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■第十三夜:不可逆のふたり


 エレに導かれるまま駆け込んだ室内の光景に、アシュレはめまいを覚えた。

  

 敷き詰められたクッションと羊の毛皮の上に、うつぶせに身を投げた美姫。

 目もくらむようなその裸身をアシュレはよく知っている。

 愛しく、かけがえのない──アシュレが領有を許された、たったひとつの国土。

 

 夜魔の姫:シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ。

 その染みひとつないすべやかな肌から禍々しいオブジェが突き出していた。


 まるで刑具のごとく美姫の背に突き込まれた杭のごときもの。

 表面に刻まれた邪悪な彫刻がぬめるように蠢いているのがわかる。

 それがなんであるのか、アシュレが見紛うはずもない。

 忌むべき人体改変のための《フォーカス》:ジャグリ・ジャグラ。

 その邪悪な基部が励起し、シオンを蝕みながら屹立していたのである。

 

「制御を司るこの収納具を使ったのだが」


 切迫した声と表情でエレが竜皮のスクロールを差し出した。

 アシュレはスクロールとそこに刻まれた絶え間なく姿を変える文様が、ジャグリ・ジャグラを制御するために必要不可欠な品であることを、ひとめで理解した。 

 なるほど、このスクロールこそジャグリ・ジャグラの制御基盤コントローラなのだ。 

 これまでは、これが欠けていたためにジャグリ・ジャグラを摘出することもままならず、定期的にアシュレが主人としてシオンを改変せねば鎮まらず、常に暴走する危険性に対して怯えなければならなかったのだ。


 エレの神妙な態度と、その施術に対してシオンが抵抗する素振りすら見せないことで、この状況が悪意によって作られたことでないことだけはアシュレにも感得できた。


 だが、突発的な怒りが衝動となって腹の底から湧き上がった。

 気がつくとエレの襟首を掴んでいた。

 事情を聞かされ納得した、乗り越えたと思ったはずの憤怒が激発したのだ。

 シオンを汚されたという、抑え難き憤怒。


『ふうん……惚れているのだな。ただ、経験から言うと──怒りや恨みは突然、沸騰する湯のようなものだ。ない、と見えてもあるものだぞ? なにも直接的な恨みツラミからだけではない。激しい恋慕は、それだけで突然の激情の温床なのだからな。この話、エレだけのことではないぞ』

 あとで冷静になってから、アスカのあの言葉が自分に向けられてのものだったのだとアシュレは気づくのだが、このときは完全に感情に呑まれてしまっていた。

 

 アシュレ、とシオンに震える声で呼ばれて、やっとアシュレは自分が怒りに駆られてなにをしていたかを知った。

 土蜘蛛の姫巫女の襟首を両手で掴み、引きずり上げていた。

 エレは完全に無抵抗だ。

 くびられて当然。

 そう腹を括りきった態度だった。

 反射的に肉体が起こす抵抗を《意志》で押さえ込んでいる。

 ただ、ぱくぱくとなにかを伝えたげに唇が動く。

 

 ふっ、とアシュレのなかで怒りがめた。

 同時に固く結ばれていた両手が解け、エレを解放する。

 アシュレは慌ててくずれる彼女を抱きかかえた。

 ようやく呼吸を許されたエレは、激しく咳き込みながらもシオンを指さす。

 

「すまない」

 アシュレの謝罪に土蜘蛛の姫巫女は首を振って答えた。

「構わない、当然だ」というジェスチャー。

 だが、その純白の首筋にはアシュレに締上げられた衣服のあとが、はっきりと残されている。

 騎士であるアシュレの筋力は重い竜槍:シヴニールを正確に保持し続けることを可能にするし、その握力は片手でリンゴを粉砕するほどだ。

 本気を出せば無抵抗の女をくびり殺すなど、造作もない。

 もし、正気に帰るのがあと数秒遅ければ、それは現実のものとなっていた可能性がある。

 アシュレは己の所業に慄きつつもくずれたエレに手を貸し、羊の毛皮になかば埋もれたシオンのかたわらに辿り着いた。

 

「アシュレ殿、処置を。その竜皮のスクロールがあれば、あなたさまは真の意味でジャグリ・ジャグラの主となる。まず、励起を鎮めてください」


 エレが苦しい息の下で言った。

 己に降りかかった災難よりも、シオンを案じ対処を優先するよう求めていた。

 その意味、つまり、事態がいかに逼迫ひっぱくしているのかがわからぬアシュレではない。

 

