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■第十夜:太陽の皇子

         ※


「アシュレ……あれな、どう思う?」

 部屋を照らし出すのは、窓から漏れ落ちる月の青い光だけ。

 階下で焚かれ続ける暖炉の炎に温められた空気が階下から建屋を貫く陶器製の保温器を通して、じんわりと寝室に暖を与えてくれている。

 

 シオンは半身を起し、ベッドに佇む。

 アシュレは枕にもたれたまま、シオンの美しい背中を月光が滑り落ちていくさまを観ている。

 

 息詰まる一騎打ちのあと、サウナを終えたアシュレをユガは夕食に誘ったが、シオンがそれを断った。

 不作法といえばそうだが、食事をしてしまうと会話が長引いて、泊まらざるをえなくなる。

 そうすると、またあの部屋で──改変をシオンは受けることになる。

 

 思い出すだけで破れてしまうのではないかというほど、シオンの胸は打つのだ。

 だから、あれはあくまで緊急時の対応であるべきだ、とシオンは考えている──当然だが。

 

 事実、ヴィトライオンの鞍上でアシュレの匂いに包まれて帰宅したシオンは、抱きかかえてもらわなければもはや歩くこともできなくなっていた。

 そのあとのことを記述するわけにはいかない。

 いや、じっさいわたしは狂いつつあるのだ、とシオンは怯え、しかし、背筋を苛む背徳的な喜びを否定もできない。

 今夜も、いいわけのできない改変を施されてしまった。

 

「白魔騎士団への──いや、今回はボクへの声援、のこと?」

 そんなシオンの複雑な胸中を貫いて、ずばり、とアシュレが話の核心に触れた。

 そのまま続ける。

「うん。正直なことをいうと、違和感があったよ。適材適所、と言えば聞こえがいいし、たしかにその通りなんだけど、さ」

 自分たちの国を自分たちで守る、という意識が……あのヒトたちからは感じられなかった。

 血を流す役割は別にいる、と言われた気がしたよ。

 シオンが昨日感じた違和感を、アシュレは的確に言い当ててくれた。

 そうなのだ、とシオンは頷いた。

 

「為政者的には、それで正しいわけだが」

「実際に、どの国でも戦士階級は特権階級か傭兵──専門職だからね」


 常備軍──という発想がいまだ一部の天才たちの頭のなかにだけあった時代のことだ。

 常駐戦力と言えば、それは騎士団と従者、よくてもそこに加えて王宮の衛兵のことであり、その他の戦力とはつまり傭兵だったわけで──すくなくとも西方世界では──シオンとアシュレの感想はその意味では正しかった。

 戦争がプロフェッショナルの仕事であった時代のことだ。

 

「ただ、ああも夜魔の騎士たちに戦争のすべてを投げてしまっていいものだろうか、とボクなんかは思う。人間の……これでも騎士の端くれだからね」

「昼間見せた闘志は、もしかしたらそういう民衆に対する人間の男としての意地のようなものでもあったのか?」

「そんな偉そうなものじゃないけど……」

「ないけれども、思うところはあった、と?」


 シオンの念を押すような言い方に、アシュレは己を奮起させた理由を認めざるをえない。

 心のなかをさらうように見れば、たしかにシオンの指摘通りだ。

 

「そなたのそう言うところが……どうしようもなく……好きなのだ」

 シオンがうつむくようにして、アシュレに背を向けたままつぶやいた。

 アシュレは愛しくなり、シオンの髪を掌ですくった。

 シオンの見事な黒髪は、すべて解いてしまうと膝裏まで届くほどの長さがある。

 だから普段は編み上げ、頭頂にまとめていなければならないのだ。

 

 あっ、と瞬間、シオンが小さく悲鳴して口を押さえた。

 

「シオン?」

 アシュレは思わず名を呼ぶ。シオンは真っ赤になり身を震わせている。

「もしかして……髪の毛?」

 こくこく、とうなずくシオンの瞳は潤んでしまって──いまにも泣き出してしまいそうになっている。

「痛い?」

「つたわる、のだ。アシュレに想われているのが。電流みたいに」

 それは〈ジャグリ・ジャグラ〉による改変の傷痕だった。

 シオンの髪は、すでに感覚器官のように敏感に刺激を捉えるものに作り替えられてしまっていた。

 

