■第一〇八夜:戦旗を掲げて(9)
「させるかぁッ!!」
アシュレが行動の自由を奪われ、シオンがユガディールの魔手によって取り込まれようとするまさにその瞬間を、右翼を担っていたアスカは阻もうとした。
キィイイイイイイン、と音を立て、両脚を構成する告死の鋏:アズライールが、アスカの《意志のちから》を受けて高まる。
光り輝く粒子が巨大なオオワシの翼を思わせてたなびき、シオンを取り込むために動きを止めたユガディールを狙う。
決まれば、一打逆転の好機。
だが、その突撃の前に立ちふさがったのは、ほかにだれあろう、“再誕の聖母”、そのひとだった。
「そこをどけッ、イリスッ!!」
「いいえ、どきません」
「《ねがい》の下僕、偽りの聖母に変じたりとはいえ、アシュレの妻であることまではやめたわけではないだろうに! おまえの良人と、人生を分かち合っても良いとまで想った女の危機なんだぞッ!! なぜ、オマエは、そこにそうしていられるッ!!」
「世界を善き方向へと導くため。そして──わかっていないのはアスカ、貴女のほうです」
「なん……だと」
「すべてが済んだあとでなら、きっと納得していただけるハズです。アシュレにも、シオンにも、もちろん──アスカ、貴女にも」
「言うに事欠いて、それかああああッ!! 他人や世界にとってなにが最善かを、オマエが決めるんじゃないッ!!」
「信じて、わたくしを信じてくださいッ!! わたくしはすでに、無意識にも、この西方エリアに暮らす民の過半数の《ねがい》を委託されているのです。もうあとすこしで、正式な世界改変権限所持者に到達するのですよ? これは紛れもなく《みんなのねがい》なのです! 抵抗は無駄なんです!」
「わたしたちはそんなものに同意した憶えもないし、これから先も同意することなどないッ!!」
「ですから、《意志》こそが、そして、その顕現たる《スピンドル》こそが、ヒトの苦しみの源泉だと──どうして、どうしてわかってくださいませんの?」
「わかる理屈がないわッ!! ええい、問答無用ッ!!」
堂々巡りの議論を打ち切ったのはアスカだった。
言葉を交わす間にも溜め込まれていたエネルギーを収束させ、跳躍からの蹴り込みに乗せる。
深い捻転が生み出す回転力に《スピンドルエネルギー》が加わり、その姿はさながら夜空を駆ける彗星のごとくとなる。
しかし、その攻撃を受け止めたのは、先だって起った“庭園”での初邂逅のときと同じく、あのイクスの旗だった。
もちろんそれはイリスの《ちから》が視覚化されたものでしかない。
自らに垂れられている護りの恩寵が「聖イクス」による正当な加護であることを見る者に証立てるための。
「くっ」
まっすぐにその防御スクリーンに飛び込んでしまったアスカだが──今回は、あのときのように告死の鋏:アズライールは沈黙したりはしなかった。
やはり、あの《フォーカス》を沈黙させる異能:聖務禁止は“庭園”のなかでしか行使できないのだ。
それでも最大攻撃を無効化されてしまった痛手は大きかった。
両手を広げて立ちふさがるイリスのむこうで、自体は致命的な進展を見せる。
展開したユガディールの肉体が、シオンを包み込む。
「無駄です、アスカ。だから……あなたも供に参りましょう」
そして、その光景に呆然となったアスカにも、こんどはイリスから生じた光り輝く巨大な手が掴み掛かってくる。
いつの間にか、イリスの背後に洗脳用装備一式を広げた巨大な〈ログ・ソリタリ〉の頭部が控えてきたのだ。
のしかかってくるその巨大な構造物のなかに、このときアスカは確かに見る。
羊水を思わせる触媒の詰められたシリンダーに囚われたアテルイの姿を。
裸身のまま、胎児のように身体を丸めて浮かぶ大切な恋敵を。
「アテルイ!」
アスカが叫ぶのと、その肉体が横抱きにされ、巨大な手の攻撃範囲から連れ出されるのは同時だった。
「惚けている場合かッ!!」
「エレ殿ッ?!」
黒き疾風となってアスカを護ったのはそれまでサポートに徹していたエレだった。
両軍が激突するなか、後方に陣取り、敵の出方を観察するとともに、いざというときの緊急救助役として立ち回っていたのだ。
「かたじけない!」
「気を取り戻されたなら、自分の足で走ってくれると助かるぞ、アスカ殿下。御身は筋肉質だし、告死の鋏:アズライールは重たい上に、主人以外に触れられてあまり機嫌がよろしくないようだ。噛みつかれたくはないからな、神器級と謳われる《フォーカス》に」
