■第八一夜:たとえ地獄の道行きだとしても
ごうおう、と空を裂いて光輝を放つ巨大な指がアスカをめがけ落ちてくる。
“接続子”を介した侵入を諦めた〈ログ・ソリタリ〉は、直接的な物理接続を試みようとしている。
動作はゆっくりに見えるが、それは〈ログ・ソリタリ〉が桁外れに巨大なだけで、錯覚に過ぎない。
そして——《救済》の光に抗って立つアスカを光の指が牢獄の格子めいて捕らえる直前、だった。
舞い落ちてくる光の粒子を切り裂いて、翼がアスカをかっさらった。
たぶん、時間差にして一秒もなかっただろう。
輝ける翼たちに護られた屍騎士:ラッテガルトが、その槍:スヴェンニールと盾とを掲げ、アスカを救出すべく舞い降りたのだ。
強力な突撃系の異能:星墜の光槍は、ラッテガルトが生前得意とした技だ。
その超加速能力を使い、〈ログ・ソリタリ〉の感知範囲外から、また相手の反応速度を大幅に上回りまさしく光の槍となってラッテガルトは駆けつけてくれたのだ。
それでも〈ログ・ソリタリ〉が展開する指を突き抜けるとき、正確には死者であるラッテガルトの肉体を光が打ち据える。
周囲を護る輝ける翼たちが次々に消滅し、破片となって砕け散る。
ガラス細工を一度に百個も叩き割ったかのような音が周囲で鳴り響く。
アスカはそのすべてから自分を護り抱き続けてくれるラッテガルトの顔を、見た。
実際のところ、あの場から自力で脱出することは限りなく難しかった。
叩きつけられるような《救済のちから》は、実際の重圧となって、アスカの手足を縛りつけていたのだ。
光の牢獄から突き抜けるまでの二秒が、無限のように感じられた。
とたんに、ガクガクと身体に震えが走る。
「よく……頑張ったな。すばらしい啖呵だった」
あの淡々とした口調で賛辞が降ってきて、思わずアスカは涙してしまう。
見上げるラッテガルトの肉体は、《救済》の光に焼かれ、正視に堪えぬありさまだったからだ。
命を賭けてくれたヒトに己の言動を褒められる。
その意味を、アスカはよく知っていたのだ。
こんどは、わたしがこのヒトを助ける番だ。
アスカは思う。
いっぽう〈ログ・ソリタリ〉は城砦上のニンゲンたちにからは興味を失ったかのように、アスカとラッテガルトを追い、ふたたび体躯を伸ばして屹立しようとしていた。
遥か下方で、自由を取り戻したティムールとナジフ老が城砦からの撤退を開始するのが見える。
それで良い、とアスカは思う。
己を神だと思い込んでいるこの不遜なバケモノを叩きのめすには、強力な異能をぶちかます他ない。
その効果範囲内に、彼らがいたのでは技の振るいようがないからだ。
そして、アスカには〈ログ・ソリタリ〉の挙動を見ていて気がついたことがあった。
それは〈ログ・ソリタリ〉がなにに反応しているのか、についてだ。
明らかにアスカやラッテガルトに吸い寄せられるようにして、コイツは動きを変えた。
その理由。
それは《意志》だ。
《意志》の輝きだ。
このバケモノは、その輝きにまるでランプの明かりに誘われる蛾のように引き寄せられ、追尾してきているのだ。
きっとこいつらの目には《意志》を持ち続ける者たちは、最優先で《救済》すべき業病に苦しむ患者に視えているのだろう。
アスカは腹の底にマグマのような熱を伴った怒りが湧いてくるのを感じた。
それは気高い怒りだ。
そして、その熱が望まぬ《救済》に脅かされた肉体の強張りを、霜を溶かすようにして払拭してくれた。
「神さま気取りのガラクタめ——オモチャ箱に叩き返してやる!」
そう言うアスカに、ラッテガルトが苦笑した。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ、と〈ログ・ソリタリ〉が咆哮したのは、そのときだった。
※
ノーマンは駆けている。
いまだ残雪の残る森を疾駆している。
融解と氷結を繰り返しシャーベット状になったそれも、ノーマンの行き足を阻害はできない。
疾風の速度を与えてくれる《ムーブメント・オブ・スイフトネス》の加護がノーマンを支えてくれている。
そして、大地が鳴動している。
真夜中であるにも関わらず、天には光がある。
ひとつは地獄の業火を思わせる火柱。
もうひとつは——畏怖を喚起させる清浄なる光。
それは黙示録にある、世界の終わりを思わせた。
なにかが、とてつもなく大きな出来事が起きている。
闘争が、そして、世界をひっくり返してしまうほどのなにかが。
駆けながらノーマンは思う。
「行って……ください」
苦しい息の下、しかしきっぱりと、トラーオはノーマンに言ってのけた。
フィブル河を遡上する選択は、苦渋の決断だった。
エスペラルゴ皇帝:メルセナリオとその一党を追いトゥーランドッド河の岸辺を進むノーマンたちの旅路はまさに地獄を巡るがごとき道のりであった。
