■第九〇夜:たったひとつを灯火として
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アスカは夢を見ている。
それは幼い頃暮らした、ハーレムでの夢だ。
女たちと肌の黒い宦官たちに囲まれてアスカは幼少期を過ごした。
アスカは皇子として振る舞わねばならなかったから、物心つくまでは、秘密は守られねばならなかったのだ。
限られた空間、とはいっても最大時は四〇〇〇人の美女たちを囲ったという後宮は広大な遊び場だった。
オズマヒムの代になって人員を大幅に削減したとはいっても、それでもまだ百人を超える美姫たちがそこには暮らしていた。
自由民として解放されることを自らの意志で拒んだ女たちである。
彼女らは皆、優れた美貌の持ち主であったが、その輝きと比してなお、母:ブリュンフロイデは美しかった。
母はいつもアスカに優しくしてくれた。
そして、ときに幼子相手ということで充分手加減してではあるが、己の持てる戦技を披露してくれた。
そんな母に、アスカは心底、憧れていたのだ。
「あなたは、あのヒトの──偉大なる我らが皇帝:オズマヒムのたったひとりの世継ぎなのだから。わたしに伝えられるすべてを授けたいの」
母との訓練はひたすらに楽しかった。
アスカにとってはそれは最高の娯楽だったからだ。
大好きな母に好きなだけじゃれついていい。
きゃあきゃあ、と叫び声をあげながら飛びついてくるちいさく華奢な生き物を、いくら清潔で粒子の細かい砂漠の砂を敷き詰めたグラウンドとはいえ、傷つけないように捌くのはブリュンフロイデにとってもよい訓練、そして、気晴らしであっただろう。
三歳ともなれば、アスカの興味は戦技訓練だけではなく、舞踊にも向いた。
アラムの男たちはあまり舞踊を嗜まない。
むしろ、それは奴隷女の遊芸と見なされていたからだ。
だから、最初、母はアスカのそれにあまりいい顔をしなかった。
だが、アスカにしてみればそれは聞き分けられないところだった。
舞う母は美しかった。
真騎士の乙女の衣装をまとい、槍を携えて戦勝祈願の祈りとともに捧げられる奉納舞。
その美しさに魅了されずにいろ、というほうが無理難題というものだ。
なにより、母のそれはアスカの肉体に訴えかけるのだ。
腰の裏側あたりが、ムズムズッと疼くような、心地よい衝動に駆られた。
それはアスカが受け継いだ真騎士の乙女としての本能、血統、そのものだった。
だから、ついには母も折れた。
皇子として身に着けるべき戦技訓練の一環だとして、アスカの要求を認めてくれた。
アスカのあの舞うような戦い方は母譲りなのだ。
そして、この青い瞳も。
その話をするとき、母はなぜかいつも悲しげに目を伏せたものだ。
アラム圏にあっては青い瞳は凶兆とされる。
おそらくそれは彼らにとって侵略者の象徴、あるいは人類圏を脅かす人外のそれであったのだろう。
「この瞳が──どうか、あなたの行くべき道を阻みませんように」
「わたしは母さまといっしょがいい!」
母の祈りの意味を、ハーレムの壁と皇子としての地位、そして、注がれる愛によって護られていたアスカには理解できなかった。
むしろ、その特別な青き瞳は、母と自分とだけが持ち得る特別な証としてしか感じられなかったのだ。
けれども、いまはすこし、ちがう。
あのとき、母が浮かべていた、どうしようもなく悲しげで申し訳なさ気な表情の意味が、わかってしまった。
もしかしたら、母にはわかっていたのかもしれない。
わたしが、父:オズマヒムとの子ではないことが。
不義どころではない。
人類とはとても呼べぬおぞましき正体不明の存在との混血種。
すなわち、身の毛もよだつ実験生物だということを、知っていたのかもしれない。
だから、あの日、罪の意識に耐えきれずわたしをおいて、自刃したのだろうと。
実験生物──あのとき、イリスによって告げられた恐るべき真実。
