■第三十四夜:常在戦場
※
「ハーヴェイ卿ッ!!」
トラーオは思わずノーマンの名を叫んでいた。
突如としてテメラリオ号を襲った嵐、その正体は大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉であった。
それまで凍てつくように冷えるとはいえ、波小さく静かだった海面が、突如として荒れ狂い、優に二階建ての人家を越えるほどの高波となって襲いかかってきた。
そして、漆黒の闇夜に走る雷光が浮かび上がらせた〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の姿を、トラーオは最初、竜巻だと誤認した。
それほどにその姿は強大にして巨大であり、本能的な恐怖にトラーオは打ちのめされた。
二度目の雷光がひるがえり、それが竜巻などではなく、ありえないほどの巨躯を持つ大海蛇、すなわち、地震と津波と嵐とを司り、七つの海のそれぞれに潜むという畏怖すべき存在、その一柱であることを知って全身の血が凍りついたように動けなくなった。
こんなにも、これほどにも強大なものに、どうやってヒトが打ち勝てるというのか。
できるわけがない。
できるはずがない。
そう諦念した。
それは、きっとほとんどの人間が怒れる〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉に遭遇したとき抱く感慨、感情なのだ。
だが、その絶望的、圧倒的な諦念・観念に、抗うものがあった。
岩棚のごとき質量を備える胸板が。
くっきりと血管の浮き出た首筋が、節くれた丸太のような肩が。
叩きつけてくる風を真正面から受け止めてなお、小揺るぎもせずにそこにあった。
鍛え上げられた上半身を覆うものはなにひとつなく、その肉体は槍と刃と鏃によって、あるいは魔物の爪牙によって数えきれぬほどの損傷を受けていた。
それなのに、それほどの傷を受けてなお、その男は立っていた。
戦場に。
幾度も傷つき倒れながらも、帰ってきた。
常在戦場。
そんなお題目を唱えることは、あまりに容易い。
けれども、それを貫き通すことの困難を、トラーオは知っている。
度重なる戦災で傷ついた傷病兵たちを看護してきた経験が、その困難を痛感させる。
異能と最新の治療技術で欠損した肉体を再生させ補おうとも、決して癒せぬものがある。
それは心だ。
心に染みついた死の恐怖、死神の顔だ。
己を襲うものだけではない。
誰かを殺めたとき、今際の息は、その人間の心に焼きつく。
不意に襲いかかる突発的な恐怖、死の手触りにうなされぬ者などいない。
それでも戦士たちは、騎士たちは戦場へ戻ってくる。
しかし、ノーマンほどの男を、トラーオは知らない。
若くして妻子を失い、自らもその両腕を病魔に喰われた。
カテル病院騎士団の神器である〈アーマーン〉を得てから、いったい幾度、ノーマンは死地に赴いただろう。
そこから帰還してきただろう。
その男はいま、眼前に迫る圧倒的な恐怖とすら、金剛石のごとき《意志のちから》で正対しているのだ。
失われた両腕のかわりに与えられた神器の加護では、それはありえない。
男の胸のうちに燃える勇気だけが、それを可能にしたのだ。
ごしゃり、とノーマンの両腕が凶悪なカタチに変形する音を、トラーオは確かに聞いた。
耳を聾する暴風と轟きわたる雷鳴のさなかで。
そして、見た。
圧倒的な暴威のまえにあって塵芥のごときちっぽけな──自分と同じ──人間の男が、どうしようもなく獰猛に笑うのを。
次の瞬間、ノーマンは船べりを蹴り、荒れ狂う波間に身を踊らせた。
自殺的な行為? いいや違う。
あらゆる地形をまるで舗装された道路のように走り抜けることを可能とする異能:《ムーブメント・オブ・スイフトネス》が、ノーマンを護った。
吹きすさぶ嵐も、打ちつける豪雨も、そのすべてを発動した異能の壁が防ぎ止める。
その両腕を神器とし、嵐の海を疾駆する騎士の姿をトラーオは尊敬と畏怖に打たれて見守った。
相対することなど考えることもできない、絶望的な城塞のごとき脅威にむかって、荒れ狂う波間を疾風の速さで舞い、駆ける男の背中を。
シィィイイイイッ!! 鋭い呼気とともにノーマンは展開を終えた両腕の《フォーカス》:〈アーマーン〉を振るう。
異能:《ヴォイド・ストリーム》──あらゆる物質を一瞬で消し去るノーマンの殲滅技。
