■第一〇三夜:戦旗を掲げて(4)
※
イリスから放たれる言葉は、音ではなく光として認識される。
それは陽光に照らされるような、あたたかさにも似ている。
視えるように、触れているかのように、言葉の連なりが働き掛けてくるのだ。
実際にはそれはアシュレを始めとした侵攻メンバーの全員に、正しくは肉体の内部に“接続子”を宿すすべての存在に対して、流し込まれる情報流である。
“再誕の聖母”:イリスは指一本動かしてはいない。
それなのに、その輝ける指が自分の頭蓋の、あるいは胸の、心の在処を探り当て、まさぐるように感じられる。
いや、実際に触れているのだ。
自分の心を司る部分に。
だから、アシュレには、いま胸中に瞬間最大風速的に湧き上がってくる畏敬や思慕、そして愛すべき家族に再会したときのような、この心の動きが「操作されたものだ」とわかる。
《侵食》。
それはオーバーロードを始めとする《閉鎖回廊》の主たちが用いる人心操作・強制的人心掌握系異能の総称だ。
《フォーカス》を介することのないこれら人心操作系の異能が、いったいどこに根拠のあるものなのか、アシュレにはそれまでわからなかった。
だが、遺稿のなかでユガディールはその正体に肉薄していた。
すなわち“接続子”こそが、ヒトの心を直接操作する《ちから》を媒介しているのではないか、と。
そして、それは正しい。
正しかった、とアシュレいま、イリスから放たれる言葉に相対して感じている。
屈してはならない。
いま、胸の奥に想起してくる感情は、偽りのものだ。
ぐん、と《スピンドル》を励起させ、感情に抗う。
シオンも、アスカも、スノウを匿い終えたエレも同じくそうする。
必死に、歯を食いしばって。
「なぜ? なぜ抗われるのです? わが君、アシュレダウ──もう、苦しみの時は終わったのです。ご覧ください、この美しい光景を。わたしたちが……いいえ、人類すべてが、夢見続けてきた理想郷の姿。天上の國の景色が、ここにはあるのです」
そして、そこに、あとすこしで手が届く。
聖母の顔となったイリスは、己の下腹を愛しそうに撫でさする。
この数日で注がれた大量の《ねがい》が、その裡に宿るものを急激に成長させたのだ。
「この子が──“救世主”となるべきわたしたちの子供が、完成されれば、その刻こそ、この世界は理想郷と合一する」
そうなれば、とイリスはアシュレへと手を差し出す。
ぐううっ、とアシュレは吹きつけてくる情報流が圧を増すのを感じた。
「そうなれば、もう、だれも、悩んだり、迷ったりしなくて済むのです。ヒトの苦しみの根源を、わたしたちは取り除ける」
あたかもそれこそが《みんなのねがい》であるかのように、イリスは話す。
そうかもしれない、とアシュレだって一部を認めざるを得ない理屈で持って。
ニコリ、とアシュレのそんな心の動きを読んだのか、イリスが笑みを広げた。
美しい、完璧な笑顔で。
「そこでは人々は皆、従順な家畜です。脅かされることなく、明日を信じ、心安らかに眠りにつく。己の役割がわからず、喪失に怯え、他者を理由なく貶め、迫害して、不平不満を垂れ流し、指導者を揶揄することでしか己の居場所を確認できない……そんな、そんな業苦から、やっと人類は自由になれる。それが理想郷。天上の國の降臨。そこで、やっと、ヒトは完成するのです」
ああ、なんと素晴らしいことだろうか。
きっと、以前のアシュレなら、その高邁な理想に同調していただろう。
いや、とも思うのだ。
もしかしたら、いまからボクたちがしようとしていることは、ほんとうは、誰ひとり他者は望んでなどいなくて、と。
もしかしたら、いまからボクたちがしようとしていることは、ほんとうは、《みんな》に対する裏切りなのではないか、と。
だって、そうじゃないか。
いま、イリスが告げるのは、あらゆる責任から解き放たれた楽園への約束手形、そのものだ。
身を任せれば、無条件の安寧を約束してくれる天の御使いの言葉だ。
だれも傷つけない。
だれも死なない。
袂を別ったハズのユガディールとだって、再び、親友として笑い合えるだろう。
ああ、なのに。
それなのに。
どうして、ボクの《スピンドル》はこんなにも激しく、その安寧の約束に対して、拒絶を示すんだ?