「ゴメン……ボクが……したんだ」

 謝罪しながら、しかし、アシュレはそのシオンの新しい感覚器を──心からの官能だけを鋭敏に捉える──手に取り、口づけする。

「だめ、アシュレ、だめだっ、お願いだっ」

「一応、条件付けはしたんだけどな……触れた人間がどんなにシオンを想っていても、シオンが受け入れたいと感じていなければ──ほとんど、感じられないはずなのに……」

 アシュレが悔いるように言う。

 だが、言いながら、その感触を確かめるように嗅ぐ。

 

「そなたっ、あの晩以来、その、よくない、極め方をしようとしておるのではないかっ」

「絶対に改変しなくちゃいけないなら、本当に美しいもの、極まったものにしなくちゃならない、と自分を戒めてはいるよっ!」

「だっだっ、だからといってだなっ、今夜のこれはっ、だめだっ、アシュレっ、編むな、編むなああああっ」

 ドッと、頭のなかにアシュレの想いが流れ込んでくる。

 逃げられない──いや、逃げたいとさえ考えられない。

 

「シオン……ごめん、ボクはキミが……好きだ」

 言葉とは裏腹に理性が燃え尽きるような熱さを押し当てられ、シオンは息ができない。

 それなのに拒めない。好きなのだ。シオンも。アシュレという男が。

 

「アシュレッ、もうっ、想ってはだめだ、こわれる、こわれるっ」

 シオンの声は泣き声で、震えている。とっくに限界なのだ。

 だが、アシュレは髪を編む手を止めない。

 慈しむように、ひとつひとつ、ゆっくりとシオンの長い髪を編み上げてゆく。

 そうしながら、言った。

 

「シオン、前も言ったけれど、必死に理性で手綱を引き絞ってこれなんだ。もし、ボクがキミへの愛を制御しなかったなら──どうなってしまうのか、いちばん怯えているのはボクなんだよ。恐いんだ」

 アシュレの告白に、高まり切った拍動が限度を超えてむりやり速められてしまうのを、シオンは止められない。

 アシュレは黙々とシオンの髪を結う。

 

 要所で髪留めを用いられるたび、シオンは肉体に直接、鎖を通されるような感覚を味わう。

 それは束縛という名の官能だ。

 がちん、がちり、とアシュレに自由を奪われてしまう音を、シオンは脳裏に幻覚した。

 

 アシュレの手によって組み上げられていくシオンの結い髪は完成した瞬間──《ちから》によって崩される運命にある砂上の楼閣だ。

 

 だが、ここでその《ちから》の名を記すことは無粋の極みだろう。


         ※


「美しいところだな、ここは」

 晴れた日が続けば、アシュレはシオンを連れて遠乗りを続けた。

 事前に行き先をユガに伝えておけば宿の心配はいらなかった。

 気の利いた、それも秘密を厳守するコテージが先々にあった。

 

 ヴィトライオンを飛ばせば日帰りできるほどの距離だったが、いつ訪れるかわからない負の彫刻道具:〈ジャグリ・ジャグラ〉の暴走に備えておかねばならないことを、アシュレもシオンも骨身に染みていたのである。

 

「連合国の王や貴族たちがトラントリムに向うときの中継、あるいは北伐の際に司令部が逗留先にしている宿だよ」

 宿の来歴を聞けばそうなった

 周辺国の王や貴族の宿泊施設はともかく、北伐、とはなんだろうか、とアシュレはユガに訊いた。

 

「孤立主義者、という言葉はもう耳にしたかな?」

「夜魔と人類の連携を認めようとしないテロリストの集団だとうかがいましたが」

「正しくは、かつてこの国とその周辺諸国にはびこっていた圧制者たちの末裔なんだ。かれらはいまでも、わたしと白魔騎士団のことを人類の敵と見なしており、それに加担する大勢の国民たちを夜魔の奴隷に成り下がりヒトとしての誇りを捨てた──堕落であると考えているんだ」

「それでは、北伐とは、彼らを相手取った軍事遠征、ということでしょうか?」

「ここ十年ほど行ってはいない。ただ、最近、エスペラルゴやオズマドラといった強大国の動きに呼応するように、その活動が活発化しているようだと長距離偵察に出ている密偵からは聞かされている。そろそろ潮時かもしれんな」