それが〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の生み出す小竜巻を幾本か巻き込んでぶつかり、対消滅する。
トラーオは、荒れ狂う海上でまるで燈火を掲げるかのように輝くノーマンの両腕を見る。
それはさながら人界に降りた天上の神火。
漆黒の嵐の海にあって、たちまち見失ってしまうほどちっぽけな人間が、あの強大な存在──怒れる大海蛇との異能のぶつかりあいで、互角以上に渡り合っていることに、震えがとまらない。
だが、その小竜巻は〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の牽制に過ぎなかった。
大気に伸び上がった巨大な水柱が鞭のようにしなり、ノーマンに襲いかかる。
優に数万ギロスもの質量を備えた大ハンマーが容赦なくノーマンを打ち据える。
ノーマンは海面を転がり、疾駆し、跳躍してそれらを躱す。
空中にある間に振るわれた両腕が水柱をゴッソリと齧り取り、この世から完全に消し去る。
これぞ、この界に満ちる理そのものを、根源から消し去る神器:〈アーマーン〉の能力であった。
しかし、この超攻撃能力、そして、相手の異能攻撃すら効果範囲内に捕らえられれば打ち消してしまう超防御能力を持ってさえ、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉に対して直接的な打撃を与えるまでには至らなかった。
アシュレの携える竜槍:〈シヴニール〉であれば、あるいは甲板上からの狙撃が可能であったかもしれない。
ノーマンの技と〈アーマーン〉の性質は、その対極にある。
敵陣に飛び込んで、相手に引かせぬ状況を作り出してこそ最大能力を発揮するのだ。
その意味で、海中という別世界へ、境界を挟んでいつでも潜航できる〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉は相手が悪すぎた。
加えて、ノーマンが突撃の敢行をためらわざるを得ない理由は、もうひとつあった。
それは襲いかかる竜巻や水柱、そしてすでに船の高さを越えている巨大な波の壁による攻撃は、ノーマンに対してだけ向けられたものではなかったからだ。
メナスの天才的な操船技術によって致命的な損傷をテメラリオ号は免れていた。
大波を被りながらも横転を防げているのは、波に対して正対するようメナスと乗組員たちが必死に操っているからだ。
この状況下で、それはほとんど奇跡のような奮戦ぶりだった。
ノーマンはその舳先と並走するように、あるときには先導するようなカタチで船を護らねばならなかったのだ。
己の技と〈アーマーン〉の組み合わせが遊撃兵的能力であり、拠点防衛向きの兵種でないことは、なによりも、ノーマン自身が心得ていた。
だが、それでも、護らねばならなかった。
なぜなら、彼の背後には、船が、仲間が、子供たちが、そして、なにより、まちのぞみし“再誕の聖母”がおわしますのだから。
それは、カテル島大司教:ダシュカマリエ・ヤジャスが、その身と心をなかば供犠に差し出して手繰り寄せた人類圏を理想郷とするための篝火であった。
なんとしても、どのような犠牲を払ってでも、護り抜かねばならぬ存在であった。
だが、このままではやがて限界が来ることはわかっていた。
強大な《フォーカス》である〈アーマーン〉を最大限励起させることで、なんとか互角に渡り合っているものの、気象を操る〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の能力はあまりに強大だ。
ノーマンは耳の奥で気圧の変動を感じとる。
強力な広範囲攻撃の前兆。
船を丸ごと飲み込み粉砕する巨大竜巻を生み出そうとしているのだ。
これまでの〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の攻撃は、すべて、この予備動作、余禄に過ぎない。
そのことを、いまこの場で察知できているのは自分だけしかいない。
そうノーマンは確信していた。
どうする──刹那の逡巡があった。
ノーマンの擁する神器:〈アーマーン〉には切り札とも呼ぶべき自滅の技が備えられている。
すなわち、すべてを滅ぼす漆黒の意志:〈ウィル・オブ・ザ・ジェットブラック〉。
かつて、フラーマの漂流寺院において、ノーマンはそれを振るおうと覚悟したことがあった。
