■第二十五夜:羊のなる樹
※
「待たせたな」
身支度を済ませたアスカが天幕を出てくるまで、すこし間があった。
払暁。
気温は氷点下を大きく下回り、肌が切れるのではないかと思うほどの寒気。
だが、アシュレは寒さなど微塵も感じない。
身体のなかを熱いエネルギーが駆け巡っている。
アスカが授けてくれた《ちから》、すなわち《ヴァルキリーズ・パクト》のおかげだ。
肉体の隅々に詰まっていた疲労。
それが凝ってできた栓がすべて取り払われ、血液が作り替えられたようにアシュレには感じられた。
「どうだ?」
様子を問うアスカに、アシュレは腕を動かして見せる。たったそれだけで、その指先から《スピンドル》エネルギーが粒子のように迸った。
「生まれ変わったみたいだ」
そうか、とアスカは微笑んだ。
「ありがと、アスカ」
「おそらく効果時間は数日というところだろう。本家の真騎士なら一週間と聞くから……その半分くらいは持つ、と思うぞ」
ただ、効果が切れると一気に来るから、気をつけるのだぞ。
そう言ってアスカは指を振り立てる。
あくまでアシュレを案じてくれていた。
そんなアスカの足取りは、どこかふらふらと定かでない。
代償とアシュレを受け入れたせいだ。
アシュレは思わずアスカを抱きとめる。
「すまぬ」
アスカは謝ったが、顔をアシュレのコートに埋めたまま離れようとはしなかった。
「ごめん。つらかったね。最初は、ボクも精いっぱいだったんだけど……途中から、その、力いっぱいになってしまって……」
「逆だ、バカ。良すぎて……あんな、ずっと、長く、帰ってこれなくなるなんて……聞いてない。互いの間に道筋ができるというのか……通じ合える、というのか。ううん──深く通じ合い過ぎて……恐いくらいだった」
頬を赤らめて、アスカがうつむく。それから、思い出したように言った。
「恐かったのだからな! わたしだって、恐かったのだからな! オマエだから、受け入れる覚悟ができたのだぞ!」
でも、いまは、こうして離れてしまったことのほうが、恐いんだ!
アスカがアシュレのコートに顔を押し当てて喚いた。
他にぶつけるわけにもうっかり独り言するわけにもいかない内容なのだろう。
「オマエ、ぜったい定期的にしてもらうからな。こんなの知った後、放って置かれたら、狂うからな──寂しくて」
アシュレは軽々しく約束もできず、抱きしめるしかない。
しばらくすると落ち着いたのか、アスカが身を離した。
「すまん……ちょっと、興奮した」
これがアスカの感情のコントロール法なのだろう。
とりあえず思いの丈を、ぶちまけるのだ。
それから、アシュレを見上げて言った。
「いますぐシオン殿のもとに駆けて行きたいだろうに、わざわざ待ってもらったのには当然だが意味があるのだ」
「契約の第二項に関して、というわけだね」
「察しがいいな。身体だけでなく頭の疲れも吹っ飛んだようだな?」
おかげさまでね、とアシュレは笑いアスカに導かれるまま、オズマドラの教導部隊駐屯地へ足を踏み入れた。
アスカのものほどではないがキチンと防寒された天幕がいくつも設営されている。
馬たちも丁寧に手入れされ、部隊の質を物語っている。
「ここはもとは塩の鉱山だったそうだ。いまでも、近隣を掘っている。まあ、いうなれば孤立主義者たちの……あ、この名称をここでは使うな? 純人類解放戦線──の資金源というわけさ」
まあ、それだけでは賄えないから、他にもいろいろあるんだが。実のところ、コイツらの資金の出所については……興味深いものがあるよ。知ったら驚くぞ? 意味深にアスカは笑う。
「よし、揃っているな?」
ひときわ大きな天幕を潜る。
そこには彼女に付き従う直属の部下たちがいた。
ナジフ:実直だが一筋縄ではいかないクセのある風貌の副官。
ティムール:気さくな優男風だが、底の読めない笑顔。
アテルイ:紅一点、情報将校だというが、その身のこなしからかなり戦技も使うと見てとれる。
「改めて紹介する。アシュレ。アシュレダウ・バラージェだ」
アスカに紹介され、アシュレは一同と視線を合わせた。
ナジフからは値踏みされ、ティムールからは笑顔を向けられた──ただし底は読めない。
アテルイの視線は冷ややかだ。
「どうした、抱擁しろ」
アスカに促され、アシュレとそれぞれは、友情と親愛の情を示す抱擁を行う。アラム式の挨拶。
一件友好的な仕草ではあったが、実際は違う。
その水面下でアシュレはそれぞれに試された。
それは《スピンドル》の応酬。
あるものはアシュレに真っ向からの力勝負、あるものは恥をかかせるべく、あるものはアシュレという存在を測ろうと。
それは静かで、アスカに気取られぬよう工夫された試験。