 これまで数ヶ月もの間、アシュレはいま手渡された竜皮のスクロール=収納具を兼ねる制御紋なしでジャグリ・ジャグラを御してきたのだ。

 それは乗馬でたとえるなら、野生の荒馬マスタングを、あぶみどころか、手綱も鞍もない状態で乗りこなしてきたに等しい。

 いくら制御紋の刻まれたスクロール部分との個体同調パーソナライズが済んでいないとはいえ、すでにジャグリ・ジャグラの癖は知り抜いている。 

 むしろ、これまで裸馬だったものに手綱や鞍やあぶみが加わると考えれば、それはアシュレにとって条件が好転しただけのことだ。

 

 たちまち、使い方を習得していく。

 これまでジャグリ・ジャグラの制御は、すべてが経験則から来る勘と試行錯誤に頼るほかなかった。

 だが、たったいまからのそこに意味付けが行われ、より繊細な彫刻が可能になる。

 荒くれ馬が調教され見事な駿馬の群れに変えられていく様子に、エレはへたりこんだ格好のまま見入っていた。

 調教師としてのアシュレの辣腕家ぶりに、シオンの唇から濡れた声が漏れる。

 誤魔化しようのない官能がそこにはある。

 

「……これで、制御は完了?」

 あとは、摘出までボクが主導していいのかな。

 そうアシュレに問いかけられて、ようやくエレは自分を取り戻した。

「まて、待ってくれ、アシュレダウ──そのことで呼んだのだ」

 エレが慌てた口調で制止した。


 腰が抜けたのか立ち上がれないエレのかたわらにアシュレは腰を下ろした。

 目を合わせるとエレの瞳に怯えを含んだ光が宿っているのがわかった。

 無理もない。

 アシュレはついさっき、彼女のその細い首を怒りに駆られてとはいえ、締め上げたのだ。

 許されることではなかったが、この胸の内で燻る怒りを消し去ることも出来ないだろうとも思えた。

 シオンをこんな風にしたのは、エレの怨恨・私怨である。

 もちろん事情があったことも知っているが、だからといってすぐにも笑って水に流せるものでは断じてない。

 

 理性で歯止めをかけるのが精いっぱいなのだ、とアシュレは自分の心のカタチを自覚した。

 だから、二度目の謝罪はしなかった。

 かわりに務めて冷静に振る舞おうと自戒した。

 続くエレの言葉を辛抱強く待つ。

 いっぽう幾度も言葉にしようとしてエレは失敗を繰り返した。

 震える唇はうまく動いてくれず、なんど唾を飲み込んでもカラカラに乾いた喉は張り付いたように声にならない。

 冷酷で鳴らした凶手であるエレをしてさえ、言い出しにくいことなのだろう。

 

 わかった、とアシュレはそんなエレの肩にわずかに触れ、頷いた。

 いまのアシュレにできる精いっぱいの優しさだった。

 それから、立ち上がるとシオンのかたわらに侍った。

 わたしが説明しよう、とシオンが申し出たからだ。

 

「結論から言おう。これは──ジャグリ・ジャグラは、もう摘出できない」


 静かに、落ち着いた声でシオンが告げた。

 アシュレは一瞬、なにを言われたのかわからなかった。


「ごめん、シオン、キミがなにを言っているのか、わからない」

 正直に言葉にした。

 その言葉にシオンは微笑んで、繰り返した。

「もう二度とジャグリ・ジャグラは摘出できない。完全にわたしの血と肉と骨に癒着同化してしまっている」


 ひとことでは言い表しようのない感情の嵐が、アシュレの脳裏を吹き荒れた。

 制御用のスクロールも元来の持ち主もここにいるじゃないか。

 どうして、なぜなんだ。

 そういう感情が乱流となって理性をもみくちゃにするのを感じた。

 シオンが手を取ってくれなかったら、どうなっていたか自分でもわからない。

 夜魔の姫の説明は続く。

 

「ひとつには、スクロールで制御されないまま用いられた時間と回数、そして流し込まれた《意志》の強さが、これまでにないほどの強度であったことがある」


 混乱の極みにあるアシュレとは裏腹に、被害者であるはずのシオンの言葉は淡々としていた。

 

「さらには短期間の間に三名からの強引な改変を受けたことも重大な問題だ。エレ、アシュレ、そしてユガディール。それも後の二名は制御用のデバイスであるこのスクロールを介さずに、手荒いパーソナライズ繰り返した」