やはり、その背中に護るべきものがあったから──そのときはアシュレとイリス、そしてシオンにイズマがいた。
発動の直前でオズマドラの皇子:アスカリアによって制止されたそれは、発動していれば己の周囲を巻き込み、残らず消滅させたであろう。
相撃ち覚悟であれば、ノーマンはこの脅威と困難を一撃のもとに打破できる能力を有していたのだ。
使うべきか──以前の自分であれば、なんの躊躇いもなく使用を決めたことだろう。
ほんの一瞬、ノーマンは自嘲に唇を歪めた。
ちいさな心残りが、ノーマンの決意を鈍らせていた。
「この聖務を終えたなら、どうかわたしとともに……人生を歩んではくれまいか」
もっとも、素顔さえうかがい知れぬ、もう若いとはお世辞にも言えない女だが。
皮肉げにそう付け加えたのは、他ならぬカテル島の大司教:ダシュカマリエ本人だった。
たぶん、その申し出を受けたとき、ノーマンはスリングでクルミをぶつけられたハトのような顔をしていただろう。
ムッ、とダシュカが表情を曇らせるのをノーマンは見た。
しまった、と思ったときには遅かった。
「あーあー、そうだろうとも、こんな可愛げのない女など……くそっ、やってられるかッ!!」
一瞬で耳まで紅潮させ自暴自棄になったダシュカが、素焼きの水差しに入れておいたテーブルワインを、ゴブレットを経由せずに、がぶりがぶりと飲み干した。
ノーマンが止める間もなかった。
さらされた真っ白い喉を一筋、カテル島特有の濃厚なワインが下っていった。
それから、ダシュカは床にすっかり空になったそれを、叩きつけた。
ごしゃり、とそれは砕け散り、底に残されていたワインの澱が床を汚した。
「だけれどもな、わたしはイクス教・グレーテル派の首長だ。いくら、うちの派が聖職者の妻帯を認めていると言ったってな、それは不純な交際を認めているわけではないぞッ! いいか、ノーマン、よく聞けッ!!」
酔いか、激高か、その両方か、ダシュカマリエは物凄い剣幕で、しかも、なぜか、その剣幕とは逆に逃げるように長椅子に登りながら指弾した。
機嫌を損ねた猫のように。
「オマエは、そのっ、そのっ、首長の、はじめてっ、しょじょじょ、いや、女としての操をだなっ、受け取ったわけだぞっ、受け取ったな? そうだな?」
ノーマンはこんなダシュカをはじめて見た。
ノーマンとダシュカの出会いは、もう軽く十年以上も前になる。
はじめて出会ったとき、彼女は可憐な少女で、そして実の姉にしてノーマンの妻、拝病騎士団であった女を追跡するカテル病院騎士=父の従者を務めていた。
次に会ったのは──ノーマンが妻と子と両腕を失い、ダシュカが父と姉と甥を失うことになったあの城塞都市でだった。
病魔に冒され腐れ果てた両腕を、ダシュカが己への感染の危険性もかえりみず切断し癒してくれなければ、ノーマンは生きてはいられなかっただろう。
そして、彼女とともにノーマンはカテル島に身を寄せた。
その後、正式に病院騎士となったノーマンは、開花させた《スピンドル》の才能とたゆまぬ努力、研鑽によって〈アーマーン〉を拝受するまでになった。
その間に、ダシュカは同じく〈セラフィム・フィラメント〉を──つまりカテル島大司教の座を譲り受けた。
ノーマンにとって、カテル島での生活とは、ひたすらに己を研鑽し、研磨して、研ぎ澄ます日々であった。
汗と血とともに──己のなかにあった嘆き、悲しみ、悲憤、それらを吐き出す道程だった。
復讐心からではなく、子供たちに託すべき未来を勝ち取るため、そのための《ちから》として、ノーマンは《スピンドル》を強く想った。
けれども、その想いの一途さが、ノーマンの視界から遠ざけてきたものがある。
あるのだと、知らされた。
ダシュカマリエからの告白を受けたのは、ノーマンが、やはりアシュレダウとイリスベルダを庇護すべく、その聖避難所としてのカテル島へと、ふたりを導くため瘴気渦巻く旧イグナーシュ王国へ出立する直前だった。
ずっと、ずっとあなただけを見てきた。
乙女のように震えて(いや乙女であったのだが)、文字通り、唇を火傷しそうな言葉をダシュカは告げた。
聖務を命じたその声で、十数年来の愛を告げられた。
ノーマンは拒めなかった。
聖なる武具で構築された両腕で、ダシュカを確かめた。
もちろん、ノーマンはイクス教:グレーテル派の聖職者として、そのとき覚悟を決めていたのだ。
