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■第二十八夜:紅茶とタバコとチョコレート

         ※


 そうして、トラーオとイリスが去ってしまった甲板上に、セラはひとりで取り残された。

 じわり、と涙が滲んで、それがまた悔しくて、部屋に戻れない。

 

 だから、そっ、と背後からコートをかけられたとき、セラはトラーオが来てくれたのではないか、と期待してしまった。

 慌てて戻ってきてくれたんだと、そう思って。

 すぐにも振り返りたいのを我慢して、三秒待った。

 トラーオは焦らされるべきだ。

 わたしの、わたしの心をこんなにメチャクチャにしたんだから。

 だが、振り返ったときそこに立っていたのはずっと長身の男だった。

 彫りの深い精悍な顔立ちに無精髭、特徴的に波打つ長髪、そして船長位を示す二角帽バイコルヌ

 キャプテン・メナスだった。

 

「よーう、どうしたい。こんなとこ突っ立ってると危ないぜ? それに女のコは身体を冷やしちゃいけない」


 コートからは強いタバコの匂いがした。

 それから汗と潮風──男性の匂い。

 ぼろり、と不意に涙がこぼれてしまった。

 トラーオではなかった。

 それがたまらなく悔しくて、それなのに肩にかけられたコートの自然さと暖かさに安堵しを感じた自分が許せなくて、泣いた。

 

「おいおい、ちょっとまってくれよ。オレか? オレが泣かしたのか?」


 なんだか眼前で狼狽するメナスまでもが憎らしく、困らせたくなってしまった。

 無理もない。

 成人は果たしたといえど、セラの心はまだ少女のままなのだ。

 

 敬虔なイクス教徒:グレーテル派の司祭夫婦の間に生まれたセラフィナは、何不自由なく育った。

 惜しみなく愛情を注がれ、満たされて育った。

 両親の躾けは聖職者らしく厳格だったが、それは両親ともにがカテル病院騎士団の後方支援、つまり病院に勤める医師でもあったからだろう。

 幼い頃から人々の命を救おうと懸命になる父と母とを見て育ったセラは、わたしも医師になるのだと信じて疑わなかった。

 憧れていたのだ。

 

 幼少期を脱すると、率先して両親の手伝いを申し出た。

 実際の治療行為に携わることはできなかったが、医療資材の運搬や簡単な問診、資料の整理など手伝えることはいくらでもあった。

 そんな娘を両親は誇りに思ったし、誇ってもらえる自分がセラにはたまらなく、うれしかった。

 

 そんなセラがカテル病院騎士を目指したのは──《スピンドル》の発現が大きな要因であった。

 死んでしまうのではないか、

 そう思うほど、それは壮絶な体験だ。

 

「おまえの身体を、《スピンドル》が導体として再構築しようとしているんだ。《意志》が、その顕現けんげんとしての《スピンドル》が、おまえの肉体の隅々にまで行き渡ろうとする。その通路をつくる痛みなのだよ」

 両親は《スピンドル能力者》ではなかった。

 だが、長年、西方世界最高の医療技術を修めると言われたカテル病院に従事してきた経験は伊達ではない。

 いま自分に訪れる痛みが、変化の先触れであり、この苦痛には意味があること──セラにとって、理解が、試練を乗り切る大きな助けになった。

 

「父様、母様、わたし──騎士になります」


 そう言い出した娘に、両親はその厳しさ、過酷さを説くことはできても、否定することはできなかった。 

 西方諸国では一万人にひとりの才能と言われる《スピンドル能力》。

 その発現が、ふたりともが《スピンドル能力者》ではない自分たちの娘にあったこと。

 これを聖イクスの導き、しるしだと考え至らぬふたりではなかったのだ。

 

 ただ、同じく《スピンドル》能力者であっても、優秀な施療師、つまり治癒系の異能に特化した存在を目指すこともできたはずのセラがなぜ、よりにもよって最前線任務である騎士を目指したのか。

 それには理由があった。

 

 戦災で両親を亡くし、修道院に引き取られた同い年の男の子:トラーオ・ガリウス。

 彼に受け継がれたものは家名だけ。

 そんな過酷な運命のなかで、折れず曲がらず、そして、ひた向きに騎士を目指す彼との出会いがセラを変えていたのだ。

 

 平民で、なんの素養も特別な教養もない子供が目指す目標として、騎士は遠すぎる夢だ。

 けれどもその男の子は、だれを恨むでも羨むでもなく、ただ黙々と勉学と修練を続けた。

 