そのことごとくにアシュレは対応し、彼らの手を無効化した。
そして、なるほど、たしかに彼らの態度は、抱擁の前後で急変したのである。
その意味で、この挨拶は必要不可欠なものであったのだ。
「たいへんな失礼をした。たしかに、貴方は素晴らしい使い手だ。フラーマ征伐の武勲を試すような真似をした。ご無礼はこの老骨の首で収められたい」
アシュレを認めたのだろう。一団を代表してナジフが詫びてきた。
「どんな無礼があったか、ボクにはわかりませんでした。皆さんと打ち解けることができて嬉しい。アラム式の挨拶に不慣れで、ボクのほうこそ、ご無礼がありませんでしたか?」
アシュレの機知を感じさせる切り返しに、三人が頬をほころばせたのは言うまでもない。
「爺、またなにか仕掛けたのか?」
「なんども申し上げますように、世の肝心は、必ず自らの目と鼻と耳と舌と指で確かめることでございます」
そして、その点でまちがいなく、この御仁は皇子のおっしゃられる通りの御方でございました。
ナジフが、そう太鼓判を押してくれた。
それからティムールが西方式の握手を求めてきた──細められていた男の目の奥に確かな骨気を感じる。
アテルイだけはどこか憂いを帯びているが、これはどうしてだろう?
「アシュレは我々への協力を約束してくれた。だが、また同時にユガディールに恩義ある身、共闘の無理強いまではせずにおこうと思う。これはかつてフラーマの漂流寺院で命を救われたわたしの決定だ。異論はないな?」
「しかし、それは、皇子。正義がいずれにあるかは明白なこと。我らと共闘すべき理由があるのは、アシュレダウ殿のほうではありませんか」
「わかっておる、爺。だから、その理解を助けるためにアシュレをここへ連れてきたのだ。事実の断片をかいまみれば、あるいは我々の戦いの理由を理解できるだろうか、と思ってな」
事実の断片? 共闘すべき理由?
アシュレが交わされる言葉の真意を問うより早く、ひとりの兵卒が天幕の入り口に立った。
「連れてまいりました!」
「ご苦労。ここへ連れて来い」
入ってきたのは、ふたりの男だった。
ひとりはその身を縛る戒めと衣装から捕虜となった“血の貨幣”共栄圏・トラントリムと連合関係にある国家の責任者であると知れる。
もうひとりは、あの峠でインクルード・ビーストビースをけしかけてきた孤立主義者の司令官だった。
「「貴様ッ」」
アシュレとその司令官は同時に身構える。互いが互いを憶えていた。
「なぜ、オマエがここにいる! こいつは敵だ、敵だぞッ!!」
孤立主義者を率いていた司令官が叫ぶ。
「貴様かッ、あの卑劣な作戦を主導したのはッ!!」
アシュレも同じく、吼えていた。
怒りに燃えて飛びかかろうとしたアシュレを制したのはアスカだ。
司令官の男はなお喚いていたが、ナジフの拳と叱責を浴び、不満をあらわにしながらも沈黙した。
「もとはと言えば、貴様らが独断専行が招いたことだ。この御仁はその非道を目の当たりにして、騎士として行動したまでのこと。その勇敢さ、気高さを敵に回したのは己らの性根の腐り具合だとなぜわからんッ!」
ナジフの一喝はさすがに有無を言わせぬ力があった。
「さて、今日集まってもらったのは他でもない。トラントリムとその連合国による軍事行動、およびその作戦内容に対する対策とそのための事実確認を行うためだ」
期を逃さずアスカが畳みかける。
感情と暴力をナジフが受け持ち、場はアスカが掌握する。
なるほど良くできた役割分担だ。
「特に、連合国の財務官のひとりである貴殿にはご協力願いたい」
アスカの呼びかけに捕虜の男が鼻白んだ。
「だ、だれが、貴様らなどにッ、わたしは、売国奴にはならんッ!!」
「基本的に貴殿の意志に問うべき術を我々は持たない。ゆえに主にその肉体へと訴えかける術にて、協力を仰ぐまでだ」
つまり拷問によって、とアスカは言ったのだ。
アシュレはいまから眼前で起こるであろう事態を予測して、アスカの肩に手をかけた。
「アスカ、それはッ」
「アシュレ、わたしを信用しろッ」
言いながらアスカは合図していた。
捕虜の男が縛された肉体を捩り抵抗をしめすが、ティムールによって膝を崩されかなわない。
だが、卓上にナジフとアテルイによって引き倒されたのは──孤立主義者、その司令官の方だった。
理由もわからぬまま、突然テーブルの上に押し倒され、うつぶせになった男が顔を左右に振る。
その様子をアシュレは、呆然と見守るしかない。
「これは、どういうことだッ」
「だれが捕虜を尋問すると言った? 予定は通りだよ。これはなによりもまず、貴様の査問会だ」