彼女を娶ること、生涯の伴侶とすることを。
だから、あらためての申し出に戸惑ったのだ。
とっくに、ノーマンのなかでそれは、決定事項だった。
ただ、十字軍の機運が高まり、その矛先が他ならぬカテル島と“再誕の聖母”へと向かうのではないかという懸念のさなか、筆頭騎士と大司教の婚姻という出来事がどのような影響を起こすものかわからず、公言することを自重してきたのだ。
それは、大司教位にあるダシュカマリエの判断にまかせるべきだと。
「遊びだったのか、遊びでわたしをッ」
どうして、話しがこんな方向にこじれたのか、ノーマンにはさっぱりわからなかった。
どうにも、ノーマンには女心というものがわからない。
最大限の努力を払っているつもりなのだが、朴念仁のレッテルが剥がされることはついになかった。
宴会の達人王:イズマの名を、心中で小さく唱えた。
こういうとき、どうすればいいのだ、達人王よ、と。
「よるなっ、さわるなっ」
へそを曲げてしまった山猫のように、手を振り回し、長椅子の背もたれに登ってしまったダシュカに弁明すべく、ノーマンは両腕を広げて近づいた。
がくん、とダシュカを乗せた長椅子が傾き、倒れ込んだのはそのときだった。
このままでは後頭部を強打する──その瞬間、ノーマンは《スピンドル》を操り、椅子のバランスを取り戻した。
反対に跳ね起きてきたダシュカを、その胸に捕らえた。
「はっ、はなせっ、情けなどいらぬっ」
暴れるダシュカの髪の毛を掴み、ノーマンは荒々しく口づけした。
舌を食いちぎられるかと思ったが、返ってきたのは、同じく噛みつくような口づけだった。
「どうして、オレが、ダシュカ、オマエを粗末に扱うなどと考えるのか」
長い口づけのあと、男としての言葉でノーマンは言った。
静かに。
「だったら、なぜ、なぜ、わたしを拒むの?」
女としての言葉で……いや、出会ったときの少女のような言葉づかいでダシュカが言った。
「拒んだことなど、ない」
「じゃあ、どうして、答えてくれないの、どうして──」
「それはもう、とっくにそういうものだと──」
「わたしは、わたしは、答えてもらってない!」
未来を予測する神通力の持ち主、その体現たる《フォーカス》:〈セラフィム・フィラメント〉の所持者であるダシュカの子供のような主張を、しかし、ノーマンは笑えなかった。
そうだったのか、とやっと得心した。
ダシュカをゆっくりと解放して、椅子に座らせた。
己は彼女の前に跪いて。
騎士が、女性に求婚する姿勢で。
「ダシュカマリエ──どうか、わたしとともに、ともに歩んでください」
赤らんだダシュカの目元に涙があふれてこぼれ落ちた。
途端にまなじりがキリキリと持ち上がる。
いつもの、彼女=大司教としての顔だ。
「ひどい、ひどいぞ、不意打ちが過ぎるぞっ、だ、だいたいいまのわたしは、ぜんぜん綺麗ではないではないか、取り乱して、髪を振り乱してッ!!」
「あー、たしかに」
ノーマンの同意に、ダシュカが固まった。
ダシュカ自身の言うように、その身なりは……ふだんの彼女を知るものが見たら仰天するような格好だった。
衣服にはワインの染みがつき、髪は解けて振り乱され、口づけが口紅を乱しており、目元は涙と酔いで真っ赤だ。
「ぜ、ぜんぜんロマチックではないではないか! や、やり直しだ、やり直しを要求するッ!!」
喚き立てるダシュカを、ノーマンは長椅子に押し倒した。
あ、っと小さな悲鳴の他は、抵抗はなかった。
「どうせ、もっと乱れることになる。取り繕う必要はない」と、言葉ではなく行動で、ノーマンは示す男だった。
こうしてふたりは互いを生涯の伴侶とした。
挙式は、この聖務を終えてからだと決めた。
帰らねばならない──ダシュカを泣かせてはならない。
十数年も待ち続けてくれた娘の、やっとかなった願いを、悲劇で踏みにじってはならない。
その想いが、ノーマンをして無謀な突撃を踏み止まらせていたのだ。
その一瞬が、重要だった。
「お待ちなさい」
突然、漆黒の世界に陽の光が差したかのように光が満ちた。
ノーマンは背中にその光を浴びた。
もし海中に没すれば一瞬で心臓マヒを起こすであろう極低温の漆黒の世界に生じたその光は、凍えた日の暖炉の温もりのように、ノーマンの肉体だけでなく心まで暖めてくれた。
ノーマンは振り返ることなく、その光の主の名を言い当てることができる。
イリス。
イリスベルダ・ラクメゾン──再臨せし“救世主”の母。