 幸運に恵まれた、と陰口する者もいたけれど、《スピンドル》が発現を見るまでに彼がどれほどの鍛練を積み、大きなハンディキャップを克服してきたかを陰ながら見守ってきたセラは知っていた。

 

 一目見た時は、なんだか冴えない感じの子だな、と思ったものだ。

 だが、いつしかその真摯な態度──それは騎士への情熱にだけ限られていて、平時はまあほんとうにがさつな、どこにでもいる平民出の、という感じの男の子だった。

 ただ、底意地の悪い感情はまるで持ち合わせておらず、素朴で純朴な心の持ち主なのだとセラは知っていた。

 西方貴族、その名門出の次男、三男も多数在籍するカテル病院騎士団だったから、宴席ともなればどこかの宮廷かと思うような舞踏会が開かれることもあった。

 だが、そういった華やかな嗜好よりも、医師である両親の背中を見て育ってきたセラにとって、トラーオの裏表のない優しさ、率直さのほうがずっと心に響いたのだ。

 

 思えばもう、このときには恋をしていたのである。

 好きだとわかったのは、ここ一年くらいだ。

 毎晩、彼を想うと苦しくて息ができなくなるのだ。

 どうして涙が出るのかわからず、声を殺して泣いた。

 それなのに、トラーオはわかってくれない。セラは思う。

 けれども、セラは知らない。

 

 それはトラーオも同じなのだと。

 ただ、必死に自分の想いを口にすることを戒めているだけなのだ。

 騎士として、せめて己が名乗りを挙げるときまで。

 セラにつり合いの取れる男に、自分がなるときまで。

 

 もちろん、そのことは、セラにだってわからない。

 互いが強く想いながら、いまだそれを口に出せずに恋人未満のふたり。

 セラの行動は、だからこそだったのかもしれない。

 

 グレーテル派はイクス教で唯一、戦士階級以外での妻帯を認める派閥だが、それは男女交際にはまず「婚約」が前提であるということであって、そうではない男女の交際は、やはり咎められる。

 敬虔な両親の元で育ち、厳しく躾けられたセラにはそれはわかっていた。

 

 それなのに、嫉妬がそのすべてを上回った。

 

 心配させてやれ──そんな気持ちで取りすがったはずなのに、ぶ厚く大きい男の胸板に支えられた安堵で、セラは本気で泣いてしまった。

 気がつくと促されるまま、船長室にいた。

 あれこれと戸棚から菓子類が取り出され、珍しいチョコレートや高価な砂糖菓子、それからよい香りのする茶が差し出された。


「たのむから、そいつで機嫌を直してくれ」


 セラは、泣き腫らした目でそれらを見ていたが、メナスが「なにも入ってないぜ?」と言わんばかりにそのひとつをつまみ上げ頬張り、茶を飲み下すとようやく、という感じで手をつけ始めた。

 

 美味しい! 驚きで思わず目を瞠った。

 なにこれ、カテル島のどんなお菓子屋さんのやつより美味しい。

 

 無言で視線を向けると、メナスが心配げに美しくビロードでコーティングされた木箱に、ひとつひとつ区切られて入れられている、それら菓子の行方をハラハラしながら凝視しているのが、目に入った。

 

 いったい何を心配しているのだろう?

 メナスの視線を気にしながらも、セラはもうひとつ、もうひとつ、と手を伸ばす。

 やめられないし、とまらない! 

 チョコレートに射込まれているフィリングは時にはアンズの、あるいは酸っぱいリンゴの、あるいは東方のスパイスを利かせたナッツの、柑橘類のジャムやペーストだった。

 

 メナスがそのたびに、まるで宝石を奪われるみたいに顔をしかめたり、呻いたりするのだが、セラはそれどころではなかった。

 立腹は、空腹に、いや飢えに置換されていた。

 心の飢え、にだ。

 だいたい女のコにとって、甘味は別腹なのだ。

 セラの手が、五つ目に差しかかったとき、ついにメナスが言った。

 

「ちょいまち、それで、それで最後で、オネガイシマス!」

「もしかして……甘党……なんですか?」

 いまさらながらのセラの指摘に、恨みがましい視線でメナスは答えた。

「いま、おまえさんが頬張ったのは、俺の大事な大事なコレクションだ。甘味は、俺の癒し、俺の心の友、俺の恋人なんだ」


 その必死な剣幕があまりにおかしくて、セラは吹き出してしまった。

 