司令官は暴れようとするが、ナジフの《スピンドル》を通した体術に無力化され手足を縛り上げられた。
では、はじめよう、とアスカが宣言した
「貴様らは、なぜ我々オズマドラの制止を聞かず、あのような恥知らずな奇襲をしかけたのか」
「しっ、しれたことだ。我らが受けてきた恥辱と圧政に対する報復だ」
「あれを正当な復讐だと主張するのか?」
「それ以外の、なにものでもあるまいッ!」
「ならばなぜ、その矛先を女子供にまで向ける? オマエたちが復讐すべき男はただひとり、いまも当時と変わらず生きる男がいるであろう? ユガディール・アルカディス・マズナブ。喜ぶべきことだぞ、これは。大昔のカビの生えたような怨恨をぶつけるべき相手が、いまだに生きていてくれるというのは」
それなのに、なぜ、直接ヤツを狙わない? アスカは詰問する。
その顔に浮かぶ笑みには憐憫は、微塵なりとも感じられない。
「それは、ヤツは、つねに王城の内側にあり、安全な場所で薄汚い夜魔どもを操っているからでッ」
「それはおかしな話だ。今回の軍事行動も、ユガは先陣に立つそうだ。と、いうか、これまでの軍事行動で、彼が先陣にいなかったことなどない」
どうして、その場で一騎打ちを申し込まない? なぜ、このような卑劣なテロルに走る?
アスカは問う。
「今回も、貴様らがおかしな行動に出なければ、あと十日ほどで彼は軍事的行動に出たはずだ。つまり、戦場で相まみえることができたはずだ。それなのに、なぜ、オマエたちはそうしない? なぜ、直接対決ではなく──弱者を狙う?」
「そ、それは、敵の兵力を決戦前に削いでおくことは戦略・戦術上の基本であり──」
「わたしには決戦を恐れての行動にしか見えんがな?」
せっかくわれわれが、最小限の人的消耗でユガディールを引きずり出す算段を組んだのに。
そこまで聞けばアシュレにも、理解できた。
あの老夫婦の宿でアスカがアシュレに吹き込んだ話は、ユガディールの軍事行動を促すためのものだったのだ。
アシュレがユガを裏切れないであろうこと。
同時にアスカへの友情を感じてくれていること。
そして、その間で煩悶する男であろうこと。
それらすべてが計算に組み込まれていたのだ。
だからといってアスカを非難する気には毛頭なれない。
すべての判断を手放しでアシュレに任せてくれていたのだ。
アスカの予測の通りに、自らで笛を吹き踊ったのはアシュレ自身だ。
アスカは続けた。
「まあ、いい。だいたいわかった。それで、貴様らは、仮にユガディールを打ち倒したならば、その後、どうするつもりなのだ?」
「決まっているッ、我々が統治者として王座に返り咲くのだ。幾星霜もの間、屈辱に耐え忍びながらも戦い続けてきた我々が、夜魔の支配から人類の誇りを取り戻すのだッ。人民は正当な王の帰還を歓喜の声で迎えるだろう!」
「その人民を、貴様らは虐殺・略奪・強姦してきたわけだが?」
長きに渡り、そんなことをし続けてきた連中を、人民が王と仰ぐとでも本気で思っているのか? アスカは容赦なく問う。
「人民とは、か、家畜だッ、主人と見れば従う。従うことこそが、奴らの本質なのだ。我らは、それを神獣の血を引くものとして、神獣によってッ、その御使いたるビーストとその因子によって」
「では、これはどうだ? 貴様らの活動資金──その多くが、トラントリム側から提供されていた、というのは? えらく込み入った手段を使ってだが、確認した。事実だ、これは」
アスカの衝撃的な言葉に、アシュレは思わず声をあげかけた。
けれども、うつぶせにされた男は、まるで理解できないという様子でつぶやくのみだ。
「ありえん。なにを……言っている?」
「理解できない、というより理解しないよう操作されている、という訳だな。ありがとう、司令官殿。貴殿から聞くべき有益な言葉は、もはや無いようだ」
ハッキリ言って、うんざりだ。
アスカが宣告するが早いか、アテルイが司令官の喉をかっさばいた。テーブルが瞬く間に血で染まる。
アテルイはそのまま男の衣服を、背中側だけ剥ぐ。
真っ白い──それはインクルード・ビーストの白化した装甲と同質、そして、その因子を受け継ぐ人々と同質のものが、脊椎に沿って頭部から走っていた。
あまりに素早い軍事裁判とその刑の執行に、オズマドラ以外の勢力に属するふたり、アシュレと捕虜となった連合国の代表は声もない。
そのアシュレにアスカが注意を促した。
「まだだ、アシュレ、まだ終わっていない。見ていろ、ここからが本番だ」
身構えるようアシュレに促し、アスカは宝剣:ジャンビーヤを引き抜いた。
「見ろ」
アスカが顎で示す先で異変が起こりつつあった。
死んだはずの司令官の背中が……不気味に蠢いて……いる?