「インクルード・ビースト、という名も聞きました」

「数種の生物を混ぜ合わせたような醜悪な生物を、彼らは使役するんだ。夜魔であるわたしが言うと笑われてしまうかもしれないが、彼らの所業のほうこそ人類への敵対ではないのか──と、そう考えている」


 国境近くの自然は、それはそれは美しいものだが、くれぐれも気をつけてくれ。

 ユガは言い、宿泊費とその他いっさいの経費を自らの私費で支払う旨の書状を書き添えてくれた。

 トラントリム北部──そこには思わず息を飲むような光景が、そこには広がっていた。

 湧出る温泉とライムストーン、そして深い森が生み出す神秘。

 アシュレとシオンは、そのただなかを旅した。


 時に、ユガの忠告が甦る。

 

「ギルギシュテン城跡より北には進まぬように──やつらの勢力下だ」

 ギルギシュテンとは、かつてこの地に君臨した圧制者が建てた軍事拠点だという。

 おぞましい食人と拷問の果て、禁忌に取り憑かれていた狂王とともにユガディールによって滅ぼされ、火によって清められた。

 いまは再建もされぬまま放置されており、訪れるものなどいないという。


 それでも、トラントリムの国土の美しさは圧倒的だ。


 アシュレは温泉に身を浸しながら言ったものだ。

「なるほど、なぜ諸国の王たちが、少し遠回りになる北側のルートを選んだのか、よくわかる。この温泉は、たしかに魅力的だ」

 それにどうせ中継しなければならないなら、半日の道程の違いなど大したことではないかもだ。

 次の日の昼前に着くか、終課の鐘の前に着くかの違いだものな、とひとりごちる。

 

 露天風呂で雪を楽しんでいると、猿が入ってきてふたりはびっくりしたものだ。

 もっとも、向こうは堂に入ったもので、ふたりを一瞥すると、無害と判断したのか、湯を堪能するようにうっとりと目を瞑ってしまった。

 

「猿だ」

「猿だな」

 ふたりは言った。

 

 宿の主はこちらもやはり老夫婦で、夏の時期は使用人を増やすのだが、客足の途絶えるこの時期はふたりだけで営業しているのだという。

 それでもときおり、湯治を行う人々が訪うことがあるからだ、と。

 

 といってもアシュレたちが宿泊している間中、客はシオンとふたりきりだった。

 

 かつてトラントリムを圧制によって治めていたという狂王:バラクール──ギルギシュテン城の逸話もここで聞いたのだ。

 老夫婦はアシュレとシオンをまるで孫夫婦が訪ねてきたかのように歓待した。

 

 実際、いまだ療養中であるアシュレにとってこれはありがたかった。

 

 普段はいいのだが、ふっ、とときおり意識が肉体から遠のくような発作をアシュレは味わうことがあった。

 肉体が本調子ではないのだ、と考えた。

 それでもその発作と発作の間隔はしだいに長くなりつつあった。

 本復は近い、とアシュレは思う。

 

 そんな上向きの気分も手伝ったのだろう。

 ギルギシュテン城跡を見てみようという話になり、アシュレはシオンを連れて馬を走らせた。快晴の日である。

 だが、城が近づくにつれ、濃密な霧が行く手を阻んだ。

 しばらく迷走したあげく、たどり着いた河原のごとき場所で、声を上げたのはシオンだった。

 

「見ろ、アシュレ……」

 アシュレはそびえ立つその威容に圧され、言葉を失った。

 ギルギシュテンは川底から突き出した岩山の上に立てられた居城であったのだ。

 それが数百年の時を経ていま、アシュレを見下ろしていた。

 すでに完全な廃虚であった。

 打ち捨てられ、ヒトの気配など微塵も感じられない。

 

 それなのに、なぜか、アシュレは城郭に灯る明りを見た気がした。

 幻か、と目を擦るアシュレの視界から、それは瞬きほどの間に掻き消えた。

「いま、明りが……」

 自分の見た光景をシオンに話そうとして、アシュレは言葉を切らざるをえなかった。


 それどころではない騒ぎが起きたからだ。

 ヴィトライオンが警戒するようにいななき、砂を蹴る。

 その直後、叩きつけるような殺気を伴い、怪物が向岸から現れた。

 

