■第七九夜:たとえ世界が敵だとしても
叩きつけられる強い風をムーブメント・オブ・スイフトネスの加護が切り裂いて行く。
低い雲を突き抜けて落下するアスカたちに応じるように、純白の存在、その巨躯が身じろぎした。
「此奴——これは、まさか《フォーカス》:〈ログ・ソリタリ〉か!」
アスカの叫びは果たして、ナジフ老やティムールに届いたか。
しかし、仮に届いていたとしても、その意味するところまでを正しくは理解できなかったであろう。
なにしろ、今回のトラントリム攻略戦参加者のなかで、正確な意味でこの巨大な《フォーカス》の姿と対峙したことのある人間は、わずかに三名。
ユガディールとともにトラントリム首都:トランヴェールの地下でその姿を目のあたりしたアシュレとシオンをのぞけば、アスカだけが姿を知っていた。
それを神器と呼んでよいものかどうか。
アスカの答えは、断じて否、である。
あれは《フォーカス》ですらない。
なぜならアスカもまた、あの廃虚と化した闘技場で、ユガディールに対し一騎打ちを挑んだアシュレとともに聞いたからだ。
声を——〈ログ・ソリタリ〉の。
いや、あれは、〈ログ・ソリタリ〉という存在自体の声ではない。
あれはなんらしかの方法で集められ、〈ログ・ソリタリ〉という存在を動かし、声帯ではないなにかを震わせて声のカタチにされた《ねがい》の集約なのだ。
装置としての〈ログ・ソリタリ〉はそれを増幅し、《意志》を擬態しているにすぎない。
かつてアシュレとともにファルーシュ海で廃神:フラーマと刃を交えたアスカだからわかるのだ。
あのとき、アシュレと出逢うまでの数日、漂流寺院に漂着したオズマドラの戦士たちは、ひとり、またひとり、とフラーマの落とし仔たちの呼び声に船べりを、足場を離れて、いつしかその下僕に成り果てた。
そして、その最終局面で、アスカは哀れな女神:フラーマがいかにして、邪神へと堕ちたのか、そのプロセスを追体験した。
思えば、フラーマもまた接続・融合という身の毛もよだつ方法ではあったが——救済を叫んでいたではないか。
人々をひたすらに救おうとした娘は、いつしか「彼女に救って欲しい」という人々の《ねがい》にむさぼられ、虚ろな器として、己の《意志》とは無関係に、彼らの信じる救済の走狗と成り果てた。
だが、だとしたら、彼女に《ねがい》を流し込んだものは——いったいなんだ?
そして、それはどこにある?
アスカはいま、消し飛ぶように過ぎていく景色とは反対に、急速にその巨躯を接近させてくる〈ログ・ソリタリ〉と相対し、答えを見出していた。
そうか、これか、と。
コイツらか、と。
この世界——ワールズエンデ各地に眠る巨大な装置群——《フォーカス》に擬態された《偽神》たち。
それこそが、人々の代表として立った英雄たちに《ねがい》を収束させ、オーバーロードにしてしまうのだ、と。
そして、アスカの直感は、正しい。
いまアスカたちを認めて立ち上がる存在こそ、《ねがい》を充塡され、自律性を取り戻しつつあった救済のための《偽神群》。すなわち——《御方》のその一柱である。
もちろん、その詳細までをアスカは知らない。
だが、この攻略戦に臨む直前、アシュレはほかならぬユガディール本人から託されたという分厚い手記をつまびらかにしながら語ってくれた。
「ボクのなかに遍在する微細な因子:“接続子”は、ボクたちが意識する、せざるの別なく常に理想郷の似姿:“庭園”と接続しているのではないか、とユガは言うんだ。そして、そこにボクらの《ねがい》を、ずっと集積し続けているのではないか、とも」
そして、そうやって集められた《ねがい》を《ちから》に変換して、現実に影響させるための装置群こそ——世界各地に眠る巨大な《フォーカス》……いいや、いままで“門”と呼ばれてきた存在なんじゃないか。
そう語るときのアシュレの声は老成した大人のように静かで、語られた内容の難しさにアスカはすぐさますべてを理解できたわけではなくとも、それが真実に限りなく近づいていく推察なのだと感じたのだ。
この世界に重なる目には見えないが存在する、しかし、仮想の理想郷:“庭園”。
そこへと、人々の《ねがい》を集積して蓄える微細な因子:“接続子”
そして、その《ねがい》を《ちから》に変換し、実際に《皆》の信じる《救済》を行う装置群——。
ぞっと、背筋が落下がもたらすそれとは別の怯えに冷えた。
みしりぺきり、と恐怖に心臓が凍りつく音がする。