 その説明を聞きながら、アシュレはへたり込んでしまった。

 放心したように視線を泳がせる青年騎士に、ゆっくりと裸身を起こしながら寄り添いシオンは続けた。

「そして第三には──ジャグリ・ジャグラのいまの主が、わたしに対する改変を心の底では否定し切れないでいること」


 シオンの指摘にアシュレは心臓に杭を打ち込まれたような痛みを覚えた。

 即座に反論できなかった。

 この邪悪な器具を使い、自分の《ねがい》のとおりにシオンの肉体を改変すること。

 その目もくらむような背徳に男としての昂ぶりをひとかけらさえも抱いたことがない、といえばそれは嘘になる。

 洩れてしまいそうになる声を枕を咬んで必死に堪えるシオンの姿に、許してはならない愉悦や征服欲、独占欲を感じなかったと言えば、それは違う。

 

 だとすれば、いまシオンをジャグリ・ジャグラの暴威に捕らえている《ちから》とはアシュレの《ねがい》そのものかもしれない。

 そう考えるだけで胸が血を吹くように痛み、羞恥で顔ばかりか耳まで朱に染まるのがわかった。

 だが、己の浅ましい《ねがい》のありように恥じ入り苦しむ男の背中に、最大の被害者であるはずの夜魔の姫は身を寄せ、指を這わしながら言うのだ。

 

「最後のひとつは……。犠牲者本人が、主から受ける改変を──拒絶したいと思えないこと」


 なにを言われたのか、ほんとうにわからない、とはこういうことだ。

 アシュレはつい先ほど自らが直面した混乱と比較して、思った。

 一度目は理解することをアシュレの意識が拒絶した。

 二度目は、ほんとうにまったく、わからなかった。

 定まらぬ視線が偶然エレを捉えたが彼女もまた顔を伏せただけ。

 シオンのほうを振り返りたかったが、こちらは強く背中の衣服を握りしめられており、とうてい不可能だ。


「どういう……こと?」

 そう、かすれた声で聞くのが精いっぱいだった。

「ほんとうに、所有されてしまったということだ。身も、心も全部、一生、そなたなしではまともに生きることのできない身体にされてしまったということだ。わたしは、シオンは──」


 ここまで、取り返しのつかないきずを夜魔の姫につけたんだ、もうどうあっても、返品はきかぬからな。

 完全に壊れてしまうまで、使い潰してもらうからな。

 顔を伏せたまま、背中に向かってそんなことを言うシオンを、アシュレはどうしたらよかったのだろう。

 

「説明をさせてもらっても、いいだろうか」


 どれくらいそうして時間を費やしたろうか、土蜘蛛の姫巫女が言葉を発した。

 意を決した様子でエレはアシュレに話かけてきた。

 決して消えることはないだろうと思っていた彼女に対する怒りが、この短時間の間に雲散霧消していることに気がついてアシュレはまた狼狽した。

 

 ことの発端はともかく──いまこの時点において、シオンは自らの窮状をシオン自身に一因があるのだとはっきり認めた。

 それなのにアシュレが自分の心の奥底にある独占欲や支配欲を恥じらうばかりに否定しては、それは保身と言われてもしかたのないことだ。

 それは卑怯者の振る舞いだ。

 

 だからアシュレも認めることにしたのだ。

 はっきりと「シオンのすべてを独占したいのだ」と。

 そう思い至った瞬間、エレへの怒りの根源がすっ、と溶け消えるようになくなってしまった。

 気がつけば土蜘蛛の姫巫女の手を取っていた。

 

「さきほどは女性のあなたに怖い思いをさせてしまった。エレヒメラ、どうか謝罪させて欲しい」


 アシュレはあえて単刀直入な言い方をした。

 敬語もなしだ。

 己の真情を伝えたい、と思った。

 回りくどい言い方ではダメだ、と思った。 

 エレがそんなアシュレに、跪いた姿勢から視線を合わせてきた。

 ほんのりとその白磁のような肌に朱が差した。

 このヒトはホントに綺麗なんだな、とアシュレはそのエレの姿を見て思う。


「では、わたしの謝罪も受け入れてももらえるだろうか」


 謝罪を受け入れるとは、互いがこの件に関して二度と相手を指弾しない、という意味である。

 アシュレは当然、その提案を受けいれるつもりだった。

 

「ボクは、イズマから貴女あなたの生い立ちや、境遇を含めた説明を聞いたとき納得したつもりだった。しかたのないことだとわかったつもりだった。理性だけでなく、心の底から貴女を理解し許したつもりになっていた」