 ギルギシュテンのそびえる河──フィブル河はかつて素晴らしい水量をたたえた河川であったという。

 だが、いつのころからかその河は干上がり、川底を死んだ魚が腹をそうするように、山中にさらすようになった。

 河は伏流水──暗渠となったのだ、とする噂もあるが事実はさだかではない。

 その川底を、突如として森から現れた巨大で奇怪な怪物がアシュレたちに向け、突進してきたのである。

 

「迎え撃つ」

 言いながらシオンが馬を降りた。

 聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉は携えていない。

 護身用のレイピアを引き抜く。

 アシュレも手持ちの武器と呼べるのは長剣と、薪割りにつかう山ナタだけだ。

 強力な光条を放つ竜槍:〈シヴニール〉を携帯するのは、言うなれば大砲を幾門も要する砲兵部隊を引き連れているようなものだ。

 許可を得ているからといって、抜き身でそんな武装を見せつけながら他国を闊歩するような趣味はアシュレにはない。

 

 ゴオウ、とその獣が吠えた。

 

 体高はその肩までで優に二メテルを超えている。推定重量は約一〇〇〇ギロス。

 黒馬を思わせる巨躯から二対の前脚、一対の後ろ足、つまり計六本の脚が生えている。

 外套を思わせる長いたてがみは金糸混じりの漆黒で、その内側から真っ白な棘が幾本ものぞいている。

 

 足先はその棘と同質の爪、そして装甲を思わせる骨質によって覆われており、とても森の生態系──その輪のなかにあるものとは思えなかった。

 

 なかでも、飛び抜けて異質なのは頭部であった。

 馬ほどの長さの首の尖端に頭部はあり、長い口吻から身の毛もよだつような鋭い牙の群れが生えそろっている。

 だが、なによりもアシュレの目を引いたのは、その頭部の意匠であった。


 金色の拗くれた角が蔓バラのように無秩序に天を目指して伸び、その奥に覗くのは白化した人面──デスマスク。

 怪物の頭部は数十名に及ぶ人間の顔で出来ていたのである。

 その長いたてがみと頭部を飾る金色の角が、どこか王者めいた雰囲気をそのデタラメな獣に与えていた。

 

 アシュレもまた徒歩になり、この獣と対峙した。

 川床は拳大の石で出来ており、その上に薄く雪が積もっている。

 徒歩でもそうだが、馬上ではさらにバランスが取りにくい。

 

「なんだ、コイツは」

「インクルード・ビースト……」

 アシュレの呻きに、シオンが一瞬、視線を投げてよこした。

 瞬間、横薙ぎの一閃がシオンを襲う。

 凶獣の恐るべき瞬発力。

 だが、シオンはこの一撃を羽毛のような動きで躱す。

 そうしながらも、レイピアの一撃を振り切った前脚に加えていた。

 ギャリッッ、と耳障りな音が響く。

 

「痛ッ」と声を上げたのはシオンであった。

 足場の悪さをものともせず滑るような足取りで後退し、剣を握った手首を振っている。

 

「なんだ、コイツの体毛は……鋼鉄ででもできているのか? 硬い繊維に阻まれて……刃が通らない」

「この程度の武器では《スピンドル》なしでは、ほとんどダメージにもならないのか!」


 言いながらアシュレはインクルード・ビーストを観察した。

 見ればその肉体には幾本か折れた槍が突き立っている。

 肉体を彩る赤は、怪物とその犠牲者の血しぶきに他ならなかった。

 

「ついさっきまで、どこかで戦っていたんだ……手負いになって……凶暴化している」

 シオンに向きかけた敵の注意を引きつけるため、アシュレは牽制的に剣を振った。

 途端に嵐のような四連撃が掠めすぎていく。

 

「くそっ、盾が欲しい、いや、槍だ、一本でいい」

 とんでもない攻撃速度だった。

 まるで稲妻のような素早さで四本の前腕が打ち掛かってくる。

 アシュレは盾も装甲もなく、この強大な相手に立ち向かう困難さを痛感していた。

 

 剥き出しの生身をさらして戦うことは、どんな超戦士にとっても恐怖であることはかわりがないのだ。

 盾は自らの身体と敵の間に打ち立てられた城壁であり、槍は敵との距離を保つことのできる堀、そして、相手の急所に深く致命傷を捩じ込むことのできる優れた武器だ。

 改めて、アシュレは武具の重要さを痛感していた。

 

 だが、その隙にシオンが技を繰り出していた。

 

