズマの本質、その内部についての情報にシオンの瞳が真剣な光を帯びた。
「底抜け、というのが正しいというのはそういうことなのだ。たぶん、ずっとずっと遠いむかし、イズマさまは己の限界を超えて《ちから》を振われたのだろう。それが《スピンドル》のことなのか……アシュレの見せた《魂》と同質のものであるかはわからないが」
そして、
「その代償に心という器を壊された。だからいまあの方の心は、一度粉々に砕かれた破片をなんとか寄せ集めて継ぎ接ぎにして動いているように振る舞っているだけなのだ」
予期せぬ情報に、シオンは息を呑むしかない。
「では……」
「あの方が積極的に世界の真実と関わろうとするのは、死地に飛び込んでいかれるのは、心を燃やして戦われるのは──たぶん、そうやっていないともはや砕かれた器の隙間から漏れ出る中身を保てないからなのだと思うのだ」
絶え絶え、という感じで告げるエレの肉体をシオンは抱く。
湯のなかだというのにその肌は震えて、氷のように冷たくなっていた。
「シオン殿下……わたしはアシュレという男にイズマさまと同質のにおいを感じているのだ。だから、だから……」
殿下は、アシュレの心を、その《魂》をこちらに繋ぎ止めていてやってほしい。
エレのささやきは懇願だった。
シオンは告白の意味を理解して深く頷く。
ああ、ああ、となんども。
「そうしないと、アシュレもいつか、イズマさまのように……」
恐ろしい想像に襲われるように身を寄せてくるエレ。
しかし、それに対するシオンの返答は交された話題の重たさを吹き飛ばすような快活さに満ちていた。
「任せろ、エレ殿。アシュレをイズマのようにはさせん! ぜったいにだ! 第一、あんなノーミソからっぽのタンポポみたいな仕上がりになってしまったら……絶望しかないぞ!」
たぶんそれは、かなりの罵倒であったはずだ。
それなのにエレは思わず噴きだしてしまっている。
あまりにそのたとえが的を射ていたのだ。
「笑った! エレ殿、笑っておるではないか! そうであろう! 図星だったのであろう!」
シオンの指摘に堪えられなくなって、ついにエレは笑い始めた。
たとえ泣き笑いでも、それでも、こうやってヒトは歩んでいくのだろう。