なにしろいま自分が相対しようとしてきたのは、この世界のほとんどすべての人間が、無意識にもなかったことにしようとし続けてきた、ほんとうの暗部なのだ。
アスカはアシュレと初めて出逢ったときのことを思い出す。
洋上の漂流寺院で世界から葬られた神話を告げたときのことを。
あの日の、どこか頼りなげだった少年がいまや、圧倒的な確信を持って、世界の深淵に秘されてきた秘密を語ってくれた。
とんでもない男に惚れてしまったものだ、とアスカは戦慄し、それ以上にはるかに誇らしい気持ちになった。
ともに来い、と告げたはずのアスカの方がいつのまにか、振り回されてしまっている。
この世はまるで《閉鎖回廊》のようではないか、というアスカの嘆きを超えて、この男は行こうとしている。
そうであるなら——同じく隣りに並び立つと決めた自分が、こんなところですくんでしまっていて良いはずが、ない。
そう想うと凍えかけた胸の内に、蒼く気高い焔が灯るのがわかった。
しっかりと目を見開けば、あわやアスカたちを捉えようとする〈ログ・ソリタリ〉の翼めいた触腕と、風の道が見えた。
「よいか! しっかり掴まっておれよッ!!」
聞こえたかどうかはわからない。
しかし、アスカは叫ぶが早いか、両脇にティムールとナジフ老を抱きかかえると、鋭い呼気ひとつ、そのまま肉体を捻転させ、絶技を放った。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!! 虚心断空衝ッ!!!」
アスカの呼気に似た作動音とともにその両脚を成す《フォーカス》:〈アズライール〉が展開し、恐るべき死の顎門としての正体を明らかにする。
以前の対決で、アスカはアシュレの攻撃とこれを合わせることで、対なる《フォーカス》である〈ログ・ソリタリ〉の片割れを部分的に破壊した。
そして、その経験から、この一撃単体では〈ログ・ソリタリ〉に対し、有効なダメージを与えられないことも。
だが、それでよかった。
狙ったのは〈ログ・ソリタリ〉そのものではない。
捕らえようとしていた獲物が手元で突然、予想もつかない急加速を行ったとしたら——いったいどうなるか?
それはいかに《御方》の一柱とはいえど、反応不可能な行動であった。
迫る敵の魔手から、アスカは身を捻り翻して逃れようとはしなかった。
逆に、敵の懐へと考えられないほどの加速をして飛び込むことで、それを躱したのだ。
雷雲を突き受けるような衝撃と轟音が、己の耳朶を震わせ、真っ白な雷光が網膜を焼くのをティムールとナジフ老は感じていた。
そして、同時に、アスカが獰猛にも、この世のものとは思えぬほど美しく微笑んでいるのを。
暗黒の属性を帯びた一撃はまさしく巨大な矢となり、崩れかけた城塞に突き立った。
〈ログ・ソリタリ〉が広げた触腕の包囲網を、突破したのである。
「殿下ァッ!!」
崩落寸前の屋上でティムールが叫んだ。
己を見捨てていればこれほどの危険を冒さずに済んだであろうという自責と、そうであるのにもかかわらず、一瞬もためらわず飛び込んできてくれたアスカへの感謝、そして、そうであるのならば、必ず彼女を守り抜かねばならぬという忠義が起こさせた叫びだった。
転がりながら受け身をとれば、同じようにして着地したナジフ老が両手に獲物である三日月刀を両手に引き抜き抜き構えるのが見えた。
ティムールも左手に三日月刀、右手に棘鞭を構える。
棘鞭とは丈夫な革を編み上げこしらえた鞭の内部に鋼鉄製の棘を仕込んだアラム辺境地域の武器である。
達人ともなればその先端が亜音速に達するとまで言われる鞭の先端に、鋭い棘と充分な質量を備えた鋼片が仕込まれていたら——それがどのような破壊力を獲得するかは説明するまでもない。
間合いを詰められた場合の弱点こそあれ、不用意にその攻撃圏内に足を踏み入れれば、例え板金鎧に身を包んでいようとも無事では済まされない。
そして、いまティムールが扱う棘鞭は《フォーカス》でもあった。
あまりの出来事に、大混乱に陥り、降下したアスカたちに対して反応すらできずにいた守備兵たちの頭部が立て続けに弾け飛んだ。
ティムールが得物を一閃させたのである。
技を使うまでもない。
もちろん、ティムールにだってわかっていたのだ。
事態はすでにこのような小手先の露払いによって変えられるような戦局ではないことを。
だから、むしろ、これは慈悲であった。
にげろ、と。
トラントリムの兵たちよ、と。
なぜなら——次の瞬間、彼らの頭上に〈ログ・ソリタリ〉が覆いかぶさってきたのだから。