なぜ、おまえたちの言葉は偽りだ、と咆哮するんだ?
アシュレは、侵攻を決めたとき、シオンとアスカと──信じる仲間たちと交した会話を思い出している。
「戦隊としての《意志》を確認しておこう」
言いだしたのはシオンだった。
アスカは一瞬、目を瞠り、それから瞳を閉じ腕を組んで横に並んだ。
首都:トラントリムへの侵攻直前、最後の休憩の時だ。
「これからの戦いは、これまでとはワケが違う。敵陣に侵攻し、この《閉鎖回廊》の主であるユガディールを叩く。そこにみな、異論はあるまい」
全員が少しずつ食料を口にする。
大量摂取は肉体の動きを鈍らせるし、なにより内臓に傷を負った場合の生還率に直結するため厳禁だが、一時に激しい消耗を強いられる《スピンドル能力者》たちの戦いでは、体内備蓄エネルギーのキッカーとしての携行食は重要極まりない。
砕いたナッツ類を温め練って合わした砂糖と家畜の乳で固めた菓子は、救出を待つアテルイのお手製だ。
「だが、イリスは……どうするのか。現場で迷っているヒマはない。意志の統一を図りたい」
本来ならば、それはアシュレの役割だっただろう。
だから、いま、この場で動機を再確認してくれるシオンの行動に、アシュレは動揺よりも感謝を覚えた。
言い出しにくい、だが、確認を怠れば一瞬の判断の遅れが死を招く戦場では、それは必須事項であったのだ。
その決断はまさに、アシュレにしか下すことのできないものであったのだから。
で、どうするのだ?
シオン、アスカ、エレ、そして、スノウ。
女性陣たちからの問いかけがそれぞれの感情を伴って、アシュレに向けられた。
シオンからは「どのような決断をしようとも、オマエと供にあるぞ」という信頼の。
アスカからは「一緒に手を汚してやる」という決意の。
エレからは「小僧なのか、男なのか、見せてもらおう」という期待の。
そして、スノウからは「自分だったら決められない。その決断を、このヒトは、どうするんだろうか」という問いかけの。
だから、アシュレは言った。
「助けようと思う」と。
それは、と反論しかけたシオンを、手で制して続けた。
「もちろん、ボクは希望的観測でだけ、こんなことを言っているんじゃない。アスカとアテルイが、文字通り命がけで持ち帰ってくれた情報に、ヒントがあるんだ」
まだ、希望は失われてはいない。
言い切るアシュレに、全員が息を呑んだ。
「それは、どういう、どういう意味だ?」
訊いたのはやはりシオンだった。
「アスカ、君はあの巨大な《フォーカス》:〈ログ・ソリタリ〉の内部で、イリスに逢ったと言ったね。そこで、聖母となったイリスと対峙した、って」
「たしかに。たしかにそう言った」
アシュレの問いかけに答えたのはアスカだった。
「そこでの彼女は、輝ける存在だったんだよね? 白き自動騎士たちに護られ、まるで全能であるかのように振る舞っていた」
そう、そうだ、とアスカが頷く。
「告死の鋏:アズライールの発振を封じることさえ彼女はしてみせた。まるで聖務禁止を行うみたいに、《フォーカス》と《スピンドル能力者》の間の繋がりを絶ってしまった」
うん、そうだ、そしてわたしは……《スピンドル伝導》のための道をメチャクチャにされた。
己の体験を追憶してアスカは首肯する。
「それ、本当なら、ボクたちには勝ち目がない」
え? と全員がアシュレの言葉に目を丸くする。
ただし、とアシュレは付け加えた。
「現実の世界でそれをされたなら、ね?」と。
ど、どういうことだ? アスカが急き込んで聞いてくる。
「うん、つまり、それほど強大な《ちから》を持っているのなら、どうして最大戦力であるボクらのところにイリスもユガディールも〈ログ・ソリタリ〉も来ないのかな、って思ってね?」
あ、と女性陣が顔を見合わせた。
「おかしいじゃないか。それだけ強力で決定的な能力を持っているのに、なんでわざわざボクらに蹂躙されるままにしてるの、國を。ボクが国家元首なら、最大戦力を野放しには決してしないけどな。一番最初に、全力で叩くでしょう? これ、国境の小競り合いではなく、国家の存亡を賭けた決戦、なんだよね?」
「たしかに」
