■第九一夜:正解に背を向けて
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温かな律動が、いつまでたっても全身から去らない。
そのことに安心して、アスカは下腹を撫でる。
現世に帰還してしばし、アスカはアシュレとの抱擁を解けなかった。
このまま身を離されて接続を失ったら──またあの虚無に喰われてしまうのではないか、という恐怖があって、アスカはアシュレにしがみつきっぱなしだった。
泣きじゃくるアスカを、アシュレは大人の男としてなだめ、慰めてくれた。
もっと、もっとわからせてくれ。
まだ完全には覚醒しきらぬ意識のなか、ともすれば手放してしまいそうになる現実を必死に繋ぎ止めるために、アスカはアシュレに懇願した。
実感を、自分がここにいて、アシュレに愛されている実感を思い知らせてくれと。
その希求にアシュレは全身全霊で応えてくれた。
伝導される《スピンドル》の律動が、断たれていたアスカの導線を正し、道を拓き直していくのがわかる。
拓かれていく悦びにアスカは涙した。
もしかしたら、〈ジャグリ・ジャグラ〉を用いてアシュレに彫刻されるとき、シオンは同じような悦びを感じているのかもしれない。
だとしたら──ずるい、とアスカは思う。
わたしも、もっとそうされたい、と。
肉体の隅々に、アシュレによって《意志》を伝達されたい。
そのための道を拓かれたい。
だから、身を引き剥がすのが恐かった。
時間がないことを理性ではわかっていた。
どういう理屈でかアスカは知らなかったが、自分がここにいるということは、アテルイが身代わりになったということだ。
そのことを必死に伝えようと唇を動かしたが、呂律が回らず、言葉にならなかった。
焦燥ともどかしさと怯えに翻弄されて、アスカは嗚咽を上げながらアシュレにしがみつくことしかできなかった。
そんなアスカを強く抱き寄せ、頭を撫でてくれながらアシュレは、しかし、言ったのだ。
「わかっている。──アテルイのことだね。わかっている。でも、いまはキミなんだ。取り戻さなければならないのは」
キミを優先する。
それがどんなに残酷な言葉か、アシュレは知っていたはずだ。
けれども、低く強く言いきってもらえたことで、アスカは逆に心を強く持つことができた。
ああ、もうだいじょうぶだ、わたしは。
そう確信して、だから、抱擁を解けた。
アテルイが転移する瞬間をアシュレは体感したはずだ。
そうでなければ、どうして自分はこうしてアシュレの腕のなかにおれただろうか。
きっと、アテルイもそうだったからに違いない。
告げたのだ。
愛を。
アシュレに。
そして、受け入れられた。
もしかしたら、今日が初めてであったかもしれない。
その夜に──わたしたちは入れ替わった。
きっと、だれよりもいちばんに、アテルイのもとに駆け出したいのはアシュレなのだ。
シオンのときだってそうだった。
それなのに、アシュレは言いきってくれたのだ。
いまはキミがいちばんにしなきゃならないんだ、と。
充分だと思った。
互いに王たろうという者同士が、馴れ合いの、普通の男女のようにあれるハズがない。
とても夫婦にはなれまい。
愛しているか、愛されているか。
そのような関係性を、わたしはアシュレに望まない。
ただ、ただ、ともに同じ方向を見て、戦列をともにする。
そういう間柄でありたいのだ。
そうハッキリと気がついてしまった。
我ながら贅沢な望みだことだ、と失笑が漏れ、そのことで強張りが解けた。
身を引き剥がせば、エレがすでに湯浴みの準備を整えてくれた。
シオンが目配せと首肯ひとつ、アスカの帰還を祝ってくれた。
アスカは湯浴みしながら、徐々に感覚を取り戻してきた肉体をほぐしつつ、語った。
今夜起きたことのあらまし、そして、アテルイがいま陥っている危地に関して。
「すぐに──手をうたなければならない。アレは、あの〈ログ・ソリタリ〉のなかに息づいていた“再誕の聖母”は──わたしたちの絶対敵だ」と。
“再誕の聖母”。
その単語の登場が、場の空気をさらに固いものにした。
みしりめきり、という軋みは、決して建屋から発されたものではない。
固く握りしめられたアシュレの拳。
それが音を発していた。
どういうことだ。
たぶん、アシュレはそう訊きたかっただろう。
なにしろ、それはカテル島に残してきた想い人のふたつ名であったのだから。
だが、そうしなかった。
己の感情に整理をつけることより、優先させねばならないことがあることをアシュレは知っていたのだ。
だから、こう訊いた。
「イリスなのか」と。
こくりこくり、とうつむいたままアスカが首肯で応じた。
それから、言葉にした。
「偽神:〈ログ・ソリタリ〉の内部は、異空間だ。あすこは、オマエが言っていた、そして、ユガディールが手稿にあった理想郷の似姿──“庭園”なのではないか、とわたしは思う」
「“庭園”」
「現実ではありえない。ありえないほどに美しく穏やかで──《そうするちから》に満ちていた」
強力無比の同調圧力。
アスカは断じた。
「じゃあ、本人ではないのか」
