■第十四夜:大帝と皇子
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「父は……オズマヒムは変わった……変わってしまった。アシュレ、わたしは……わたしはどうしたらいい?」
その夜、アスカはうわごとのようにアシュレに告げた。
肌を重ね合わせ、互いに深く結びつくなかで。
「間に合わなかった……いや、もう、ずっと前からそうだったのか……わたしのしてきたことは全部、ぜんぶ、無駄だったのか」
アシュレの行いは、まるで肉体を駆使する尋問のように見えただろう。
手練手管が振われるたび、アスカの口からは仕舞い込んでいた言葉が、真実がもたらされる。
エルマの投じた霊薬の《ちから》に助けられ、すこしずつ腹中に仕込まれていた毒を吐き出すようにして、それは語られた。
それは、こんなやり方でなければ理性や立場や責任が邪魔をして、声にすることもできなかった心の叫びだ。
だから言葉ではなく行いで、アシュレはさらにアスカの心に迫る。
降伏は許さない。
非情さこそ、やさしさである──そんな時と場合があることを、アシュレはもう学んでいる。
だからアスカは組み伏せられ、涙と唾液と汗でくしゃくしゃになりながら、告白する。
オズマドラ帝国の首都:ドールドラオンでの出来事を。
大帝:オズマヒムとの謁見、そして、その後に続いた事件のことを。
※
「ピアソラ大守:アスカリヤ・イムラベートル、トラントリム攻略、まことに大義であった」
上座から三段ほど低い場で頭を地に垂れ、両手を開いて掌を天に向け、臣下の礼を取るアスカに対し大帝:オズマヒムよりかけられた言葉は、たしかにこれまでの活躍を労うものではあったが、しごく淡々としていた。
「旗下の砂獅子旅団の働きも見事である。褒美を取らせよう。望みはあるか」
君命に従い、小国の連なりとはいえトラントリムとその連合国を瞬く間に併呑したアスカの功績を評価して、オズマヒムは言った。
形式的には、正当な評価のように見えたであろう。
ただし、トラントリムが実際にはただの小国などではなく、恐るべき秘密を隠し持ったオーバーロードの封土:《閉鎖回廊》でありさえしなければ。
《閉鎖回廊》とは、運命すら捩じ曲げる強制力の渦巻く、いわば、この世の地獄である。
そこからの、しかもその深奥に待ちかまえていたオーバーロード:ユガディールを撃破しての生還は、もはや英雄的行動という賛辞ですら足りぬ。
はっきりと「偉業」と表現してよいレベルのものだ。
しかも、昨年の秋、アスカはアシュレたちとの共闘があったとはいえ告死の鋏:アズライールを、その両脚を犠牲にしてまでも奪還していた。
これはアラム教圏からは失われたとされていた神器である。
艦艇十隻、将兵にして数千を超える損害を出しながらの生還劇にオズマドラの民は湧いた。
だが、その際も祝祭こそ行われど、すべてを大臣たちにまかせたまま、オズマヒムは体調の不良を理由に席を中座し、戻らなかった。
労いの言葉も、やはり、お定まりのもの。
これを冷然とした扱い、と記しても間違いではあるまい。
アスカにしても実子であるからとの理由で、特別な扱いを望んでいたのではない。
それどころか、幼少期はハーレムでの、少女時代は古都での蟄居を命じられていた身である。
真騎士の乙女:ブリュンフロイデを母に持つアスカは、厳密な意味での人類ではない。
いや、さらに“再誕の聖母”:イリスベルダの言葉を借りるのであれば、真騎士ともうひとつ得体の知れぬ存在との“あいのこ”──混成種だということになる。
その一部始終を父が知っていたのだとしたら……疎まれ、遠ざけられてきた理由もわかる。
母の死とその間際の出来事も理解できる。
もし、アスカ自身が父の立場であったなら、同じくしたかもしれない。
その気持ちが、いまは痛いほどわかる。
漂流寺院で、陣羽織に封じられていた《フォーカス》の《ちから》を解放し、栄光の王国を地に降ろしたあのとき、アスカは十年以上の刻を経て、母との再会を果たした。
アシュレに命を救われた日のことだ。
自分が母の面影を恐ろしいくらいに引き継いでいることを自覚したのは、そのときだ。
