■第二十三夜:遭遇(エンカウント)
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「なんだ……いまのは。獣の咆哮のように聞こえたが……」
帆船の下層部を為す船倉は、お伽噺に出てくる巨大なクジラの腹腔を思わせて広がっていた。
そこに足を踏み入れた途端。
シオンはいずこからか響き渡る雄叫びの残滓を聞いた。
海原にぶつかる船腹の軋みが奏でるメロディだと思い込むことも、あるいはできたかもしれない。
しかし、シオンはすでに同族の血を共振として感じ取っていた。
それは、あきらかに近づき、強まっている。
錯覚や幻聴であろうはずがなかった。
「だが……雄叫び、だと? むう」
シオンをして戸惑わせたのは、そちらである。
同族たる夜魔がこの船に潜り込んでいるというのであれば、いったいどうして叫びをあげたりしたのか、ということだ。
「いったいなにが起っているというのだ」
シオンは首を捻った。
夜魔の一族は貴種としての生まれそのものに大変な誇りを持っている。
自分たちを生まれながらの貴族:真のブルーブラッド、と自称する者さえいる。
であるから獣のごとく吼え猛ることは、慎むべき蛮行として固くこれを戒める。
これは、どの家門にあってもそうであろう。
戦場か、あるいはベッドの上でか。
いずれにせよ己の獣性をあきらかにする、というのはよほどのことだ。
しかも、これほどの至近距離。
シオンが相手の血に気がついているのである。
相手もまたシオンの存在に気がついているはずなのだ。
いかに聖剣:ローズ・アブソリュートを帯びていないとはいえ、最上級格の存在であるシオンに格下の夜魔が同条件で勝てる確率など、万にひとつもない。
それなのになぜ、わざわざ、己の存在を誇示するような雄叫びをあげるのか?
奇襲するつもりであったなら、すでに失敗と言っていい。
まともに考えるなら、船に積載されている可燃物や油に火を放ち船ごと沈めるのが上策のはず。
そういう気配もない。
どういうことだ、と考えを巡らせながら慎重に歩を進めていたシオンは前方に人影を認めた。
まったくに唐突なこと。
雄叫びの聞こえた側から、それはこちらに向かってくる。
なにやつ? 左手に持った守り刀:シュテルネンリヒトの柄に手をかけ、鯉口を切る。
刀身に刻まれた星光守の文字が光を帯びる。
東方伝来の不思議なカタチをした剣は、キンッ、と音を立てて臨戦態勢を整えた。
のだが。
「あら、シオン殿下!」
人影は快活にシオンの名を呼んだ。
どころか手を振っている。
「エルマ……か。こんなところでなにをしている?!」
驚いたのはシオンだ。
なぜ、どうして、こんな場所で。
夜魔の血筋を探していて、土蜘蛛の姫巫女と出会うというのはいったいどういう偶然なのか。
戸惑うシオンとは裏腹に、エルマはちょうどよかった、と手を叩いた。
「シオンさまこそ、どうしてこちらに? アシュレさまはご一緒ではないんですの?」
「それはこちらのセリフだ! あと、わたしたちは一心同体といっても、四六時中一緒にいるわけではない! 公私混同はせん!」
「あーらら、そんなこと言ってぇ、ここ二日ばかり、おふたりで閉じこもってナニをしていたのかなあ、ですわ」
「そ、それはだな。ぷ、プライベートのほうが、さ、最近おろそかになっておったからだな、そのうなんというか……」
エルマの混ぜっ返しに対し、真っ正面から突っ込んでいったシオンがもにょもにょと言い訳する。
舌戦で土蜘蛛の姫を言い負かすのは、シオンには無理な芸当だ。
キャラ性の相克である。
「いいんですの、いいんですのよ、みなまで言わずとも。そんなことより! それじゃあいまは、殿下とアシュレさまはプライベートよりも優先すべき事項があって別行動されている、という解釈でいいんですのね?」
ぽむ、ともう一度、手を叩き「これは好都合」とエルマは呟いた。
「好都合、とはどういうことだ?」
「いえいえ、なんでもありませんの。というか、シオン殿下はなぜいま、武器を帯びてらっしゃいますの? それは守り刀:シュテルネンリヒトではございませんか。カテル島の地下では、その刃にずいぶん苦心させられたものですわ。精神操作系の異能効果をことごとく切り捌く刃、でしたわね?」
昔日の思い出をエルマは持ち出す。
思えば数ヶ月前には互いの命を狙いあった宿敵同士が、いまやこうして気安い口をきいているのだから、なるほど人生というのはわからないものだ。
おう、そのことだ、とはシオン。
「それだ。プライベートのことなどどうでもよい。そなた、無事か」
「ご覧のとおり。いつもどおり、すこし頭がおかしいだけですわ」
エルマの申告にならばよし、とシオンは頷く。
でも、とエルマ。
「無事か、という訊きかたをされたということは……もしかして、なにか不穏な方向性ですの?」
シオンがわざわざ武器を持ちだして、船倉まで降りてきた事情をエルマは問うた。
うむ、とシオン。
「じつは、夜魔の血に震えるものを感じたのだ」
「あなや!」
エルマの口から、じつに古典な声が漏れた。
それは……盲点でしたわ、という思いが表情になる。
シオンが同族を感じ取る“血の共振”の存在をエルマは完全に失念していたのである。
「どうした、エルマ?!」
シオンのほうも、エルマの突然の叫びに目を丸くした。
当然、見つめる。
「いやあ、あはは、あはあは、そ、そうでしたの?」
「そなた、あからさまに挙動不審であるぞ。いかがした?」
エルマの視線が宙を泳ぐ。
シオンが心配を口にする。
「ああ、いえいえ、ほら、わたくしは頭がすこしアレですので……ご心配には及びませんのよ?」
自身の頭のアレさを用いるごまかしかたは、なるほど、なかなかに斬新ではある。
だが、シオンはいぶかしげに頷いただけだ。
「ともかく、このあたりから夜魔の、同族の気配がするのだ。捜索せねばならん」
「ええっと、それは……気のせいではありませんの? ホラっ、こう、ありますでしょ? 気の迷いとか、錯覚とか、長いことプライベートを我慢してきた反動であるとか」
「残念ながら、この感覚に関してだけは、それはない」
シオンの断言に、たらー、と背筋を汗が垂れるのをエルマは感じた。
いずれ発覚するとは思っていたのだが、ものごとには順序がある。
せっかくここまでお膳立てしたのに──アシュレさまでなければ困りますのに!
「と、ところでアシュレさまはどこにいらっしゃいますの?」
唐突に話題を変えて、エルマはシオンの矛先を変えようと試みる。
「? どうしているもなにも、エルマ、そなたをアシュレは呼びに行った。が、いまそなたがここにいるということは、無駄足だったな。空振りだったのがわかったなら……いまごろノーマンを叩き起こしているのではないか?」
「あっちゃー」
予期せぬ登場のタイミングと朴念仁乱入の予感に、姫巫女は露骨に顔をしかめた。
そして、ふたりの美姫がそのような噛みあわない会話劇をしているところに、それは現われたのだ。
ミシリ、という天井の軋みとともに、恐るべき獣が舞台を踏む。
本物のミスキャスト。
そう──インクルード・ビーストである。