「インクルード・ビーストが、己の因子を打ち込み、人間を己の下僕化する、という話は覚えているか?」
「ユガディールからも、聞いた。コイツも言っていたな。インクルード・ビーストを神獣とは……やり過ぎな持ち上げぶりだけど」
「では、話が早い」
出てくるぞッ、アスカが一喝し、死体の背中が蠢き、続いて頭蓋が爆ぜた。
それを、なんと……形容すべきかわからない。
脳漿と血と脂にまみれた純白の芽。
しかしそれはこの地上世界のどの生物にも似ていない。
新鮮な遺体を苗床に屹立した。
ざわざわざわっ、とちょうど球根を茎ごと逆さにしたような形のそれは折り畳んでいた腕を、なにかを受け取るように四方八方に広げた。
アシュレは一度、この奇怪な存在を目にしている。
それはあの峠での卑劣な不意打ちに対して介入したときだ。
アスカが蹴り殺した孤立主義者のリーダー格のひとりの背から、それは飛び出してきた。
同じものが、いま、眼前にある。
「これがこの国の秘密──〈バロメッツ〉だ」
羊のなる樹──その伝承から引用されたであろうネーミングは、原点の牧歌的な印象と目の前で展開する陰惨すぎる光景とのギャップで、決して忘れられなくなるであろうことは間違いなかった。
腕を広げたそれはまるでなにかを送受信しているようにアシュレには思えた。
ただ、それがなにを、どこへ伝え、伝えられているのか、アシュレにはわからない。
そして、それがそれ以上なにか反応を起こすよりも早く──アスカの投擲したジャンビーヤが光をまとって、その奇怪な球根に突き立った。
おぞましい姿をした球根は。しばらくの間、痙攣を繰り返していたがやがて動かなくなった。
「まさか、これが……インクルード・ビーストの植え付ける……芽、なのか?」
「似ているが、これほどのサイズはない。コイツはもっと大掛かりなものだ。見ろ、完全に脊椎と頭の一部にまで潜り込んでいた。司令官だったこの男は……いつからかはわからないが、操り人形だったのだ。コイツの言葉のひとつひとつ、挙動のひとつひとつ、そのどこにも《意志》など介在していなかった。だが、インクルード・ビーストたちにとって、コイツは主人だった。オマエも見たはずだ。従順にコイツに従う奴らを。つまり、コイツは中継点に過ぎない。渡された筋書き通りに孤立主義者のリーダーを演じる男に過ぎない。主人は別にいる」
「インクルード・ビーストに操られていた──んじゃないとしたら……それって……」
ごくり、とアシュレは唾を飲み込んだ。にわかにはすべてが信じがたかった。
アスカは〈バロメッツ〉の頭部から剣を引き抜き死んだ男の衣服で汚れを拭うと振り返って言った。
羊がなる、どころか、羊にヒトをしてしまう樹・その芽とでもいうのかな?
