■第四十一夜:問いかけは海の底より
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獅子の咆哮にも似た音を立て、ノーマンの両腕、浄滅の焔爪:〈アーマーン〉が展開した。
通常はガントレットを模した義手の姿をしているこの《フォーカス》は、《スピンドルエネルギー》を伝導させることで、瞬間的に変形、その際、質量を増大させる。
伝導されたエネルギーを質量変換しているのだ。
むろん、使い手に増大分の負担を強いることはない。
人間が自分の手足を負担だと感じないように。
いや、むしろいっそう鋭敏に肉体を働かせる。
その原理までは不明だが、器物であるはずの〈アーマーン〉それ自体が使用者を補佐するのだ。
いっせいに飛び立つ海鳥の羽ばたきを思わせて、展開した黄金のツメの間を、黒い破滅の雷電が渡っていく。
刹那の、そして、無言の一瞬だった。
敵を認識し、無謀にも踏み出しかけたトラーオを、ノーマンから噴出した闘気が圧力となって押しとどめた。
それはイリスとユガディールの闘いで体験した物理的圧力とは違う。
けれども、それは同じか、それ以上の《ちから》でトラーオを後退らせた。
それは生物の本能に訴えかける危機感、生命の危機を感じとる部分に強く作用する《ちから》であった。
端的に言えば、理性が判断するより早く、肉体が「ここに留まってはいけない」「ここより先に踏み込んだなら、確実な死が待っている」と察知したのである。
死線、とそれは戦士たちの言葉では表現される。
たたらを踏んだトラーオを、背後からバートンが抱き留め、そのまま離れるよう誘導した。
トラーオは恥じただろうが、その死線を感じ取れるか否かで、すでに戦士としての資質は決まっているのである。
このセンスの欠如者は狂戦士にはなれても、優秀な戦士や騎士にはなれない。
生還する者たちの足元で屍をさらすのみ、だ。
その点で、すでにトラーオは騎士としての片鱗、資質を充分に示していたのだ。
だが、ノーマンが最大戦闘能力を行使するには、その攻撃圏内にトラーオがいてはいけない。
なにより、相手はエクストラム法王庁が誇る最強の一角、聖騎士であり、天才と称され、“聖泉の使徒”の異名を馳せるジゼルテレジアなのである。
しかも、その彼女がいま腕に抱くのは、神がこの世の不浄を洗い流し清めるべく起こした大洪水の際、天界より神罰の雨を降らせ、地に開けた穴から世界を沈めた大瀑布を呼び出したとされる神器:〈ハールート〉なのである。
その威力を、ノーマンとバートンは、朦朧とした意識のなかではあったが、体験している。
拠点攻撃用の異能に比肩する超水圧攻撃を、個人が、しかも瞬間的に行使できる。
その《ちから》は、おそらく先だってテラメリオ号を破砕し、沈没させた〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉のそれに匹敵する。
あちらが嵐の化身であるのならば、彼女はひとの姿を取った大瀑布、そのものといえるだろう。
誰何の声をかけるような暇、すなわち隙を、ノーマンは見せるほど未熟ではなかった。
もし、ジゼルが攻撃の意志を見せたなら、その瞬間に海面を走り抜け、ぶつけられる水塊や、足を取ろうとする水流を消し去って、彼女を討ち果たす覚悟だった。
あのカテル島深奥での戦い。
月下騎士にして残月大隊の首領であったヴァイツとの死闘で瀕死の重傷を負ったノーマンは、ジゼルとの初戦では、立っていることさえできなかった。
しかし、薄れゆく意識のなかで、彼女の戦闘スタイルにある弱点を掴んでいた。
これこそが騎士、それも常在戦場を生きる者の才能なのである。
ひとたび斬り結べば、相手の技量、力量を見抜き、学習し、手を打ってくる。
