■第十一夜:姫殿下のメランコロ(上)
野営地に戻れば、夕餉の支度が進んでいた。
今日の遠乗りは軍事教練の一環でもある。
トラントリム攻略戦時にアシュレたちが見せた、戦隊が高密度で強力に連携しながら《閉鎖回廊》内へと疾風怒涛に斬り込む装甲突撃戦法。
これから先に待ち受けるであろう大戦を前にして、その運用を我が物にしようという砂獅子旅団精鋭のこれは訓練でもあったのだ。
オズマドラの軍団は人海戦術を得意とし、長きに渡って人類圏を主戦場としてきた。
その歴史のなかで、かつては受け継がれていたはずなのに廃れてしまった対オーバーロード戦用の戦術思想を、この機会にアスカは取り戻そうとしていたと考えてもらって間違いはない。
それはこれから始まる戦いが、人類圏に、あるいは人類圏だと自分たちが思い込んでいた場所だけに留まるものではない、というアスカ自身の先見性に起因している。
もちろん、アシュレとの時間を、なるべく余人や公務、そのほかの雑事に邪魔されたくないという思いがあったことも事実だろう。
馬を走らせ、アシュレとアスカは野営地に帰還した。
アスカの馬は、お付きの馬丁が引き取る。
アシュレはいつものように自分の手で愛馬の世話をする。
春を迎えたトラントリムの低地では雪解け水がぬるみ、羽虫が大量に発生する。
いつもこれにたかられては難儀そうにしていたヴィトラにとっても、高地での軍事演習は望んだり叶ったりという感じで、ここ数日、すこぶる機嫌がよい。
アシュレは今日一日、思いきり駆けたおかげで満足げな愛馬に、水と飼葉をたっぷり与えた。
ブラシがけをし、蹄鉄の具合を確かめ、手入れをする。
そのあとでようやく自分の湯浴み。
馬の世話にまつわるあれこれは、ふつうの騎士であれば馬丁か、そうでなくても従者に任せてしまう仕事だ。
それをじつに楽しげに行うアシュレの姿を、アスカもまた飽きることなく見つめた。
夕食を摂るころには、日はとっぷりと暮れていた。
アスカの天幕は、幾重にも張り巡らされた豪華な織物で構築されている。
公式の立場としてみれば第一皇子であるだけでなく、辺境ではあっても水運を使った交易と水産資源に恵まれた都市:ピアソラを治める大守でもある彼女の移動居室は、下手なコテージなどよりはるかに豪奢で快適だ。
しかし、その内側で設けられた宴席は、つつましやかな、ごくごく身内だけのものであった。
というより、客席に座っているのはアシュレとシオンとスノウだけ。
給仕はアテルイとエルマが。
主人の席には当然だがアスカが座る。
それだけであった。
今宵の宴席には、ほかの下僕たちの姿はない。
本当に信頼した友人と家族だけの空間にしたいという意図から、だけではおそらくない。
その意味では「積もる話もあるだろう」と珍しく気を利かせたノーマンの辞退は、かなりの好判断であったことは間違いなかった。
なぜならば、食事も終盤にさしかかったころ……。
「出て行くのだそうだ」
あきらかに酔いの回ったアスカが、そう言い放ったことからも、だいたいの想像はつくはずだ。
以前にも話したが、アラム教圏では飲酒はご法度である。
まあそれもオズマドラにあっては日中の、さらには公の場での、の但し書きつきなのでそれほど厳しい戒律ではないのだが。
それにしてもアスカは酔っていた。
「おまえっ、アテルイっ、聞いているかっ。アシュレはっ、オマエのご主人さまはっ、我が陣営を出て行くらしいぞっ」
思えば、直前までのアスカの食欲には、なかなか凄まじいものがあった。
パセリやクレソンを使ったサラダに始まり、ヒヨコ豆のペースト、羊肉に香辛料をたっぷりまぶしたケバブ、ブドウの葉で巻いたチマキとでもいうべきドルマはアテルイの得意料理、さらにはドライトマトと羊肉とがたっぷりと投じられた太麺の仲間:ラグマン、チーズとバターを溶かした黄金のフォンデュ:ムフラマなどなどを次々と平らげたのだ。
もちろんこれは振る舞うアテルイとしては、大満足、異論のないところである。
もとより夫であるアシュレと、最愛のヒトと心臓と人生を共有するシオン、そして、自分がアシュレの妻となっても恋人関係も主従関係も解消したわけではないアスカのために、腕によりをかけてこしらえた料理なのだ。
うまいうまい、と食してもらえることは喜び以外のなにものでもない。
そして、宴席の最中、たしかに普段よりは酒量が多いようには見えても、アスカの顔には満面の笑みがあった。
しかし、そんなアスカの態度は、実は自ら進んで宴席の渦中へ飛び込むことで、なにかを必死に吹っ切ろうという思いからのものだった。
「あ、はい。アシュレさまの出立はもちろん存じております。この演習自体が……見送りを兼ねていることも知っておりますし……というよりもこれはそもそも、アスカリヤ殿下の発案では?」
「そんなことは知っているっ! だが、おまえはどうなのか、と聞いているのだっ。それにっ。そのような、そのような堅苦しい呼び方っ、ゆるさんぞっ、アテルイ! いつものようにアスカさまと呼べッ!」