「本体ではない、かもしれない。肉体の枷を外された存在は、どうしても増長・慢心して振る舞うものだからだ。ただ……」
「ただ?」
「ただ、本質かもは、しれないが」
「だれかが……いいや、なにかが作り上げた幻影だとしたら?」
「ただの幻影にあれほどの《ちから》があるのなら、わたしたちには到底勝ち目がない。本物か、あるいは、本物になりつつあるか」
「アテルイを取り戻したい」
「……そう言ってくれると信じていたぞ、アシュレ。だが、そのためには、〈ログ・ソリタリ〉本体の物理的破壊が必要となる。それも徹底的な、な。話したとおりだ。わたしはヤツの頭部に攻撃を仕掛けた。しかしそれは罠だった。飲み込まれたんだ」
「逆説的に言えば、キミとラッテガルトさんの同時攻撃は、ヤツにとって脅威だったんだ。そうやって、防御するほかないほどに、ね」
「なるほど……そうだな。もし、凌ぎきれるなら、わざわざこんな搦め手を使う必要は、ない」
「あるいは……“再誕の聖母”がイリスだとするならば……ほんとうに、キミに味方になって欲しかったか」
「オマエへの愛は、偽りではなかったよ……わたしには、理解できない理屈だったが」
「ありがとうアスカ。大筋は理解した。……ボクたちで、アテルイを取り戻そう」
微塵の迷いもなくアシュレは言いきった。
それは迷いがなかったのではない。
驚愕に打ちのめされ、恋慕と愛慕と思慕と──時代と運命への激しい怒りとが嵐となって吹き荒れる胸中をねじ伏せ、迷いを断ち切って、アシュレは宣言とした。
その証拠に、血のにじむほどに握りしめられた拳は、震えているではないか。
けれども、己の感情を優先することが、まだわずかでも残されているかもしれないアテルイ生還の希望を吹き消すことであると、アシュレは判断していた。
そして、それをこの場にいるすべての人間が理解したのだ。
ただひとり、エレとともにこの場に駆けつけ、アシュレとアスカの逢瀬を目撃してしまったスノウ以外は。
なにがどうなっているのか。
混乱に次ぐ混乱に、判断能力を失い、ただただ、顔を覆い隠した両手の隙間からアシュレの剥き出しの上半身に目線をづけにされたしまったスノウである。
その頭上から、冷静な声が降ってきた。
「と、いうわけだ。我らはこの拠点を放棄し、戦場へと向かう。そなたは、どうするのか?」
ハッとなって顔を上げれば、そこにはすでにエレの手助けを得て着替えを終えたシオンが完全武装で立っていた。
「残るもよし。もし同道し、この國の真実を確かめるというのならそれもよし。ただし、強行軍は覚悟せよ。まさしく疾風怒濤の夜となろうから」
なにを言われたのかわからない。
そういう表情をしたスノウにシオンはそれ以上なにも言わなかった。
ただ展開させた影の包庫の奥から、数着の衣類を取りだすと、アスカと呼ばれた美姫にそれを手渡した。
「アスカ殿下の衣類だ」
「よくこんなものが、あったな」
「アテルイはこうなることを、なかば覚悟していたのだな。だから、己の荷物の半分を、殿下のそれと入れ替えておいたのだ。わたしも……ついさきほどまで気がつかなかったよ」
アスカは裸身のままなにひとつ恥じる様子もなく立ち、それを受け取った。
濡れた黒髪をエレがかいがいしく拭きとっている。
「エレ殿……そうなのか。アテルイはこうなることを知っていたのか?」
「仕掛けのお話をすればそうなりまする」
「なぜ、わたしに相談されなかった」
「イズマさまの判断でございます。兵法の書にもあるように」
「兵は詭道なり、か」
「はい。敵を欺くにはまず味方から」
エレの回答に、アスカは無言だった。
ただ、ブンッ、と音を立て再起動を果たした告死の鋏:アズライールだけが内心を表していた。
「そうでなければ──この策、アスカ殿下はご了承になられませんでしたでしょう?」
「無論」
「で、あれば、我が主:イズマガルムの慧眼というものでございます。なぜならば」
「なぜならば」
「この布陣こそ、現有戦力で考えられうる最強のものだからでございまする」
「一気に本陣を叩け、とそういうのか?」
「しかり」
「アテルイを見捨てて?」
「結果としてそれが、アテルイ殿を救う最善・最速の手段では?」
なるほど……アスカは深呼吸ひとつ、頷いた。
たしかにそうだ。
ギルギシュテン城にはユガディールはいなかった。
イリスも、本体という意味では。
そして、あのとき高空から見通した風景。
奇怪で不吉な──生皮を剥がれた世界の姿が脳裏に甦る。
「聞いての通りだ。アシュレダウ」
どう思うか。
瞳で問うアスカに、アシュレは一秒思案した。
それから答えた。
明瞭、明晰に。
「我々は、たったいまから、トラントリム首都攻略戦に移る。エレ、イズマたちに合図を。我らが狙いはただひとつ、オーバーロード:ユガディールの首級。そして、我が妻、アテルイと……イリスベルダの奪還だ」
奪還、というアシュレの宣言の締めくくり。
それを額面通り捉えたものはだれもいなかった。
そこに含まれた悲痛な決意を、全員が承知していたからだ。
我々の知るイリスを取り戻す──それはこうもいっているのと同じだった。
つまり、それが叶わぬときは。
我々が彼女を討つのだ、と。