 だからこそ真情を語った。

「だけど、シオンのあの姿を見た時──そうではないことを知った。憤怒が手綱を引きちぎり、気がつけば貴女あなたに暴力を振るっていた。すでに謝罪した無抵抗の女性に手を挙げるなど、男として、いや人間として最低だと思う。謝って許されることではないが、どうか、この通りだ」

    

 アシュレははっきりと土蜘蛛の姫巫女の瞳を見ながらもう一度、謝罪をした。 

 その膝にエレが白魚のような指を伸ばす。

 アシュレは避けなかった。

 

「もし先ほどの件で、わたしが怖い思いをしたと思っているのならそれは間違いだと言っておく。逆だ、アシュレダウ。わたしは感動したのだ。心を打たれた、と言ってもいい」

「感動した?」

 なぜかますます顔を赤らめてエレは答えた。

「あの怒りで、本物だとわかった。シオン殿下──シオンを想うオマエの気持ちは、もうどうしようもなく肉体にさえ根を下ろしたものなのだとわかったのだ。ああ人間にも、このような男がいるのだな、と」


 どんなにひとりの女のことを想っているのか。

 それを感じて心動かされぬぬようでは、やはり、ひとりの女としてはな。

 

「ありていに言えば、惚れたのだ。シオンを想うオマエの心のありさまに」

 そうエレは言った。

「たしかに死ぬかもしれない、とは思ったが──これで許してもらえるだろうか?」


 エレの問いかけの意味をアシュレはまた見失って固まる。

 そんなことがあるはずがないのに「オマエ惚れてもよいか」とその問いは取ることもできたからだ。

 もちろんエレは、あえてそんな言い方をしたわけだが。

 なるほど謀略は土蜘蛛のさがである。

 

「ふふ、こんなウブな反応をするくせに、あれほど見事にジャグリ・ジャグラを操って見せるなど。その運指に翻弄されるシオンのさまを、こんな間近でわたしは見せつけられたのだぞ? 平静でいられると思うのか? なるほど、これは聞きしに勝るヒロイン・キラーだな?」

「ヒ、ヒ、ヒ、ヒロイン・キラー?!」


 あんまりといえばあんまりすぎる名称に、アシュレの喉からすっとんきょうな声が出た。


「なに、それ、ヒドイ」

「いや、イズマさまが『アシュレはああ見えて、おんなのコを泣かせるタイプだから気をつけて』と忠告してくださっていてな。なるほど、お言葉の通り──これは魔性の男だ」


 言葉に詰まったアシュレの喉から、声以前の妙なサウンドが出た。

 恒例のアレ、である。

 くくくっ、と背後でシオンが鳩のように笑う。

 

「ちょっ、シオンまでっ」

「あながち、冗談ですまされないだろう?」


 シオンが指折りなにかをカウントする。

 たぶんこれまでアシュレが関係してきた女性たちのことだろう。

 頭頂からまたまた脂汗が噴き出すのをアシュレは感じた。

 

「安心しろ、アシュレダウ。わたしの本命はイズマさまだけだ。ただ、オマエになら此度の件の報復として、一晩の自由と尊厳を差し出すくらいはしてもいい、とは思わせたことはたしかだが。このわたしに、な」

 エレの口元に妖艶ようえんな笑みが浮かび、アシュレは剣呑すぎる冗談の切っ先を必死に躱さなければならなかった。

「あ、貴女はやっぱり、土蜘蛛の凶手なんだなっ」

 ひるんだ様子で言うアシュレに、エレはますます笑みを広げる。


「貴女、などと堅苦しい言い方はやめて欲しいな、アシュレ。わたしとオマエの仲ではないか。フルコンタクト的な間柄だぞ、これは」

「ちょちょっ、エレヒメラさんっ、手が、手がっ」

「エレ、と」

「エレ、だめ! それ以上は、ダメだ!」


 ふっくっくっ、とエレは瞳を三日月のカタチにして笑った。

 これはからかい甲斐のある、と感想する。

 キチンと謝罪したからには、そして相手が謝罪を受け入れたからには意識を瞬時に切り替えることができる。

 たとえそれが上辺の対応だけであっても。

 そういう有能さを、アシュレはたちの悪いエレの悪戯のなか見いだした。

 気がつくとすでに敬称略になっている。

 敬語ですらない。

 完全なタメ口だ。


「それで、説明っていうのは」

 上ずりかけた声を必死で抑え、アシュレは問うた。

「ああ、そうだった。本筋から離れてしまっていたな」

 ほかでもない、それ、〈ジャグリ・ジャグラ〉のことさ。

 エレはずい、とさらにアシュレに身を寄せて来た。

 

