■第九夜:ビブロ・ヴァレリ
「ノーマン……ちょっと訊きたいことがあるのですが」
「うん? なにだろうかな、アシュレ」
黙りかけたところに飛んできた問いに、ノーマンがすこし困惑を見せて応じた。
あーっと、ええと……どこから話せば一番わかりやすいんだ。
アシュレは話の順番を考えながら、喋り出した。
「じつは、ノーマンやイリスたちがカテル島を旅立った経緯と、旅の話を聞いていて、ちょっと腑に落ちないところがあるんです。ちょっとこれまでのお話の流れを、ぶった切っちゃってるかもなんですけれど」
「腑に……落ちない? ほう」
話の流れをぶった切る?
別方向からの問いかけに、怪訝げにつぶやきアシュレへと向き直ったノーマンの顔には、なぜか安堵に似た表情が浮かんでいた。
ノーマンはこれまでさまざまな局面で、アシュレのこのような飛躍に立ち合っている。
たとえばこういう「話のぶった切り」だ。
それを天才、と呼ぶか、世間とのズレ、と感じるかはヒト次第だが、トラントリム攻略戦の話をシオンやアスカ、エレと言った女性陣から聞く限り、アシュレのこの突発的な思いつきにはなにか事態を打開する《ちから》がある、という確信を得つつある。
それはきっとシオンやイズマが、アシュレという若者になにを見て、彼のどこに惹かれているか、ということと同じなのだろう。
このときもまた、手詰まりになりかけている現状に別方向から当てられた光、と感じたようだ。
イズマやアテルイ、土蜘蛛の姉妹やシオンもノーマンにならうように視線を集める。
スノウだけは「いまの話の流れとなんの関係があるのか」という顔をしていたが……。
「あー、そのー、ですね。呆れないでしばらくつき合ってもらいたいんですケド……たぶん、最終的には関係があるはずなんで、お願いします」
アシュレはそう前起きすると続けた。
「これはノーマンだけじゃなくバートンにも聞きたいんだけど……あなたたちが乗ってた船はエスペラルゴの皇帝:メルセナリオが船長で、しかも、ヘリアティウムではビブロンズの皇帝:ルカティウス本人が待ち受けていたってわけですよね。ここにくるまでの道行き……これって、どう考えても出来すぎですよね?」
「偶然、ではありえませんでしたな」
なるほど、とアシュレの問いに、深く頷きながら答えたのはバートンだ。
これまでの戦隊のやりとりをずっと傾聴していた男が、身を乗り出してくる。
「だれかが筋を書いた、と言われたほうがよほど自然だと思うくらいには、作意を感じますな」
うん、とアシュレも返す。
「で、だ。メルセナリオの件はひとまず置こう。これは十字軍発動との関連性も無視できないからね。だけど、ルカティウスの話は決定的だよね。わざわざ、あなたたちの到着を待ち、私邸に招待した……さらにそこであなたたちはトラントリムが《閉鎖回廊》に堕ちたことを知らされた。いくら彼が早耳でも、ちょっとこれは無理があるんじゃないかな、タイミング的に。しかも断定だったわけだよね。確定情報として彼は話した」
「うむん」とノーマン。
「そうですな……“再誕の聖母”やカテル島のことばかりで、すっかり意識がそちらに誘導されていましたが、言われてみればそれも考慮に入れておかねばならんことでしたな」
バートンがアゴヒゲをしごく。
そのうえ、とアシュレは畳みかける。
「そのうえ、ルカティウスからの進言により選んだ海路で、キミたちは大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーの襲撃を受けた。とりたてて彼女の怒りを買うような理由もないのに、さ」
大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーは黒曜海にあってはもはや伝説的存在だ。
嵐と雷を司る怪物だが、彼女が標的とするのは黒曜海に暮らす蛇の民を襲ったり、戦争で荒らす連中に対してだけだと言われてきた。
実際に沿岸地域の漁師や商人たちのなかには彼女を蛇神・海神と崇め、無事と豊漁・商売の成功を祈り、船出の前に奉納の儀式をする人々もいる。
魔の十一氏族ではあるが、温厚で知られた巫女であったはずだ。
