■第九四夜:聖瓶の魔女
「助けが──ほしいの?」
投げ掛けられた言葉に、バートンはとっさに距離を取った。
トラントリム上陸後、ジゼルとの邂逅は二度めである。
最初は海岸線でだった。
ジゼルとはバラージェ家の繋がりで、旧知のなかだったバートンだ。
だが一度めの接触のとき、すでに彼女が昔のジゼルはないことは明白だった。
狂っている。
あるいは、壊れている。
それをなにかで無理やりに正しく動かしている。
バートンはそう直感していた。
正しい。
その直感は圧倒的に正しかった。
だが、天を仰いで臥すトラーオは、動けない。
そして、距離を取ったもののバートンもまた、腰のスモールソードを抜きつけられずにいた。
敵はエクストラム法王庁が誇る最精鋭、聖堂騎士団の頂点に立つ聖騎士たちのなかでも、天才と謳われた女傑である。
傑出した《スピンドル能力者》であることは当然として、いま彼女がささげ持つのは、黙示録にあって、全世界を水没に導き浄化したとされる聖瓶:ハールートである。
その《ちから》を一度すでに体験しているバートンは、ここで仕掛けることの愚かさを十二分に理解していた。
一度めの邂逅時、浜辺での交渉が対等に行えたのは、ノーマンの存在に依るものだ。
浄滅の焔爪:アーマーンとその使い手の不在、そして、重傷者を抱えた現状で、とても勝ち目などありえなかった。
そんなバートンの内心の計算を見越したかのようにジゼルは微笑むのだ。
「だいじょうぶ、おじいちゃんは大好きだし、こっちの坊やも──生意気な口のきき方だけはいただけないケド──わたしの好みだから」
あの暑苦しいオッサンがいなくて助かったわ。
そう付け加え、ジゼルがトラーオとの間合いを詰めた。
「どういう風の吹き回しでしょうかな」
低くバートンが訊いた。
スモールソードの柄にはすでに手がかかっている。
抜けば死ぬ。
しかし、トラーオに危害を加える素振りを見せたなら、それを覚悟で、バートンは斬りかかる肚をすでに決めていた。
バートンにしてみれば、トラーオは息子どころか、孫ほどの年齢である。
この旅のなかで初々しいセラとトラーオの関係に、いつしか孫娘:ユーニスとその想い人としてアシュレのかつての姿を重ねていたバートンである。
決してこの若者を害させはせんぞ、という気迫が全身から放たれていた。
さて、その瞳に宿る冴えた光を見て取ったのか。
んふっ、とジゼルは小首を傾げ、無垢な少女のように笑って見せた。
「さっきいったとおりよ、おじいちゃん。助けてあげたいの。ちからになってあげたいのよ」
「なぜ、いまさらそんなことを?」
「困ってるみたいだから」
バートンはいかなる企みかと訊いたのだ。
けれどもジゼルからの返答は、いっこうに要領をえない。
はぐらかしているのか。
いや、そうではあるまい。
本心からそう思っているのだ。
なぜなら、いまこの状況でジゼルがそこを隠蔽する理由など皆無だからだ。
こちら側の戦力中、この場にあってただひとりの《スピンドル能力者》であるトラーオはすでに完全な死に体。
バートンは能力者ですらない。
もし殲滅や蹂躙が目的なのであれば、声をかける必要性さえなかっただろう。
出現直後のジゼルに気づけずにいるふたりを広域殲滅型の異能で一撃すれば、じつにあっけなくカタがついていたはずだ。
だのに、ジゼルはそうしなかった。
なぜだ。
伏流水となっていた河が暗渠から地上のそれへと戻る際にバートンたちはいた。
ごうごうと、雪解け水を飲み込んだ豊富な水量が音を立てる。
しばしの黙考の後、バートンは、ジゼルの動機に行き当たった。
好奇心。
それもとびきりタチの悪い。
一度思い当たれば、もうそれ以外の理由を考えつけなくなっていた。
そういえば言っていたではないか。
「そうでないとおもしろくないから」というようなことを。
いまこの國では、巨大な戦乱の兆しが胎動している。
積み重ねられてきた欺瞞、侵略戦争、オーバーロードにより《閉鎖回廊》に堕ちた国土。
そこに「おもしろさ」を見出す精神性に、バートンの肌は粟立った。
であるならば、だ。
いま、ジゼルがトラーオに見出しているおもしろさの種類もまた、同種のものであろうと想像におよんで。
「おじいちゃん──正解」
そして、バートンの恐ろしい推論が杞憂ではない、と尼僧の服をまとった魔女は認めたのだ。
「助けるという言葉には偽りがありますな」
「でも、わたしが処置しなければ、そのコ──死ぬだけじゃすまないわよ?」
そうしてさらに己の“悪”を認めながらも、当然とばかりにジゼルは続けるのだ。
むう、とバートンは唸らざるをえない。
たしかに、ジゼルの《スピンドル能力者》としての才能は、カテル病院騎士団筆頭を務めるノーマンのそれに比肩するか、あるいは上回るであろう。