「アスカと……えっと、ラッテガルトさん、だっけ? その連携攻撃を〈ログ・ソリタリ〉が防御したというのも、ひとつの証拠さ」
ふむん、とアスカが腕組みしたまま鼻を鳴らした。
だんだんオマエの言わんとしていることがわかってきたぞ、と。
「彼らは恐れた。そして、いまも恐れている。ボクたちの総戦力で叩かれたとき、なにかが破壊されてしまうのを」
「なるほど……〈ログ・ソリタリ〉か」
あたり、とアシュレは正解を口走ったエレを指さす。
「それ、それだ。つまるところ、イリスはまだ完全体ではない。〈ログ・ソリタリ〉と接続している間だけ、そして“庭園”という次元界でだけ、その特別な異能を行使できる」
「つまり?」
「つまりこうだ。ボクが言いたいのは、アスカが対峙したというイリスは、厳密にはボクらの知っているイリスベルダではない。それは“庭園”という理想郷のなかに転写され、《ねがい》によって完全な理想像として造影された存在に過ぎないんだよ」
「すまん、アシュレ、なにを言っているんだか、そろそろわたしにはわからない」
アスカがそれ以上首を曲げたら折れるのではないか、というほど首を捻って言った。
「つまり、アシュレダウ、貴様はアスカ殿下の遭遇したイリスベルダは物語の側の存在なのではないか、と言っているのだな? 神話や英雄譚に語られる存在が極端に理想化されたものであるのと同じで」
「さすがです、エレさん。その通り」
「わたしはこれでも姫巫女だったんだぞ。神を奉じるとは、つまりそういうことだ。祭祀を執り行い、神格を高めること。神や英雄の《ちから》を増大させるのと、理屈は似通っている。神託を受け、かつての英雄の御魂を降ろし……化身となるのが我ら巫女の役目」
「媒体、媒介……なるほどな」
エレの説明に頷いたのは、夜魔の姫:シオンである。
「我ら夜魔が《夢》に耽溺するのは、その理想を味わっているわけだからな。わかる話だ」
つまり《ねがい》に充ち満ちた世界──“庭園”でだけなのだ。
理想的に振る舞えるのは。
シオンの結論に、うん、とアシュレは頷く。
「……すまない、もうちょっとだけ、やさしく教えてくれないか?」
話についていけない、と泣きそうな顔でアスカが言う。
アシュレはその顔があまりに可愛らしくて、不謹慎と知りながらも、笑ってしまった。
「物語と同一化しているときだけ、イリスはあの全能者でいられる、という話なんだ」
「うー、つまり、物語の主人公のように、か?」
「そう、そうだ」
「なんとなく、わかった」
なるほど、とまだ納得しきっていない様子だがアスカが理解を示した。
アシュレは微笑みを禁じえない。
あの漂流寺院で、ふたりの天使姉妹の物語に没入し、アシュレに語ってくれたアスカは頭ではなく、すでに肉体レベルでそれを理解しているのだから。
だとしたら、とアシュレは続ける。
「だとしたら、彼らが攻勢に転じず、むしろこの局面にあって撤退していく理由もわかる」
「あ、そうか! つまり、彼らはいま〈ログ・ソリタリ〉を失うわけにはいかないんだ! イリスの全能性を担保しているのは〈ログ・ソリタリ〉で、それを破損すると計画そのものが潰れてしまう! イリスはまだ、完全体じゃない!」
突然、理解に及んだアスカが叫んだ。
エウレーカッ!! とでも言い出しそうな勢いで。
うん、それ、さっき言ったね、ボクが、とアシュレは思うが口には出さない。
やさしさである。
「でも……だから、なんだ?」
そして、アスカは最初の問いに戻ってきた。
アシュレは笑いを噛み殺すのに失敗して、吹き出してしまった。
「やい、ひどいぞアシュレッ! せっかく一生懸命にだな!」
「ごめんごめん。いや、ボクも驚いているんだ。こんなに絶望的な状況なのに……笑えてる。アスカのおかげだね。ありがとう」
「お、おう」
「それで、どうするのか、って話なんだけど」
アシュレの言葉に、全員が頷いた。
「彼女たちがボクたちを一気に殲滅せず、むしろ、対話や懐柔策に重点を置くのは、まだ、彼女たち自身の準備が整っていないこと。そして、なにより恐れているんだ。〈ログ・ソリタリ〉を──“庭園”への《門》を失うことを。無意識にも、ね」