 アシュレはアラム式に、あぐらをかいた上に陣取られるカタチになった。

 逃げられない。背後のシオンがいっそう強くすがりついてくる。

 背中に温かく柔らかな感触と早鐘のように打つ鼓動を感じる。

 心臓を共有するふたりの鼓動はアシュレのものでもある。

 それなのに膝にはエレが身体を捩じ込んできていて、お姫さまだっこ状態。

 これでは前門の虎に後門の狼だ。

 どちらが虎で狼かは言及すると危険なので留保しておく。


「シオンの肉体に癒着・融合してしまったジャグリ・ジャグラは強力な呪いの品だ。これは《フォーカス》のなかでもヒトの思念を溜め込み、それをまるで邪悪な薬液のようにして犠牲者の肉体を改変してしまう品だということだ」


 そう見上げて言うエレに、そう言えばこのヒトも犠牲者だったのだな、とアシュレは思い至った。

 ん? とエレが小首をかしげる。

 気づかったことを、察知されたのだ。

 

「そうだ、アシュレ、わたしも被害者だった。だから、とてもよく判るんだ」

 率直にエレは断言した。

「その内側には恐ろしく凝縮された思念が詰まっている。犠牲者を玩具に貶めてやろうという、最低の思念がな」


 胃のなかに鉛を詰められたような重さをアシュレは感じていた。

 いまからエレが語ろうとすることが、自分の心の奥底にある醜悪な部分に触れるとわかったからだ。

 耳を塞ぎたいと思った。

 それでも、その最低の思念の片棒を担ぎ、これからもシオンに対してその残酷を強いていく身としては逃げるわけにはいかなかった。

 聞こう、とアシュレはエレを見つめ返した。

 

 ふうん、とエレはそんなアシュレにまた意味深に笑った。

 たぶんそれは高評価の笑みだと思う。

 目尻と耳の先がわずかに垂れる。

 ヒトの感情は無意識にその肉体に現れるものだ。

 

「ジャグリ・ジャグラに込められた思念というインクは強力だという話だが、救いがないわけではない」

 羽根ペンを想像しろ、とエレは言った。

「犠牲者を一冊の本と考えたとき、ジャグリ・ジャグラはそれを自由に書き換えることのできるペンとインクだと言える。だが、ペン先につけられたインクは無限ではない。ときおりインク壺に浸して、満たしてやらねばならない。ジャグリ・ジャグラにとって、それに当たるのがコントローラである、その収納具スクロールだ」


 だけど、とエレの説明にアシュレが口を挟んだ。

 

「だけど、シオンの肉体に突き立ったままジャグリ・ジャグラは回収できない。つまり、インク壺に浸せない?」


 ふむん、とエレは唸り、笑みを広げた。

 アシュレの思考力に感心したのだ。


「つまり、つまり……」

 アシュレはエレの笑みに勇気づけられたように仮説を続ける。

「つまり、いつか、このインクが尽きる日が来る、とキミは言うのか」

 アシュレの問いかけに対する返答は、これまで見たこともないようなエレの大輪の笑顔だった。

「いかにも、そうだ、アシュレ。どれほどの年月を要するものか、わからないが。いずれ、必ず」


 土蜘蛛の姫巫女からもたらされた解答を、福音と捉えるほどアシュレはもう子供ではない。 

 ただ、希望はあった。

 それで充分だというように、シオンがいっそう強く身を寄せてくる。

 

『《フォーカス》は《ポータル》の付属品、その一部。ヒトの《ねがい》を叶えるため生み出された道具たちだ』


 いつだったか、カテル島の深奥で、大司教:ダシュカマリエが放った言葉が思い出される。

 あるいはこのとおりではなかったかもしれないが、同じ意味の会話をふたりはした。

 だとしたら、ジャグリ・ジャグラはたくさんの人々が望んだ「誰かを自分の意のままに改変してやりたい」という《ねがい》から生まれたものなのではないか。


 だが、もし、その《ねがい》のインクを使い切ったとき、残されたペンはどうなるのだろう。

 ふと生じたそんな問いかけを、アシュレはすぐに忘却の海に沈めた。

 すくなくとも、そのときは。


 助けを求めるように、シオンに甘く牙を立てられたからだ。




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