だが、その彼女からの謂れのない襲撃によってノーマンたちの隊はバラバラになったのだ。
「こんなのなにか繋がりがあるに決まっているよ。ない、と考えるほうが難しい。特に怪しいのはルカティウスだ。なにか超常的な《ちから》──イズマの占術みたいな──であなたたちの動向を知り得たんだ。そうして、キミたちを誘導した。そうでなければつじつまが合わない」
合わないじゃないか。
むう、とアシュレの指摘にノーマンが唸って見せた。
たしかにそうだ、と。
「では、我々はまんまと敵勢力の待ち受けるトラントリムへと送り込まれた、と若はそうおっしゃるわけですな」
「穿ち過ぎ、と笑われそうだけれど……そうじゃない。そうじゃないんだ。この感じは。感じるんだ。《そうするちから》を」
自らの両腕を抱いてアシュレが言った。
二度の《魂》の発動を経たアシュレは、どうやら見えざる強制力:《そうするちから》の介入をおぼろげながらでも感じ取ることが出来るようになったらしいのだ。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないが。
「では、我々はルカに──皇帝:ルカティウスに謀られた、というのか。だがなぜだ、なんのためにだ。これではまるで……ルカティウスは初めからユガディールと通じていたようではないか」
ノーマンがうめく。
カテル島の病院騎士にとって、宗派こそエクストラムとアガナイヤで違うとはいえ、その教皇の座も兼任するルカティウスは、同じくイクス教徒の長でもある。
その文人皇帝に浮上した疑惑は、精神的に堪えるものがあったようだ。
なにしろ、その後には“再誕の聖母”本人までもがユガディールと結んだのだ。
信じてきたものにことごとく裏切られてしまった。
いま眉間に深い皺を寄せる男の内側では、激しい葛藤が渦を巻いていたのである。
だが、だからといって考えることを放棄するわけにはいかない。
これは、そうやって失われた信じるべきものを取り返す戦いでもあるのだ。
自らの信念を、自分たち自身の責任として取り戻す戦いだ。
だから、自らの直感に囁きかける声にしたがって、アシュレは続ける。
閃いたのは、まさにそのときだった。
「ユガディールとイリスが通じたのは、彼女の行動原理から、はるか昔にすでにして謀られ予定されていた──つまり“再誕の聖母”とユガディールとは、それ以前からずっとそうなるべく定められていた可能性は充分にあるんだけど……。ん? まってノーマン。いま、いまなんて言ました?」
「ルカティウスに謀られたのか、と」
「いや、その前、愛称」
「ルカ?」
「それだ。それにユガディール!」
そうかッ!
アシュレはなにごとか思い当たった様子で、弾かれたように立ち上がった。
離れた場所で草を食んでいた愛馬を呼ぶと、これに飛び乗って仮住まいの自室へと取って返し、しばらくして戻って来た。
息を切らせながら、全員の目の前にボロボロになった手記を広げて見せる。
「ユガディールの遺稿」
とシオンが持ち出された書物の正体を明らかにする。
そうなんだ、とアシュレは頷く。
なんどもなんども、唾を呑み込みながら。
「見てくれ。ここに我が友:ルカの研究と推測、とある。超常の《ちから》を持って過去を知り得ることのできる友の協力により……わたしは、この世界の真実にさらに迫ることができた……もっと早くに彼と出合えていれば……だが、いったいいつ、これが作られたものなのか──いや、このへんはどうでもいいんだ」
問題は、二点だ。
アシュレは全員を見渡しながら言った。
「ここでユガディールが言うルカというのは、ビブロンズ帝国の現皇帝:ルカティウスのことなんじゃないのか? 日付を見ればもう三十年以上も昔のことだ。そんな時代から、ユガとルカは通じていた──んだとしたら?」
「いささか発想が飛躍しすぎ、と言いたいところですが……これはもしかすると、真実なのではありませんかな」
意外な場所から飛び出してきた物証を子細に眺めながら、バートンが言った。
「たしかに。これまで起きた事件との因果関係を照らし合わせて見れば……しかも、超常の《ちから》を持って過去を知り得る、だと?」
「うん、そこ。そこです、ノーマン。重要な二点目はそこだ」