「ま、美人の笑顔の代価なら、まだ諦めはつく──か」


 溜息をつきながら、それでも箱の蓋を閉めることは忘れず、メナスは座席に深々と腰を沈めた。

 雑然とモノが置かれ、破損を防ぐため天井から吊り下げられてはいたが、ある種のダンディズムに貫かれた内装をその部屋は持っていた。

 どの船でもそうだが、船長室だけは小型の炉を備えている。

 特権だ。

 そこで立てられたお茶は、独特な発酵の薫りがした。

 

「不思議な香り」

「遠く東の国のものだ。高級品なんだぜ。ウ・ロン、という銘柄だ。これが抜群にチョコに合う」

「もうひとつたべたいな」

「あー、だめだだめだ、そんな上目遣いな目で見ても、これ以上はダメだ! ……しょうがねえな」


 くそっ、と悪態をつきながらもとっておきを提供してくれるメナスが、可愛らしくてセラは笑った。

 

「ほんとだ……このお茶だと、ぐんとチョコの味が引き出される感じがする。隠れていた味わいが、わかる」

「マリアージュ、ってやつさ。ルカも言ってたろ──結婚マリアージュ、とはまあ意味深だが」

「南方のチョコレートに、遠い東のお茶が合うなんて、不思議」

「そこが面白いのさ。人間も同じだよ、意外な組み合わせが時としてとんでもない相乗効果シナジーを生むこともある」

「それでメナスさんの船のヒトたちはいろんな人種の方がいるんですね」

「メナスでいいよ、セラ。オレは敬称を付けられるのも付けるのも苦手なんだ。おたくのところのお坊ちゃんと違ってな」


 それで、とメナスが切り出した。

 お坊ちゃん、というトラーオに対する軽い揶揄やゆに、セラが顔をわずかに曇らせたからだ。


「なにがあったんだ? 春はすぐそこって言っても、風は肌が切れるほど冷たい。 そんな海に落ちたら、運が悪けりゃ心臓マヒで即死だぞ? 甲板上はヒトが行き合うし、帆の下側の支え棒ロワーヤードがぶつかってくる。水を吸った重いロープの塊には、大の大人を余裕で打ち倒すほどの威力があるんだ。あんなところに、レディがひとりで突っ立ってちゃいけない」

 

 レディ、というその言葉にセラはまた涙腺が緩んでしまうのを感じた。

 ああ、このヒトはわたしを、ひとりの、一人前の女として見てくれているんだ。

 それが礼儀作法、そしてメナスという男の処世術なのだとわかりつつも、トラーオにそう扱ってもらえず渇いた女心にそれは染みた。

 ぽつり、ぽつり、と経緯を追って、しかし要所は隠しながらも話し始めたセラに、丁寧に相づちを打ちながら、メナスが言った。

 

「なるほどなあ。まあ、つまり、お姉さんの旦那さんのこと、おたくは好きだったし、好きなんだな、いまもむかしも変わりなく」


 つらいねえ、そいつは。

 要所を伏せていたらとんでもない捩じれ方を話はしてしまったわけだが、その本質だけは、セラの現状を的確に言い当てていた。

 

「好きだ、と伝えたのかい?」

「そっ、そんなっ、そんなこと、できません。いけないこと」


 そうだなあ、いけないことだよなあ。

 曖昧に同意し、メナスは訊いた。

 

「ところで、一服つけても構わないかね? こういう話を、酒もタバコもなしじゃあ、聞けないタチでね」

 

 そして、船上での飲酒は判断力を鈍らせるとの理由から、メナスは律しているのだと説明した。


「どうぞ、ここはメナスの部屋ですもの。優しいんですね、メナス、わたしを気遣ってくれたんでしょう?」

「美人にだけだよ、オレが優しいのは」


 なんの気取りもなくそう言い放ち、お許しを得たとばかりにメナスは精巧で大振りなキセルにタバコを詰め、これをふかし始めた。


「煙が気に障るようなら言ってくれ、すぐに消すから」

「いいえ。これ……甘い香り……嫌いじゃないかんじ」

「ああ、キミがいるから葉をチェリーのフレーバー付きのにしたんだ。ちっとはましだろ?」


 どこまでもメナスは優しい。

 呼びかけが、おたくからキミに変わったことに、もちろんセラは気づいていた。


「んで、さっきのはなしだけれども」


 メナスが水を向け直してくれたこともうれしかった。

 こういう話を「ちょっと聞いてくださいよ、ひどくないですか」とゴリ押しできるようなメンタルをセラは持ち合わせていなかったのだ。




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