熟練の戦士が恐ろしく、また、熟達した使い手に対し戦士たちが情けをかけないのは、次にあいまみえたとき、相手に己の手のうちを知られていることの不利を、身に染みて知っているからだ。
敵は必ず殺せ、とはなにも残虐さだけから、もたらされた戦場のルールではない。
半端な情け心が、いつの日か、自分の寝首を掻く刃に変じることを、彼らは知り抜いていたのである。
だから、血みどろの戦場にあって「こんどこそ」などという言葉は、あまりに無意味だ。
リトライなど、ない。
引き際を心得る司令官が、なぜ尊敬されるのか、わかるであろう。
それなのに、ジゼルはノーマンを殺し損ねた。
むこうの手のうちをノーマンは知っており、ノーマンの手札を、ジゼルは知らない。
カキン、とロックの音が背後でした。
バートンが太矢を、ライトクロスボウにつがえたのだ。
どれほど超絶な異能者であっても、人間である以上、ただの鋼であっても傷は負う。
ましてや、現在のジゼルは裸身であり、その身を覆うのは豪奢ではあっても、防御力など期待する方がおかしい頭髪のみ。
ノーマンが間合いを詰める一瞬を稼ぐのに、その一射は限りない助けになるであろうことは明白だった。
そして、ノーマンの見抜いたジゼルの弱点とは、その超水圧をぶつけるためには、水柱を加速させねばならず、そのためには距離が必要なことだった。
ぶつける質量が巨大であればあるほど、加速させるのにはエネルギーと時間が、つまり移動距離が必要となる。
ひとたび加速度を得られれば無敵の超攻撃能力も、瞬間的な立ち合いには向いていないのだ。
対して、ノーマンの持つ浄滅の焔爪:〈アーマーン〉の《ちから》は、瞬間的に振うことができる。
近接を仕掛ける段階で、迎撃してきた水塊を消し去れば、もはや次なる攻撃を準備し、それを加速しているヒマはない。
そうノーマンは踏んだ。
いや、相手も、修羅場を潜り抜けてきた聖騎士である。
それも、“聖泉の使徒”と謳われるほどの。
当然のようにその弱点には対策を立てているだろう。
しかし、仮に相手を窒息させるような技であろうとも、ノーマンが溺死するのと、〈アーマーン〉がその柔肌を消し去るのとでは、必要とされる時間が違う。
勝機はある、とノーマンは踏んだのだ。
だが、そのためには、あといますこし、間合いを詰めなければならない。
むこうが、あと数メテルで良い、近くへ寄ってこなければ、必殺の間合いとはいえない。
海上と砂浜での睨み合いは、おそらく数秒だったはずだ。
けれども、ライトクロスボウを構えるバートンの背中に庇われながら短剣を引き抜いたトラーオには、それは永劫に等しく感じられた。
無意識に肉体が震え、鳥肌が立つ。
これが、極限まで高められた《スピンドル能力者》同士の戦い、その前奏曲なのだと気がつくのは、あとになってからだ。
だが、諍いは起こらなかった。
すっ、とジゼルが間合いを外したのだ。
どういうことだ、ノーマンがいぶかしむ。
「そういきり立たないでもらいたいものです、ハーヴェイ卿。わたしは、あなたたちに、耳寄りな情報をお土産にもってきたのに」
慌てるなんとかは、もらいがすくない、って言葉をしらないのですか? 痛痒を感じさせない淡々とした口調でジゼルは言うが、そのなんとかとは「乞食」のことである。
しれっとジゼルはノーマンたちを皮肉ったのだ。
たしかに帆布のマントをまとい、ありあわせの衣類で暖を取る三人の姿は、そう見えたかも知れない。
もちろん、朴念仁であるところのノーマンは、委細無視だ。
「耳寄りな、情報、だと?」
むしろ、相手から会話を仕掛けてきたことを好機と捕らえていた。
それはバートンも同じである。
言葉を交わす、というものは集中力を要するものだ。
うわのそらのそれならば、どうとでもなるが、この局面で無駄話はありえない。