ビブロンズ帝国皇帝:ルカティウスは、一般的には「無能力者」と言われている。
いわゆる《スピンドル能力者》ではなく、異能は扱えないという意味だ。
「もし、それがカモフラージュだったとしたら?」
「総人口は最大時の二十分の一……いまや、ヘリアティウム市民十万人だけが国民のすべてと言われる落日の帝国、その皇帝が巧みな外交手段で生き延びてきた本当の理由。冴え渡る外交術の裏支えをしてきたものが、この異能、過去を知るという凄まじい《ちから》だと。そう言うのか」
問いかけるノーマンの口調は、しかし、確信に満ちていた。
そこに異論を挟んだのは、イズマだ。
「……でもさ、それじゃあ、ヘリアティウムって《閉鎖回廊》級に《スピンドル》が回るってこと? 未来を知るよりは簡単かもだけど、過去を正確に知り当てるってーのは、よっぽどの《ちから》だよ。簡単に隠し通せるかなあ? これまで何千、何万人との謁見を果たしてきたわけでしょう、その皇帝さんってーのはさ。そのなかにはもちろん《スピンドル能力者》がいた。騙し切れるの?」
「では、イズマ、貴君はユガディールの手稿に現われるルカと、皇帝:ルカティウスは別人だとそう言うのか?」
ノーマンの追及に、イズマは首を振った。
「いや、そうは言ってねーんすヨ」
むしろ、逆でね、と続ける。
「みんなの言うように……こりゃあ、同一人物だよ。だから、ボクちんが疑ってんのはそこじゃねーの」
「では、どこなんだ」
ふたたび、ノーマンが斬り込む。
核心は、と。
うん、とイズマは頷く。
「この過去を知る能力ってサ、要するにダシュカちゃんの能力級にヤバいヤツなんだ。だってサ。死んだ人間が墓場に持っていったはずのヤバい真実を徹底的に洗い出せるわけでしょ? そんなもの持っていると知られたら、どんな国であっても暗殺対象でしょが?」
イズマが語る異能の効果のほどを全員が実感して沈黙する。
たしかにそれは未来を知りえるのと同じくらいに強力で、恐ろしい《ちから》だ。
後ろ暗い過去などひとつもない——そんな人間はいないからだ。
「そういえば……古い伝承にそんな本が出てくるものがありました。どのような過去をも知り得ることのできる魔性の本。いまはもう失われたアガンティリスの大図書館に秘蔵されていた魔道書:ビブロ・ヴァレリ」
イズマの語りを受けて口を挟んだのは、アテルイだった。
自然に全員の視線が集まる。
「あ、いえ、これは正確にはわたくしの知識ではありません。仰っていたのはアスカリヤ殿下で。不遇の……蟄居時代に。わたくしは、そのなんというか、その……寝物語に、ですね? アシュレさまは、ご存じかもしれま……いえ、あの、皆さんのお話に触発されて……つい、お伽噺を」
いやっ、あのっ、そのっ、伽、と申しましても、そういうミッドナイトな方面と掛けたわけでは断じてなくっ。
と普段はクールビューティーな秘書官で通しているアテルイが、なぜか真っ赤になってうずくまり丸まった。
ダンゴムシである。
いまでこそアシュレの第四の妻というポジションに納まっているが、もともとアテルイはアスカの恋人だったのである。
いやいまでもそうか。
ビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムの地下にアガンティリス期の大図書館が眠っている、というのは有名な伝説だ。
アテルイの例を挙げるまでもなく、アシュレも寝室でアスカと、あるいはシオンと、もしかするとその全員と、そんな話に夢中になった記憶はいくらでもある。
そして、そんな事実をこの場で口にするわけにはいかないアシュレは、アテルイのダンゴムシの理由に思い当たった。
なるほど、とアゴに手をやり唸る。
と、その途端。
まてよ、となにごとかさらに閃いた。
「たしかにアガンティリスの遺産をアラム教圏は強く受け継いでいるから……そういう伝承も伝わって……ん? そうか!」
「どうした?」
「どうなされました?」
アシュレの瞳が頭のなかを探るようにせわしなく動く。
その様子に、全員が食いついた。
「アシュレ、それなのではないか。それこそが解答なのではないか」
シオンもなにごとか思い当たる節があるのだろう、なんども頷いてアシュレを肯定する。