「それを、オマエに確かめて欲しいのさ」
どうだ、共闘したくなってきただろう? アスカは笑った。寂しげな笑みだ。
それから、連合国代表の首筋を確かめる。白化した装甲はないか、と。
はたして、そこにも同じものがあった。
「後を任せていいか?」
アスカの部下たちは無言で頷いた。
「証拠はキチンと保管しておけ。重要な大義名分の材料だ」
天幕を出た。夜明けだ。
「“血の貨幣”共栄圏において、ある重要な役割を担うであろう人物の一部に、あの〈バロメッツ〉は集中的に植え付けられているのではないかと考えている」
明けていく夜を見ながらアスカが言った。
風が強いが快晴になるのだろう。昇る陽を見ながら交わす会話はあまりに後ろ暗かった。
「見ての通り、敵味方の別なく、な」
「敵味方の別なく……アスカ、キミの言わんとすることが、ボクにはわからない。だれが、なんのために、そんなことをしてどうなるというんだ? 意味が、意味が、わからない」
いや、ほんとうはわかりたくないだけなのだとアシュレは知っていた。
そのことを認めてしまったら、これまで積み上げてきた尊いものを失ってしまう気がしていたのだ。
けれどもアスカは言う。
アシュレに認識と決断を迫る言葉を。
「この塩鉱山から塩を買っていたのはトラントリム。そして、言ったように裏で資金を流していたのもトラントリム。わからんとは言わせんぞ、アシュレ、いいかこれは──言いにくいが自作自演だ。この国は、常に自分たちを脅かす敵、それもコントロール可能な敵を作り出すことで、夜魔と人類の共存というユートピアをこの地に降ろそうとしている。計画なんだ。ずっと昔にだれかが望んだ、な」
そのときどきで、世論を操作し、あるいは孤立主義者のリーダーたちを煽って、理想の閉鎖世界を維持しようとしてきた勢力がある、ということだ。
「まさか……ユガディールがそうだっていうのか? 嘘はやめろッ、彼はッ、あのヒトはそうじゃないッ!!」
アシュレは必死にユガを弁護した。
このとき、まだ、アシュレはユガの豹変を知らない。
あの己を焼き尽くすほどの決意と決断を知らない。
だから、そんなことはあり得ないと信じたかった。
それなのに、否定するアシュレの脳裏に浮かぶのは……〈ログ・ソリタリ〉からの帰路、ユガの背中に見た器官のことなのだ。
脊椎を貫き、首筋へ、そして肩甲骨にまで及ぶあの純白の十字架のことだ。
虚ろな穴がいくつもいくつも、穿たれていた。
「ギルギシュテン城の地下工房は生きている。そして、そこから定期的にインクルード・ビーストが湧出する。孤立主義者たちはそこからインクルード・ビーストを補充するのだ。だが、だれが、いったい、どうやってそれを操作している?」
アシュレはユガディールの居城で見た〈ログ・ソリタリ〉の通路を思い出す。
脇を流れる水路は──伏流水だ。そして、その流れは……地図をアシュレは思い起こしている。トラントリムの。
そして、確信を得る。
ギルギシュテン城とユガディールの居城は繋がっていた。いやいまも繋がっている。
「うそだ、そんな、ばかなことがあるか」
アシュレは胸を押さえ頭を振る。
現実を受け入れて整理することができない。
なにかが差し出された。一瞬、それがなにだかアシュレにはわからなかった。
「わたしだって、そう信じたいさ、アシュレダウ。この手記を残し、オマエに託した男がそうだとは、信じたくない」
すまない、悪いこととは知りながら、読んでしまった。
アスカが言いながら差し出したのは、あのユガディールの手記だ。
手が震えた。
裏切った三人の妻たちの話、数百年を生き人間を信じようとした男の、疲れた横顔……そして、アシュレにその手記が託された意味に。
それはユガディールの遺言ではなかったか?
その男に図らずとはいえ嘘をつき、あまつさえ嫉妬して──その果てにシオンを窮地に追い込んでしまった自分を、アシュレは恥じていたのだ。
ページをめくる。無数に加えられた注釈。経年が生みだす避けられぬ染み、汚れ。破れかけた箇所を補修した跡。
ふ、と背表紙にいたったとき、アシュレの手が止まった。
カバーが剥がれかけたことがあったのだろうか、明らかに素人の手による補修の跡があった。
「ここ……このかがり紐……《スピンドル》導体だ」
通常の物質に比べ、《スピンドル》エネルギーの伝達効率が高い物質をそう呼ぶ。
これは《フォーカス》以外の物質に《スピンドル》を通したとき、それらがエネルギーに変換されながら消滅する事象を逆手にとって、伝達経路を人為的にコントロールすることで伝達距離を伸ばしたり、変換・消失速度を遅らせたりするための技術だ。
アシュレはシオンから、上位夜魔の衣類にはこのような仕掛けが施されているのだと聞かされたことがあった。
実際にシオンが自らの衣服に触れさせながら教えてくれたのだ。
アシュレはアスカと顔を見合わせる。
それから、《スピンドル》を通す──それはゆっくりと燃えつき、走り……裏表紙に描き込まれていたメッセージを世界にさらした。
それここに綴られた文字。
手記を破壊する覚悟を持たないものには、見ることのできない炎が刻む文字だった。