だからこそ彼女はこの敵対的な土地にあって、ひとり旅を続けてこれたのだ。
「こ、断る──バー、トンさん、逃げて、ください」
そして、返答は意外なところから来た。
臥したままのトラーオが苦しい息の下から答えたのだ。
バートンに言葉はない。
ジゼルはゆっくりと目を細め、笑みを広げた。
「カッコいいセリフ。男のコのそういうところが、わたしはスキよ」
動けぬトラーオに歩み寄り、聖瓶を脇に置き、膝をついて顔を覗き込みながらジゼルは言った。
「黙れ、魔女」
うめきに似たトラーオの言葉に、ジゼルは平手打ちで応じた。
ぱしん、と頬を打つ。
「言葉づかいには気をつけろ、と言った」
トラーオには、もはや言い返すだけの気力がない。
ただ、それでも、憔悴し落ちくぼんだ眼窩の奥から、精一杯の気概を込めて睨み返す。
「やだ、どうしたの、すっかりオスの顔になって──お姉さん、そういうのに弱いの。キュンキュン来ちゃう」
やっぱり、様子を見に来て正解だったなー。
ジゼルはほくほく、という様子でトラーオの側にしゃがみ込む。
小動物を可愛がる少女のように。
「あなた、わたしといっしょに来なさいな」
なんだと、とトラーオの瞳が、意味を捉え損ねて宙を彷徨った。
「だからあ、お姉さんと奴隷契約しよう、っていってるの」
「ふざ……けるな」
言い直されたジゼルの提案に、トラーオは反射的に否定文を返した。
「あらら、つれないの。でも、そのままじゃあなた、死んじゃうどころか消えちゃうわよ──みんなの記憶から」
「オマエの奴隷になるくらいなら──それでも構わない」
「ウソツキ。死ぬの恐いでしょ?」
「恐れなど……しない」
「じゃあ、記憶から消えてしまうのは? たとえば──あのコの記憶から。想い出からなくなっちゃってもいいの? セラちゃんの」
息を止めてしまった自分を情けない、とトラーオは思う。
だが、ごまかせなかった。
セラの名前を聞いた途端、またあの笑顔と姿が輝かんばかりの鮮やかさでフラッシュバックしたのだ。
「ね? 無理しちゃダメ。それに、奴隷といったってひどいことなんかしないわ。だって、すっっごく好みのタイプなのよ、キミ。大事に大事に愛してあげる。ちゃんとできたらご褒美だってあげるわ」
「ふざける……な」
「ふざけてなんかないわ。だって、いい? よく聞いて。これはあなたの存在がかかった提案なのよ? それに──取り戻したくないの? セラちゃんのこと」
「!」
トラーオは朦朧としていた意識が、その一瞬だけ、晴れるのを感じた。
セラフィナを取り戻す──いま、この女はそう言ったのか?
「どうやって、だ」
「きまってるでしょー。戦うんだよ、キミが」
「オレが……でも、オレじゃ」
思わず口をついた弱音に二発目の平手打ちが飛んできた。
襟首を摘み、軽く持ち上げてからの一撃だった。
「オイ、小僧、オマエ、それでいいのか?」
ジゼルの口調が豹変した。
「好きじゃなかったのかよ。ええ? オマエの命と引き換えにしても構わないくらい愛してたんじゃないのかよ? そのために、一騎打ちを仕掛けたんじゃねえかよ! ワクワク観てたのによお! オイッ! がっかりさせんじゃねえよッ!! 主人公になりたくねえのかよッ!」
言っている意味はよくわからなかった。
ただ、投げつけられる罵倒は、トラーオの心の傷を的確に踏んだ。
ぐっ、と胸が詰まり、失われた言葉の代わりに涙があふれ出した。
くやしかった。
罵倒されたことがではない。
自分の力不足が。
《ちから》がほしい、と切実に願ってしまった。
オレに、オレにもっと《ちから》があったなら。
アシュレさまや、ノーマンさまのような──英雄としての《ちから》が。
悔し涙を流すトラーオはだから、どうして、ジゼルが蕩けるような表情を浮かべるのかわからない。
「ほしいの? 《ちから》が。言って御覧なさい、お姉さんに、キミの本心を」
「…………」
「じかんが、ないよ。キミには」
どうするの?
投げ与えられた問いかけは、罠だった。
わかっていた。
わかっていたが、トラーオにはもう選択肢がなかった。
だから答えた。
「ほしい」
「ん?」
「ほしい、んだ」
「よし」
で? とジゼルは促した。
「?」
「誓いの言葉がまだだよ。わたしの奴隷になるって宣誓が」
そのとき思わず止めに入ろうとしたバートンを、ジゼルは視線で制した。
時間がないって、いったでしょ、と。
もう、ほんとにこのコはギリギリなんだよ、と。
そして、トラーオは選んでしまう。
誓ってしまう。
ジゼルの下僕としての人生を。
魔女はこの世に生を受けて以来、最高の笑顔でそれを迎えた。
正しく、約束したとおりの対価を与えて。