そして、わざわざ危険を犯してジゼルが姿を見せたということは、これから語る内容には、ノーマンたちの胸中を揺るがす、なにかがあるはずだった。
そうでなければ、おかしい。
もっとも、ここに“聖泉の使徒”:ジゼルが現われたということは、ノーマンたちの行動をエクストラム法王庁が把握している、ということでもある。
それだけでもすでに、震撼すべきことがらではあるが、そのような動揺を見せるノーマンではない。
いや、もしかしたら、ほんとうに「それがどうした」と思っているかもしれず、たしかにそういう節もある。
肝が据わっているというべきか、あきれるべきか、とにかく、動じない男なのである。
だが、こういう局面にあって、その胆力は信頼に足る武器だった。
「たとえば、どうして、あのオーバーロード:ユガディールが、この場所と聖母……いやだ、この呼び方。淫婦のイリスの居場所を突き止めえたのか、について。とか?」
油断なく身構えながら、ノーマンが半歩、間合いを譲った。
続けろ、という意味だ。
「なかなか興味深いでしょう?」
「オマエッ、観ていたのかッ! それに、イリス様を淫婦だなどとッ! キサマこそ、娼婦のごとき格好ではないか!」
微笑むジゼルに食ってかかったのはトラーオだった。
だれも諌めない。
トラーオの反論は青かったが、心中は皆同じだったし、相手の注意を逸らす効果が怒声にはある。
そのぶん、ノーマンとバートンから意識が離れる。
強大だがひとりの敵を相手取ったとき、頭数で上回っている場合の利点のひとつだ。
だが、ジゼルは小揺るぎもしない。
「あら、観ていた、だなんて。ちがいます。観たんです、この海が映していた光景を。そう、ちょっとだけ時間を巻き戻してね。それに娼婦だなんて、心外な──こんなに美しい娼婦がいるものか、女を知らぬ小僧がッ!」
その美貌のどこから、これほど獰悪な言葉が飛び出すのか。
穏やかな口調から一転、切りつけてくるようなせせら笑いとともに、ジゼルが言い放った。
ぐっ、とトラーオが言葉に詰まる。
ひとつはその口調に。
もうひとつは「時間を遡って事象をかいま見ることを可能とするジゼルの異能」に、恐怖を覚えて。
口の中に石を放り込まれたように言葉を失ったトラーオ相手に、ジゼルはまた微笑む。
それから言う。
「あら、ごめんあそばせ。わたしとしたことが、なんてはしたない。神の使徒にあるまじき、汚い言葉づかいでしたね。懺悔いたします。おゆるしください」
でも、なぜかしら、汚い言葉って、使うと胸がスッとするのよね。
まったく悪びれた様子もなく、ジゼルは続けた。
「懺悔ついでに告白しますが、もちろん、知っていますよ、坊や。あなたが、あの淫婦の胸に顔を埋めてなにをしていたのか、とかもね」
トラーオは己の頬が紅潮し、みるみる頭に血が上っていくのを感じた。
そっとバートンが手で制止していなかったら、飛び出していってしまっただろう。
あの聖なる給餌の話だけは、さすがに男同士でもできなかったのだ。
「あらあら、かわいらしいこと。わたし、男のコはあなたみたいな少年か、枯れたくらいがイチバン好き。逆に中年って、どーしてああギラギラしてるのかしら。ふしぎ。ハーヴェイ卿もそうだし、エスペラルゴの皇帝さんも、苦手なタイプ。ああ、ビブロンズの皇帝、ルカティウスは好みだわ。ああいうのがいいわよね、男のコは」
新芽のうちか、枯れてから──まるで食材でも吟味するような口ぶりで言う。
それはエクストラム法王庁の聖騎士としては、あってはならぬ言葉づかいと内容だったが、ジゼルという存在の異質さを語るには、なによりも雄弁だった。
つまり、狂気、という。
ノーマンはジゼルテレジアとの面識は、あの死闘でのみだ。