このころにはもうパーフェクトな酔っぱらいが完成していた。
いや、それだけなら良かったのだが、アスカの瞳はイケない感じに据わっていた。
手にした杯をあおり、さらにぶどう酒を注入する。
頬を紅潮させ、上座から食卓の中央へ猛獣のように四つん這いで進み出る。
ようやく場の全員が事態の急変を察知した。
「ああ、そうだ。船も船乗りも必要な物資もいっさいがっさいわたしが用意してやるっ! というか、もう手配済みだ! だがな、わたしが聞いているのは、そこじゃあない! いいのか、ということだ! このまま、ビブロンズ帝国へ──その首都:ヘリアティウムへとアシュレを、おまえのごしゅじんさまを、送り出してしまって! そこだ!」
いいのかっ、アテルイッ! とアスカが詰め寄る。
虎か、豹か、ジャガーか、という剣幕である。
だが、どれほどの剣幕で迫ろうと、それはもうすでに始動した作戦なのである。
“再誕の聖母”の居所を突き止めるだけでなく、ビブロンズ帝国皇帝:ルカティウスが張り巡らした陰謀への意趣返しの意味も込め、それを可能とした魔道書:ビブロ・ヴァレリを奪取すべく、アシュレたちは二隊に分かれてヘリアティウムへと潜入する。
先行し、情報収集とさまざまな下ごしらえを行う斥候部隊──イズマ、エレ、バートン。
そこに遅れること十日ほどの間を開けて投入される本隊──アシュレ、シオン、ノーマン、そして、エルマ。
総勢七名、しかも第一線級の《スピンドル能力者》六名を含むこの構成は、大国の軍事遠征を丸まる一国分、この一戦隊だけで平らげてしまえるだけの強力さだ。
現在のアシュレたちの実力、経験値と連携の強力さを考えれば、あるいは十万の兵力に匹敵するかもしれない。
そのいっぽうで、ルカティウスとの関係性を突き止めたものの、魔道書:ビブロ・ヴァレリの正確な所在は依然として不明のままだ。
さらに、もし戦闘状態に陥った場合、市街地、それも人口の密集度の面から無関係な民衆を巻き込む可能性と被害の規模は、トラントリム戦での比ではない。
目標の所在を明らかにし、決定的な局面へと効果的に戦力を投下するためにも、事前の入念な下調べこそは必須事項。
単純に眼前の敵を叩けばよい戦争とは、あらゆる意味で攻略の次元が違うのだ。
イズマたち一行が先行したのは、そういう理由がある。
もちろん、戦隊の意志を預かるものとしてアシュレも同行しても良かった。
いや、一時は、そうすべきだとも考えた。
それを控えたのは、やはりアスカへの挨拶もなく出立することはできないという個人的な思いがあったからだ。
イズマたちの先行は、これはもう作戦の内容と費やせる日程からどうしようもない。
しかし、やはり通すべきスジは通しておきたい。
なによりもアスカの顔をもういちど見ておきたい、とアシュレは思ったのだ。
そして、それが結果として正解だったことを思い知る。
「大帝の命が下された。オズマドラは、ビブロンズ帝国へ進軍する。“もうひとつの永遠の都”──ヘリアティウムを我が手にするときが来た」
本国から帰還するや否や、アスカは軍議の席でそう告げた。
その日のうちに、非公式にではあるが、それはアシュレたちにも伝えられた。
ノーマンの口から漏れた「ついにか」という唸りが、アシュレの心中を代弁していた。
オズマドラの大帝:オズマヒムが以前よりビブロンズ帝国に領土としての関心を寄せていることは、だれの目にもあきらかだった。
攻略目標とされた帝国の首都:ヘリアティウムは、“もうひとつの永遠の都”と称され、類い稀なる壮麗さと数千年の歴史を誇ってきた。
そして、実質的には、ビブロンズに残された領土のすべてでもある。
アスカ率いる砂獅子旅団がトラントリム攻略を命じられたのも、最終的な目標として、この“もうひとつの永遠の都”を手中に収めるための道筋作りであったことは間違いない。
地図を広げてみればユガディールの統治下にあったトラントリムとその同盟国家群は、オズマドラの主力である陸軍とヘリアティウムの間に壁として立塞がっていたのだ。
その壁を「オーバーロードの手に堕ちた国々を人類圏に取り戻し、これを平定する」という大義名分を得て破砕したのはアシュレたちで、この結末は予想されたものではあったのだが……。
やはり、ハッキリと断言されてみると予想以上に堪えるものがあった。
イクス教者や古代に憧れる者であるかないか、という話ではなく、ヘリアティウムはある種の「心の故郷」として伝説や物語・書物や説法を通じ、西方諸国の貴族や知識階級のなかにいまも息づいている。
それは自分たちのルーツに対する愛だと表現して間違いない。
アスカから伝えられた決定事項に、アシュレは、そのことを改めて思い知らされた。
そして、心を傷めているのは大帝の布告を告げるアスカも、同じであった。
ただそれは、アシュレたちのような同胞の国に迫る危機への思いや、自らのアイデンティティ・そのルーツが脅かされることに対して抱く感情とは、また違う意味でだったのだが……。