ぞっと、背筋が冷えた。
ガラガラと音を立て、それまで己が拠り所としてきたたったひとつの希望が打ち砕かれる音を聞いた。
どのような経緯を経たとしても、自分は父:オズマヒムと母:ブリュンフロイデの間に設けられた、愛の娘なのだという希望。
それだけがアスカをして、オズマドラの皇子として立たせていたのだ。
もしかしたらそれはアスカが否定したように、精神攻撃として、よりアスカの深部に侵入するための繰り言だったかもしれない。
けれども、イリスによる《救済》を偽装した一連の言葉は、確実にアスカの心を蝕んでしまった。
それは現実への帰還の否定となって現われる。
いやだ。
知りたくない。
ほんとうは、じぶんが、なにであるのかなどと。
いや、もしかしたら、それが事実であったとしても、母の愛を証立てるためだけに、それでもアスカは戦いに立ち戻れたかもしれなかった。
以前までなら。
恐かった。
この事実をあの男に──アシュレに知られてしまうのが。
アシュレとの関係を迫ったのはアスカからだ。
それも窮地にあるシオン救出をダシに使ってだ。
じつは、アスカは自分の恋慕をはっきりとアシュレに告げたことは、ない。
そのせいか、アシュレからも、同じくしてもらったことがない。
寝室で奔放に振る舞って見せるアスカの姿は、内心のおびえを糊塗するための、無意識のカモフラージュでもあったのだ。
だから、トラントリム攻略への進軍前夜、アテルイの見せた一本気で逃げ隠れしない愛の告白を、心底羨ましいと思ってしまったのだ。
そういう風にわたしもしたかった。
けれど、王者たろうという自分が、そんな弱みを見せてよいはずがない。
ないではないか。
それがいま、イリスと〈ログ・ソリタリ〉による精神攻撃に乗じて、襲いかかってきた。
暗闇で、身にまとうものはなにひとつなく、アスカは膝を抱えて身をこわばらせる。
いやだ、帰還したくない、とアスカのすべてが訴えていた。
だから、もし、それが起きなければここでアスカリヤという存在は、閉じてしまったかもしれなかった。
とつぜん、有無を言わせぬ強引さで、肉体を電流が貫いた。
混線し、閉じかけていた全身の導線に、強烈なパルスが流れ込んだ。
一瞬、意識が真白にトぶ。
なんだ、これは、と問う間もない。
二度、三度、下腹をから背骨を経由して頭頂まで駆け抜ける衝撃が、強制的な覚醒を強いてくる。
それはいまのアスカにとって、拒絶すべき感覚だったはずだ。
理屈で言うのならば、だ。
だが、そうではなかった。
肉体が、心が、感情が起こした反応は、その真逆だった。
流し込まれる《スピンドル》の薫りですぐにわかった。
それは鋼の匂いだ。
それも赫々と熾きた炭によって白熱するまで熱された。
アスカはそれを嗅ぐたび、正気を失うような歓喜を感じるのだ。
どんなものにも姿を変え得る強靭で、虚飾のない、存在を知覚して。
還ってこい、と誰かが訴えかけるのだ。
それは言葉で、ではない。
全身で。
全霊で。
己の《スピンドル》に賭けて。
ボロボロボロ、と凍え強ばっていたはずの涙腺から熱い涙がとめどなく零れ落ちるのを止められなくなっていた。
もう触れてさえもらえないと思っていた。
資格を喪失したのだと思っていた。
愛してはもらえないと、だから、帰還したくないと──思い詰めたのに。
オマエは、バカか!
どうして、いつもそう、一足飛びに現実とかいう壁をブチ破って行動に出るんだ!
怒鳴りつけてやらないと、気が済まない。
オマエことが、わたしは大好きなんだぞ、と。
オマエと生涯を添い遂げたいのだぞ、と。
後悔させてやるのだ。
わたしに、そこまで決意させたことを。
もう、わたしがだれであるかなど、関係あるものか。
わたしが、なにものであるかなどと、関係あるものか。
アスカはそうして、覚醒する。
アシュレダウ──心から愛した男の名前を叫びながら。