人格に触れたということは、ほぼなく、言葉を交わすのは、今回がはじめてと言ってよい。
だから、そのひととなりの情報は、会見を果たしたカテル騎士団団長:ザベルザフトの言によるものだけである。
なにか、魔物めいたものを潜ませている、というのがザベルの評ではあったが、これほどの性格破綻者ではない、とノーマンは感じていた。
そして、実際に、そうであっただろう。
そうであったはずだ。
すくなくとも、日常生活を法王庁内部でおくることができるほどには、常識をわきまえていたはずだ。
そもそも、どれほど能力的に優れていても、聖騎士の選考試験には、素行に関する厳しい関門が待ち受けている。
即決裁判権を有し、罪人に対しては、すぐさま刑を執行できる聖騎士たちは、法王直下の戦闘集団である。
それぞれの部署に割り振られていても、いざとなれば、あらゆる制約を無視し、三名以上の決定であれば、枢機卿すら裁判を経ずに断罪できる強大な権限を聖騎士たちは、持っているのだ。
それが法王直下、という意味である。
だからこそ、その性格、人格に関する選定は、なによりも厳しかった。
個人として特殊な嗜好を持ってはいても、公私を切り分け、公人として、聖騎士としての厳格な規律を遵守する精神の持ち主でなければ、書類審査の段階で弾かれる。
いわば人格、人品を問われるわけで、聖騎士選考試験が超難関といわれるのは、《スピンドル能力者》であることなどの厳しい前提条件に加え、戦技を始めとする技術への習熟だけでなく、この部分に寄るところが大きかった。
けれども、だ。
いま、眼前で微笑み、罪への許しを乞うたその口で、トラーオを罵倒するジゼルの振舞いは、あきらかな逸脱を感じさせた。
そう、いまジゼルと対峙する三人は知るよしもない。
廃兵院に収監されたはずの彼女が、どうやってそこから帰還したのかを。
廃人となったはずの彼女を、いったいいかなる御業でもって、戦列に復帰させたのか、をだ。
そして、それを可能にしたのが、だれか、という問いにいたっては、なお。
「ええと、なんのはなしをしていたのでしたっけ? 乳離れできない坊やのことでは、なかったはずなんだけど?」
「どうして、ユガディールがイリスさまの居場所を特定できたのか、だ」
顔を真っ赤にして怒るトラーオのかわりに、ノーマンが問い質す。
ああ、とジゼルはあごに指を当てて、小首をかしげた。
無邪気な少女が、話題を思い出したかのような仕草。
「それは簡単なことですよ、ハーヴェイ卿。端的にいえば、アナタたちは図られていたの」
「だれに? 貴様の推測を言ってみろ。話だけはきいてやる」
注意深く情報を値踏みしながら、ノーマンが促す。
ゆっくりと。
こういうとき、急いて、相手に主導権を握られるような下手を打ってはいけない。
「あらら、わたしの持ってきた情報は、そんなに精度の低いものじゃないんですけど。と、いうか、気がつけよ。わたしの能力で、さっき、坊やの痴態を暴いたじゃない。どーしてわからないのかしら。ほんとふしぎ」
罪のなんたるかを知らない童女が、悪気なく相手を傷つけるように、ジゼルは言った。
「まーいいんですけど、信じようと信じまいと。ほんとうのことだとは、言っておくけれども、癪だから。でも、この話は、ちょっと頭を捻ったらわかると思うんだけどなー、ハーヴェイ卿。だって、あなたたちの正体と目的を知っている人間が、どれだけいると思っているの? そして、この状況を仕込めたのは、だれ? 該当者はそう多くはないはずよ?」
魔女め、とノーマンは内心、舌打ちした。
ジゼルの言葉には毒があり、その瞳には魔性がある。
こうやって言葉を操り、ひとの心に疑念と不和をふりまくのは、悪魔のもっとも得意とするところだ。
そして、ジゼルのそれが恐ろしいのは、たしかに、その指摘は的を射ていたのである。