村々が、街が、城砦が——そのことごとくが破壊され、略奪され、容赦ない殺戮によって燃え上がっていた。
メナスたち一行はその侵攻ルートに存在するあらゆる拠点を徹底的に破壊殲滅しながら移動していたのだ。
たしかに、後方に拠点を残しての侵攻は挟撃の危険性が高い。
だが、だからといって——そこに暮らすすべての民草までをも手にかけてよいものか。
強大な戦闘能力を誇る《スピンドル能力者》たちが戦列を組み、容赦というものを捨てたとき、いったいどのような結果が待つのか。
その答えをまざまざと見せつけられるがごときありさまが、そこには広がっていたのだ。
これを果たして戦争と呼んでいいのか。
常在戦場を自認するノーマンをして思わず煩悶させるほどの、それは徹底的な破滅の風景だったのである。
切り捌かれ、臓物をぶちまける死体があった。
上半身と下半身が離れ離れになり、もはや欠けたものを見出せぬ死体があった。
吹き飛ばされた城壁に押しつぶされて圧死した死体があった。
いったいなにが起きたのか、味方同士で刺し貫き合う死体があった。
串刺しにされた焼死体は、ことによると夜魔の騎士のものであったかもしれない。
暴威——そんな単語がノーマンの脳裏を過った。
おそらくいずこかの時点で騎馬を調達したのであろうメルセナリオたちの行動は迅速で、ノーマンは着実に距離が開けられていくの感じていた。
こちらは徒歩の上に、重傷者を抱えているのだ。
いや、これを重傷と表現して良いものかどうか。
トラーオの症状は小康状態を保っていた。
なんとか自力で歩けるほどには回復してもいた。
だが、それが完治という言葉とはほど遠い状態であることは一目瞭然だった。
穴だ。
暗くてどこへと通じているのかわからぬ深い穴が、トラーオの肉体には穿たれていたのである。
傷口の周りは白く珪化したかのように異物によって再構成されてしまっている。
「そいつは向こう——“庭園”と通ずる穴だぜ」
と、トラーオの胸に銃弾を叩き込んだ張本人にしてエスペラルゴ皇帝:メルセナリオ——メナスならばそう答えただろう。
だが、事情を知らぬノーマンには、己の持てるすべての《ちから》でもって封をするのが精一杯だった。
だから、ノーマンにはわかるのだ。
いまの、この状態は、いまにも血が噴き出しそうな傷口の上にむりやり皮一枚を貼り付けただけに過ぎないのだと。
そして、破壊された城砦の状況を偵察に来たトラントリム国防軍と遭遇しかけた。
ちょうど、暗渠から地上の河へとフィブル河が姿を取り戻し、トゥーランドット河と合流するあたりでのことだ。
メナスたちの侵攻が引き起こした反応は、しかし、当のメナスたちではなくノーマンたちを窮地に陥れた。
いくらインクルード・ビーストを含むとはいえ、十数人の戦隊など、万全の状況であればあっという間に平らげて見せるノーマンである。
だが、いまノーマンはトラーオの治療と、ここまでの強行軍に疲弊していた。
そして、トラーオに負担を強いれば——こんどこそその傷口から吹き出してくる《ねがい》の奔流に、彼は飲まれ存在を失ってしまうであろう。
侵略者の存在を知り、傷を負った肉体が抗体反応を起こすようにトラントリム国防軍は数を増した。
多くは恐慌に駆られた揚げ句、夜魔化を望んだ民衆なのだが——ノーマンたちはまだその事実を知らない。
だが、その脅威に押されるようにして、ノーマンたちは別ルートを辿る以外の術を失ったのである。
増大する敵勢力を迂回し、首都への侵攻路を見出す。
言葉の上ではノーマンはそう言ったが、それは敗走、と呼ぶべき選択であることもまた充分に心得ていた。
冷酷な司令官であれば、トラーオをその場でくびり殺すほどのことはしてのけたであろう。
そして、国境線の突破に全力を傾ければ——すくなくともトラントリムからの脱出だけは可能であったかもしれない。
いや、冷静に考えれば浄滅の焔爪:アーマーンを帯びるノーマンにとって、それこそがもっとも確実であり、取りうるべき唯一の選択肢であったはずだ。
しかし、ノーマンはそれを是としなかった。
全員で戦い、全員で生還する。
そう言ってノーマンは打ちひしがれるトラーオを焚きつけた。
であるならば、その旗を掲げた自分が折れるわけにはいかない。
といっても、状況は絶望的だ。
過酷な判断を迫られたとき——それは起こったのだ。
地鳴り、そして、実際の揺れ、それから高々と吹き上がる焔の柱。
「あれは——のたくる地獄」
まさか、とノーマンは肌を切り裂くような夜気のなかで思わずつぶやいていた。
知っていた、この技を。
視たことがあった。
それはたった一度きりだったが、忘れようのない出会いとともにだ。
「イズマガルム——貴君か」
それは地獄の火炎だったが、ノーマンには閉ざされかけた希望へいたる活路を照らす灯火に見えたのだ。