「《ヴァイオレット・ローズ・バインド》!」

 シオンのくり出したレイピアが閃光とともに砕け散りながら紫の花をつける荊に変じ、インクルード・ビーストの前腕のひとつに絡みついた。

 鋭い棘が剛毛の上から肉に食い入り苦痛を与える。

 ダメージよりも数倍に強化された痛みで相手の行動の自由を奪う技だった。

 インクルード・ビーストは苦悶の叫びを上げる。

 アシュレへの攻撃速度が鈍り、空振りした一撃が川床の石くれを跳ね飛ばす。

 

「くそっ、《影渡り》が使えたら、頭頂から致命打を見舞えるのに……」

 忌まわしき人体改造の魔具:〈ジャグリ・ジャグラ〉によって改変を受けている間、シオンの総体は少しずつだが絶えず変化しており、短距離転移系の異能である《影渡り》の使用はためらわれた。

 一瞬の跳躍の前後でそれが変わってしまっていた場合、無事に再び実体化できるかどうか、わからないからだ。

 そう考えると、長距離の転移を成功させたイズマの手腕には戦慄するしかないのだが。

 

 獣はふたたび攻撃目標をシオンに定めた。

 苦痛を与えたこと、異能の代償に武器を失ったこと──シオンをこそ攻撃目標に取るべきだと、獣の本能が告げたのだ。

 シオンはとっさに腰の護り刀:〈シュテルネンリヒト〉を確かめる。

 

 彼女の護り刀でであるそれは刃渡り三十セトルほどしかない。

 だが、小さく式典・儀式用の道具とはいえどもそれは純正の《フォーカス》であり、ギリギリまで相手を引きつければ一撃のもとに敵を葬ることは可能であっただろう。

 もっとも、それには捨て身の覚悟を要求された。

 

 敵がシオンに喰らいつく、その一瞬をついて相手に刃を突き立てなければならない。

 それほどに〈シュテルネンリヒト〉の刃は、このバケモノ相手には頼りなかった。

 もともとが、白兵戦に使用するための《フォーカス》ではないのだ。

 まったく別の用途のための刃なのである。


 それでも、この獣を仕留めるだけなら──シオンの実力を考えれば至極簡単だ。

 肉体を餌として、あえて投げ出すようにして与えれば、否応なく隙が生じる。

 その間に致命の一撃を叩き込めば良い。

 

 人類ならば狂気の考えではあっただろう。

 しかし、シオンは不死者、それも最上級の夜魔であった。

 インクルード・ビーストに丸かじりにされたところで、相手がその肉を嚥下し終えるよりも早く、この獣を仕留めることができるはずだった。

 

 だが、そのときシオンの脳裏を掠めたのは、復活に伴う代償だった。

 カテル島の深部で、聖騎士:ジゼルの攻撃によりシオンは全身再生を数度に渡り行うことになった。

 そして、その代償を支払ったのはアシュレの肉体であった。

 心臓を共有するふたりであったが、それはシオン復活の代価をアシュレの肉体から奪ったのである。

 

 死ねない、とシオンは生まれて初めて思った。

 なぜなら、それはアシュレから──命を奪い取ることだからだ。

 がちがちがち、とそれまで感じたことのない恐怖が胃の腑から湧き上がってきた。

 わたしは、死ねないんだ。アシュレを──死に至らしめてしまうから。

 

 竦み上がったシオンの眼前に、すでに死の顎門が迫っていた。

 その間にアシュレが割って入った。

 

 大上段から振り降ろす長剣が白熱している。

 ビョウと瞬間的に熱せられた周囲の空気が音を立てる──《オーラ・バースト》。

 基礎技:《オーラ・ブロウ》の上位にあたり、消耗の少ない手堅い攻撃だ。

 長剣が光の破片になって消滅しながら、シオンを捉えようとしたインクルード・ビーストの右腕を一本切り落とし、翻った切っ先は口吻に突き込まれ、牙を数本、消し飛ばした。

 瞬間的な切り戻しからの、突き込み。

 長剣が《スピンドル》伝導によって砕け散るまでの一瞬──そのチャンスをアシュレは最大限に活用した。

 

 それでも獣は止まらない。

 砕け散ろうとする切っ先を、さらに噛み砕くようにして前へ出る。

 