肌の色は、母のそれとはもちろん違う。
髪の色も、真逆というほど異なる。
だが、混乱した戦場にあってさえなお、成人を果たし長じた己が、あきらかに“あの女”の血統を受け継いでいると確信するほどには、ブリュンフロイデとアスカは母娘だったのである。
かつて恋をし、種族の垣根とあらゆる障害を乗り越えて愛し合った女に、日に日に似ていく娘が──不義の結果の、それも片親が人類ではないかもしれないと知ったとき、夫としてオズマヒムが味わった苦渋はどれほどのものであろう。
それでもオズマヒムは、君主として、騎士として、なにより父親として、精一杯正しく振る舞おうとはしてくれたのだ。
けれども、とアスカは思う。
どこか、だれかから手渡された草稿をただただ読み上げるような父:オズマヒムの言葉を聞きながら。
父は変わった。
若きころは戦のたび、兵たちに混じり、食事と宴と賭事に興じるような君主であったという。
先陣に立ち、兵たちを鼓舞し、彼らの心を知るために、自らそのなかに身を投じる。
酒を酌み交わし、博打では大きく賭けて大きく負け、しかし、あるときは大きく取り戻す。
火を囲んで楽器を持たせ物語を吟じさせれば、兵たちを聴衆へと変じさせ、彼らの瞳に童心を灯させるほどの歌い手で。
そのすべてが、アラムの法に照らせば、これに抵触し、神官たちが眉をひそめるがごとき行いだ。
だが、そういうオズマヒムだからこそ、兵たちは彼を尊敬し、信頼した。
ヒトを動かすものは利か、情だ。
理屈ではない。
そのことをオズマヒムは自然に感得していたのであろう。
いま自分を信じて集まってくれた“砂獅子旅団”に対して、アスカは無意識にも、物語のなかで語られるかつての父をなぞるように振る舞っていたような気がしてならない。
しかし、いまアスカが現実に知るオズマヒムは、別人だ。
母を失い自暴自棄となった父は、数年を離宮にあって失意のうちに過ごした。
ふたたび彼が立ったのは、奇しくも西方世界からの侵略──十字軍に抗するためだ。
だが、そのときにはもう豪放快活で知られたオズマヒムは、いなかった。
あいかわらず法理と契約を重んじ、騎士としての振舞いに完璧な君主ではあったが。
母との体験が、彼を変えたのだとウワサするものは多かったが……アスカにはそれだけと信じられなかった。
幼少期にいくどか、アスカは父と触れ合ったことがある。
秘密裏に、ごくごく奥まった場所でだ。
そのころの父は憔悴と悲しみを瞳の奥にたたえてはいても、とても人間的で、その身のうちに燃える《意志》の燻りを漂わせていた。
大きくて熱い掌に頭を撫でられるたび、理由もわからず、アスカはうっとりとしたものだ。
それが、彼の《スピンドル》の薫りだと理解したのは、だいぶたってからだ。
アスカは幼心にも、そんな父を尊敬した。
己の心に空いた巨大な空隙にさえ抗って、ひとりの人間としてあろうとする彼の姿に、敬意を抱いた。
そうだったはずなのに。
成人を果たし、謁見に赴いたとき眼前に座っていたのは、アスカの知るオズマヒムとは似ても似つかぬ冷たい目をした男だった。
人間としての成熟を経たのであろう、という各国の大使たちから聞こえてくる評を、アスカは信じなかった。
眼前に皇帝として座る男の言葉はたしかに理知的で合理的ではあったが、どこか絵空事のような、他人事のような……たとえるなら、どこかで他者が描いた物語を引用し、それをそのまま己の言葉がごとくそらんじているだけのような白々しさに満ちていた。
苦悩と罪の意識に苛まされながらも、己や他者の人間性を否定せず、世界の矛盾に立ち向かう──アスカの知るオズマヒムはもう、そこにはいなかった。
なぜ、そう感じたのか。
あの時はただただ、強烈な違和感だけがあり、理由にまで辿り着けなかった。
だが、いまのアスカにはわかる。
アシュレたちと出逢い、世界の裏側を垣間見た自分にならば、あのときの、拭おうとしても拭えぬ違和感の正体がわかる。
いま眼前にいる男のまとう違和感の。
だから、アスカは言ったのだ。
「陛下。お褒めの言葉、恐悦至極にございます。望みの褒美を頂けるとのお言葉、それだけで、このアスカリヤ、これまでの苦労がすべて報われた思いにございます。しかるにせっかくのお申し出を無下にするほど、礼儀知らずでもございませぬ。ひとつだけ、頂きたいものがあるのです」