アシュレが古代や人類の歴史に興味を持っているでけでなく、快活な武人肌に見えるアスカがその実、大変な読書家──本人の申告によれば文学少女──であったことから、物語や文献に対する考察は食卓どころか寝室においてさえ、共通の自然な話題であったのだ。
このときシオンの脳裏ではアスカやアテルイ、もちろんアシュレと一緒になって、それは実在するのか、もしあるとしたらどこなのか──と、そんな話題に空想を遊ばせた記憶が鮮やかに甦っていた。
「大図書館!! 大図書館だ!!」
アシュレの叫びの意味をこのときはまだ理解できず全員が顔を見合わせる。
唯一シオンだけが表情を輝かせたのは前述の理由だ。
「ビブロンズの地下に眠っていると言い伝えられてはきたが、結局、だれひとりとしてその発見に至らなかったアガンティリスの叡知の結集。それがもし、実在のものであったなら……これは、もしかすると、もしかするぞ」
「統一王朝:アガンティリスが滅亡する際、当時の首都であったヘリアティウムの地下に、最後の皇帝が膨大な蔵書を避難させたって伝説。それは伝説ではなくやはり事実だった、ってこと」
ふたりは両手の指を握り、絡ませ合う。
「もし、そのなかに魔道書:ビブロ・ヴァレリがあったとすれば?」
シオンとアシュレが交す仮説と推察の円舞に、全員が色めき立った。
とりあえず、ダンゴムシになったアテルイを抱き起こし、抱きしめることくらいは、ふたりはした。
「だから、あるんだよ、大図書館は実在するんだ。そして、そこには過去を知る魔道書:ビブロ・ヴァレリが眠っていて……そう考えればあらゆることにつじつまが合う!!」
珍しく興奮して早口でまくし立てるアシュレに、だんだんとほかのメンバーも事態を把握し始めた。
「それは……ありえる話だねえ。なるほどそうか」
イズマがアゴに手をやり、思案顔になる。
「つじつまは合うなあ」
「我々の動向を正確に知り得たことと。その理屈が通りますな」
イズマとバートンが、目を白黒させつつも理解に及ぶ。
「だとすれば……それを手に入れさえすればわかるわけか。ダシュカマリエの現在や、カテル島のことも。悠久の刻を生き延び、ビブロンズ帝国皇帝に受け継がれた、あらゆる過去の事象を調べ尽くすことを可能とする強力な《フォーカス》であれば……そうだというのか」
進むべき道を示されたように、ノーマンの瞳が光を帯びていく。
「それだけじゃないよ、ノーマン君」
思わず口走ったノーマンに、イズマが促した。
「だとしたら、そいつを手に入れさえすれば……行方知れずの聖母さま──イリスの居場所も突き止められるじゃないの」と。
イズマの言葉に、ノーマンはハッと胸を突かれたような顔をした。
そうか、と。
「加えて、我らに毒杯を盛ってくれたルカティウスへの意趣返しにも、これはなる」
ノーマンの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
姑息な手段を無益な暴力と同じくらいカテル病院騎士団は嫌うが、先んじて行われた裏切りに対するそれは正当な復讐にほかならない。
それはこれまでのやりとりでも明らかだろう。
ルカティウスは売ってはならない男にケンカをふっかけたわけだ。
面白くなってきたな、とは言葉にしないが、その表情が告げている。
しかし、この時点ではだれも知らないのだ。
ビブロンズ皇帝:ルカティウスは、たしかに過去を知り当てる《ちから》を所持している。
魔道書:ビブロ・ヴァレリをも、そうだ。
だが、それは単純に所有者と所持品、というような関係ではない。
もっと淫靡で後ろ暗い関係──たとえば、密通関係とでも書き記すべきような。
読者を誑し込む魔書の類いは多く、物語に淫する読者はさらに多い。
物語を読みこなせるということ自体が、ある種の特殊なスキルであったこの時代。
その一文さえ読み解けなければあるいは運命は別だったであろうに──たったそれだけのことで、人生を踏み外した者も少なくない。
そして、話題の魔書:ビブロ・ヴァレリこそはその最たるものであった。
なにしろ、彼女こそ……魔道書の姿を持つオーバーロード。
かつてはヒトであり、いまや物語そのものとなった存在だったのだから。