「つまり、アシュレはこう言っているのだな? “再誕の聖母”として急進的な《救済》を行おうとするイリスは、イリス自身の人格ではなく“庭園”と接続することで降臨されている理想郷の風景の一部、なのだと」
「そう。だから、ひとりでも多く、じぶんたちの味方にボクらをつけたい。まだ、まだ、彼らの思惑は完成には遠いんだよ」
「たしかに、ほんとうに全知全能の存在なら、いまこの瞬間にも私たち全員を洗脳するくらいして見せるだろうしな」
シオンの理解、エレの納得に、アシュレは首肯する。
な、なるほど、よくわかるぞ、というアスカのそれには、かなり無理が感じられた。
「さて、理解はしたが……問題は、どうするかだ」
相手の現状と理屈を読み解くことと、打開策はまた別次元の話だからな。
現実を見つめざるを得ない生き方をしてきたエレが指摘する。
うん、それだ、と実務の話に戻ってきたことで、アスカも身を乗り出してきた。
「とうぜんだが、今度はセットで出てくるぞ、“再誕の聖母”と〈ログ・ソリタリ〉は」
さらにそこにはユガディールもいる。
「半端な策は通じんぞ」
「たぶんだけど」
指摘するアスカに、アシュは答えた。
「彼らが待ち受ける場所こそ〈ログ・ソリタリ〉の本体だと、ボクは思う」
その解答に、また全員が目を丸くした。
「?!」
「おい」
「アシュレ」
三人の女傑たちに詰寄られたアシュレは、しかし、目を伏せて笑っていた。
驚愕の顔で見つめるのはスノウだ。
愛馬:ヴィトライオンまでが、耳をこちらに傾けて必死に話を聞いている。
「つまり、彼らは待ち受けているのさ。ボクら全員が、彼らの描いた策に飛び込んでくるのを」
「じゃあ!」
「たぶん、この策を打ち破るのは、不可能だ」
「まて」
「そんな」
焦る女性たちに、アシュレはしかし、晴れ晴れと言うのだ。
「ごめん、不可能だったんだと思う、が正確だね」
ど、どういうことだ?
さすがの論理展開に、こんどはついていけないのはアスカだけではない。
不可能だった。
過去形で語るということは、なにかそれを打ち破る手段がある、ということではないか。
だが、どこに?
いつ、そんなものを仕掛ける時間があったのか?
それなのにアシュレは訊くのだ。
「エレさん、アスカを救出した王の入城について、なんですけど……アレが発動する条件って、異能を施された者同士の縁に起因しているんでしたよね? 深い関係ででなければ〈ログ・ソリタリ〉の妨害を超えて、発動なんてできないですもんね?」
「ああ、そうだが……それがどうかしたのか?」
「イズマとあなたが、それをアスカとアテルイに施した」
「うむ、そうだ。オマエに黙っていたことを、詫びねばならん。だが……」
「まさか、イズマ……ほんとにそうなのか」
話の道筋が理解できず、アシュレの真意を測り損ね、エレは狼狽える。
なぜなら、いま、眼前の男は感極まった様子で、紅いオーロラが流れる星空を振り仰いだからだ。
「こうなることを……こんな未来が来ることをまで予測して、あなたは──」
あなたは、この策を使ったのか。
アシュレが言う。
畏怖と歓喜と怒りの入り交じった声で。
なんだ、と全員が刮目した。
「エレさん……アテルイの得意技がなんだったか、憶えていますか?」
「え? 料理……ではないよな?」
「彼女は霊媒だった。メディア、なんですよ。それも最高の」
そして……とアシュレは続ける。
「消えてしまう、向こう側に取り込まれてしまう直前に、彼女は繋げてくれた。彼女の心と、ボクのそれを──」
あるんです、直通路が。
アシュレは胸を叩く。
アテルイとの繋がりが、いまだ保たれたままの胸郭を。
シオンの心臓が息づく場所を。
「“庭園”が理想郷だというのなら、ボクたちの現実の上位存在だと振る舞うならば──そこに彼らが辿り着きえなかったものを叩き込んでやったら……どうなります? 彼らが理解できなかった概念を撃ち込んだら? 《意志》のその先にあるものを」
たとえば《魂》を。
アシュレダウの言葉に、こんどこそ、居並ぶ女たちは震えるしかなかった。
その口元に浮かんだ清々しい笑みのなかに、本当の人間の姿を見出して。