「たしかに」
軽口をふたりは飛ばし合う。
だが、その眼前に、またも巨大な光の手が回り込む。
「抵抗は無駄です、と申しあげましたのに」
振り向けば悲しげな表情を浮かべたイリスが立っていた。
「でも、どうしても、抵抗をやめていただけないというのなら──いたしかたありません。わたくしが、おふたりを、変えるまで」
イリスの言う「変える」という言葉が、もちろん説得などではなく、もっと直接的な意味合いを持っていることをアスカもエレも重々承知していた。
「くそっ」
「ここまで、なのか」
期せずしてふたりの口から漏れた諦念の言葉に、イリスが微笑む。
“再誕の聖母”としての。
赦しの笑みを。
ききわけのない愛し子が、やっと自分の言葉を受け入れ、行いを改めてくれたのを見届けた慈母の。
だから、イリスは理解できない。
追い詰められ、もうどこにも勝ち目などないはずなのに。
どうして、いま眼前にいるふたりは、唇の端に浮かべているのか。
“再誕の聖母”が定めたる神の摂理。
新たなる世界の法理を前に。
それらすべてを敵に回して、なお屈せぬ《意志》の表明
不敵な笑いを。
※
その瞬間、なにが起ったのか。
正確に理解できたものは、いなかったであろう。
“庭園”の風景に包囲されたアシュレダウと、ユガディールに捕らえられたシオンザフィルを除いては。
もし、とシオンは思う。
その肉体をユガディールに囚われながら。
もし、己が両腕に帯びる武具が聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーではなく。
もし、それが自分の命を懸けてまでシオンを護りたいと言ってくれたルグィンの遺品、いや遺体を素材とした品でなく。
もし、それを託したのがアシュレの父:グレスナウでなく。
なによりも、数奇な出逢いを経て、恋に落ちたのがアシュレとでなかったとしたら。
いいや。
もしかしたら、なにかほんのわずかの小さな選択肢によっては。
そのすべてを反故にしてさえ。
わたしは、ユガディールの希求に、その心の餓えを癒すために、我が身と人生を投じていたかもしれない、と。
それほどにも強く、八百年以上もこの残酷すぎる世界の底で理想の灯火を掲げて歩んで来た夜魔の英雄の人生に、シオンは己の半生を投影していたのだ。
本当の意味では決して他者と共有できぬ不死者の業苦。
同族・同胞、いや、夜魔の大公であり父親であったスカルベリに弓引き、文字通りの暗闘を駆け抜けてきたシオンにとって、唯一の理解者となりうる存在こそが、ユガディールという男であった。
かつて、その男の腕に囚われ、抗いがたい求愛を受けた日々のなかでシオンは、彼の孤独に触れてしまっていた。
強いられているのは自分の方であるはずなのに、ユガディールがヒトの骸であれば百度は朽ち果てるであろう年月、その胸に抱え込み、誰にも打ち明けられなかった痛みと悼みを感じてしまって、泣いてしまった。
いま、自分がこの男のものへと陥落してやれたなら、すこしでもこの餓えを、渇きを、癒してやれるかもしれないのに、と。
どうして、そうしなかったのか。
ともに堕ちてやれなかったのか。
きっと、とシオンは想うのだ。
きっと、わたしは、すでに魅入られていたからなのだ、と。
どう考えても、シオンを置いて歴史のページの向こうに先立ってしまうであろう、不死でも、不老でもない、定命の。
まだ、少年の域を脱したばかりの人間の騎士が見せてくれる《魂》の輝きに。
己という存在そのものを篝火にして、闇に包まれた世界を照らし出し、必死に手探りで自分自身の答えを探そうとするその姿に。
まだ重責を受け止めるには小さすぎる双肩に、それでも、背負える限りの荷を担ぎ、背筋を伸ばして笑って見せるあの姿に。
シオンは見出していたのだ。
希望を。
夜空に輝く星のように、遠くとも、自らの行き先を示してくれる光を。
だから、と囁く。
「だから、ユガディール──わたしは、そなたとは行けない」
そなたの言う、絶望から生じた《救済》を、わたしは受け入れられない。
そして、シオンの言葉を証明するように、掴み掛かってくる無数の触腕を撃墜するのだ。
腕一本、指一本動かすことなく。
その身から、まさしく荊のように。
無数の棘が生じて。
棘の名は──〈ジャグリ・ジャグラ〉。
シオンの肉体に埋められた十三本の鋭き棘。
忌まわしき人体改造の魔具であったはずのそれが、ユガディールの語る《救済》を拒絶したのだ。