 だが、一瞬早くアシュレは凶獣とシオンとの間に身体を捩じ込んだ。

 アシュレは素早くシオンを抱きかかえ、身をひねりながら倒れ込む。

 その背が裂け、鮮血がしぶいた。

 獣のナイフのごとき爪がアシュレの背を薙いだのだ。

 

「アシュレッ!!」

 思わずシオンが叫んだ瞬間、地面が爆発するような感触をシオンは味わった。

 白熱する噴流が、獣を迎え撃つように足元から吹き上がっていた。

「《ヴォルカノス・バレット》!!」

 アシュレが技を振るう。

 その右手にはあの竜の皮から作られたという土蜘蛛の籠手がはめられていた。

 イズマから譲り受けた品──〈ガラング・ダーラ〉。

 熱と電撃に凄まじい防御能を発揮するそれは、同時に強力なエネルギー付加能力を持ち合わせていた。

 

 アシュレはそれを、川床の丸石に対して使ったのである。

 シオンを庇いながら身をひねるその腕で、投擲するように方向性を与えた。

 結果としてそれらは白熱するほどのエネルギーとなり、インクルード・ビーストを打ち据えたのだ。

 

 道具ですらない河原の石くれに《スピンドル》を通すのは並大抵のことではない。

 なぜ、優れた道具が《スピンドル》導体として働くのかといえば、それは道具が《意志》の凝ったものであり、すでに《ちから》の道筋ができているからだ。

 ただの自然石にこれほどの《ちから》を与えることができたのは竜皮の籠手:〈ガラング・ダーラ〉が《スピンドル》を増幅させ、大容量のそれを無理矢理流し込んだ結果にすぎない。

 

 凄まじい咆哮と、獣毛の焦げる匂いがした。胸の悪くなるような臭いだ。

 

 はたして、その石飛礫が過ぎ去ったとき、獣は直立して、朦朧としているように見えた。

 獣毛は焼け焦げ、いたるところから肉が覗き、血が噴いていた。

 口吻は歪み、牙の半分が折れていた。人面のほとんどが陥没し、二目と見れぬ風貌となっている。

 だらり、だらり、と血混じりの液体が滴ってはいまだ熱を残す石に触れて白煙をあげていた。

 

 だが、それでも獣は生きていた。

 その肉体は、獣毛の内側にもうひとつの装甲を有していた。

 

 甲冑のようにも見える白化した外皮。それが決定的なダメージから獣を護っていた。

 

 幽鬼のようなその生き物が、いま起こった出来事を分析し、理解するのがアシュレにはわかった。

 だれが、自分をこのような目にあわせたのか。それは的確に捉える仕草だった。

 

 そして、凶獣が、ついに復讐すべき相手を見定め、歪んだ口腔を開いた──刹那──その首が、消失した。

 完全に、綺麗に、残滓すら残さず。

 

 血しぶきが遅れて吹き上がり、一歩、二歩、と獣は歩んで、それからどうと横倒しになった。

 

 長ストールで頭部から顔まで覆った人影がその向こうにたたずんでいた。

 着地した姿勢から、立ち上がりアシュレを見る。

 キンキンキン、と不思議な音がその脚から聞こえる。

 見ればその両脚は、まるでそこだけが別の生物であるかのように展開する純白の甲冑ではないか。

 いや、そうではない。あれは甲冑ではない。

 義足だ。

 

 アシュレは、その持ち主を知っていた。

 ただ、なぜ、いま、ここで再会するのか──その理由が掴めなかった。

 

「奇遇だな、アシュレダウ、それから……意識のある状態でははじめまして、かな? 夜魔の姫君」

 黒歌鳥が鳴くように優美な声。

 その人影が向き直り、歩み寄りながらストールを解き、その顔をあきらかにしながら言った。

 美しいラピスラズリの瞳がアシュレを見下ろしていた。


「また女をかばって傷を負っていたのか。オマエ、そんなことでは早死にするぞ? まあ、そうやってあっちこっちで乙女の心を奪っているんだから、それくらいの罰は当然だとアラム・ラーも仰るだろうが」

 威勢よくイヤミを言われた。

 だが、それは陰湿さのない──笑いをともなっていた。


「アスカ……アスカリヤ・イムラベートル?」


 なんで、とアシュレは言った。

 ほんとうにわからなかった。

 

 なんでだろうな、とアスカは笑う。

 運命だからじゃないか? 

 そう言って。

 



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