じつは──。
「じつは、陛下とのお時間を頂戴いたしたく、アスカリヤは思います。一刻、とは申しませぬ。半刻の間だけ……父子の刻を、わたくしにいただけませぬか」
滑らかな口上で申し出たアスカに色めき立ったのは家臣団だ。
特に周囲を固める大臣たちの顔色の変化は劇的だった。
アスカとしても、それは折り込み済みではある。
アスカリヤ殿下には叛意の疑いあり。
それはずいぶんと昔から囁かれてきたウワサだ。
四十も半ば、男盛りであるオズマヒムの後で、日陰者として生きてきた若き皇子が、その胸のうちにいかなる野心を滾らせているか。
件の神器・告死の鋏:アズライールの奪還も、そのためのことではないのか。
事実、大帝の命じられたのは邪神:フラーマの駆逐であって、そこに都合よく告死の鋏:アズライールがあったなどと……神器の存在を皇子は以前から嗅ぎ回っていたのではないか。
そのように悪意ある妄想を掻き立てる口さがない者たちは、後を断たなかった。
「殿下──陛下はお忙しゅうございます。ヘリアティウム攻略の件もあります。報償は別のものに……」
オズマヒム第一の家臣、ダリオル・パシャが進み出て言った。
アスカはことさら淡々と返答した。
「だからこそ……大戦の直前であらばこそ、父上との時間をわずかなりとも頂きたいと、わたくしは申しておるのです」
「しかし、アスカリヤさま。シドラーク・パシャのこともございます。どうか、」
「わたくしは、父上とお話している。わかりますか、ダリオル・パシャ。シドラークのこともある、というのであればなおのことだ。わたくしの身にも、いつ暗殺者の凶刃が突き立てられるかわからない。そのまえに、せめて父上と語りあいたい。それだけなのです」
相変わらず頭を下げたまま、アスカは横合いから出てきた大臣を睨めつけた。
アラム教圏にあっては凶兆とされるラピスラズリのごとく青き瞳に射貫かれ、ダリオル・パシャが身を強張らせた。
シドラーク・パシャ暗殺の報がもたらされたのは、アスカの入城とほぼ同時のことであった。
アスカたちから統治者の仕事を受け継ぐべく五〇〇〇の軍団とともにトラントリムへ進駐してきたシドラーク・パシャは小国家連合が催した歓迎会で、他の国家代表たちとともに殺害された。
犠牲者たちは首から上が完全に消失しており、その頭はどこを探しても発見できなかったという。
臥所をともにした女たちは口を揃えて魔獣めいた形相の人影を目撃したと証言しており、かつてトラントリムを脅かしていたバラクール王党派の仕業ではないかとウワサされた。
なお、アスカは以前、イズマの口から、シドラークがアスカを対象として土蜘蛛の暗殺教団へと依頼した経緯を知りえている。
サムサラの離宮での一件だ。
この話は、つまり、そういうことである。
「おわかりいただけますか、先生」
かつて自分の教育係を務めたこともあるダリオルに、アスカは親密な言葉づかいで言った。
ごくり、とダリオルの喉が鳴る。
アスカの瞳は笑ってなどいなかったからだ。
「以前、邪神:フラーマを討ち、告死の鋏:アズライール奪還を果たした際にも、同じお願いをわたくしもいたしました。そのときも折り悪く、お父上はご多忙であらせられた。そのかわりに盛大な祝宴と祝祭、そして、過分なる報償を頂いた。しかし、このアスカリヤにとってお父上との親子水入らずの対話は、あらゆる金銀財宝に勝るものなのでございます」
どうか、とすでに垂れた頭を地面に押し付けるようにして乞うアスカに、東方の騎士と呼ばれた大帝はゆっくりと目を細め、それから頷いた。
「よいであろう。中庭を、すこし、あるこうか」
承諾を言い終わらぬうちに、オズマヒムは立ち上げる。
その歩み去る後を、これまた両脚の告死の鋏:アズライールを見せつけるように、ゆっくりと立ち上がったアスカが追う。
謁見の間に釘付けにされた大臣たちは、その場に残留する冷たいオーラが、オズマヒムとアスカリヤのふたりから放たれていたのだと知り、額に浮かんだ汗を拭うこともできず、身震いするのだった。




