第二十話 踏み込む前夜に、ほんの少し憩いの時間を
十月末日の、午後七時半。
翔太は陽向を自宅に招いた。キッチンとは別々になっているリビング。ソファーの正面にあるテレビは、今は消えている。
母は夜勤で不在。誰にも聞かれたくない話をするには、ちょうどよかった。
翔太は、陽向が吸血鬼だということを知っている。そのことを、飯田先生に報告する。では、どのように報告するか。ソファーに座って、二人で話し合った。
『今日の下校途中に翔太が車に轢かれそうになったから、つい慌てて助けた』
『そのときに、どう考えても人間では不可能な動きをしてしまった』
『翔太は頭がいい。しかもアスリートだから、陽向の動きが人間には不可能だということを簡単に悟られてしまった』
『仕方なく、翔太には事実を話した』
話がまとまると、陽向は飯田先生に電話をかけた。スピーカーホンにして、会話が翔太にも聞こえるようにした。あらかじめ翔太と話し合った内容を伝えた。
陽向は、飯田先生に怒られると思っていたらしい。
そんな陽向の考えに反して、飯田先生は、淡々とこれからすべきことを彼女に伝えた。
「明日は学校を休んで、宮川翔太を連れて俺のところに来い。俺から詳しい話をする。それまでは、宮川翔太から目を離すな。今夜一晩は一緒にいて、見張っていろ」
飯田先生は、翔太達の家から近い警察署に部屋をひとつ用意する、と言った。
「午前十時に来い。遅れるな。分かったな?」
「はい」
短い会話の後、陽向は電話を切った。
高校生の男女を、一晩一緒に過ごさせる。普通の生活をしていたなら、大人が指示する内容ではない。それを飯田先生は、当たり前のように指示していた。翔太の口から吸血鬼のことが他言されないよう、陽向に見張らせるためだろう。
吸血鬼の存在というのは、それくらい秘匿されるべきものということか。
今さらながらに、翔太は、吸血鬼がどんな存在なのかを思い知った。忌むべき人体実験で生み出された、生物兵器。人外の生き物。
でも、それだけじゃないはずだ。陽向と飯田先生のやり取りを聞いて、翔太は胸中で呟いた。
――戦勝国が敗戦国に背負わせた負の遺産、ってところか。
戦勝国は、人権を説いて、吸血鬼を生かすことを敗戦国連合に指示した。戦争の終結時に。でもそれは、あくまで建前だ。そのことに、翔太は気付いていた。敗戦国連合の重要人物達も気付いているだろう。
それでも、敗戦国連合の重要人物達は、戦勝国の指示には逆らえない。理由は、戦争に負けたから――ではない。
大人の本音と建前ってやつか。再度胸中で吐き出して、翔太は小さく舌打ちした。
通話を終えた陽向を見ると、彼女は疲れた顔をしていた。怯えている、と言ってもいい。彼女にとって、飯田先生は、それくらい恐い存在なのだろう。
「ありがとうな、陽向。俺のワガママ聞いてくれて」
「ううん」
疲れた顔に無理のある笑顔を見せて、陽向は首を横に振った。茶髪のポニーテールが、フルフルと揺れた。
「これくらい、大丈夫だよ。翔太の頼みなんだから」
言った後、陽向の顔から笑みが消えた。
「でも、今さらだけど、本当にいいの? もう後戻りできないし、ボクシングだってできなくなったんだよ? 詳しい話は、明日、飯田先生からあるだろうけど」
「いいんだよ」
何の躊躇いもなく、翔太は答えた。後悔なんてしない。もし詩織が吸血鬼なら、彼女を助けるためには必要なことだ。もし詩織が吸血鬼じゃなかったとしても、好きな人のために必死になることは、決して無駄じゃない。
「そっか」
呟いた陽向が少し寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。翔太の視界の中で、彼女はすぐに表情を変えた。口を横に広げて、歯を見せて笑顔をつくった。
「私には、翔太の考えてることは分からないけど……でも、まだ言えないんでしょ?」
「ああ、悪い」
「いいよ。ただ、上手くいくといいね」
「上手くやるよ」
誰かを守れる人間になる。大切な人を守れる人間になる。好きな人を守れる人間になる。そのためには、上手くやらなければいけない。
翔太は大きく伸びをすると、再度、陽向に礼を言った。
「本当にありがとうな、陽向」
「だからいいって」
「じゃあ、明日の朝、迎えに行くよ。約束は十時だから、その十分前には着くようにするとして――九時十五分くらいに行けばいいか?」
「あのね、翔太。それなんだけど」
陽向の表情が変わった。彼女の表情は、よくコロコロと変わる。そういえば、母親の灯もそうだ。感情が豊かで、それが顔に出やすいのだろう。
今の陽向は、少し気まずそうだった。
いや。気まずそうというより、恥ずかしそうだった。
「どうした?」
陽向は一度、翔太から目を逸らした。自分のポニーテールに触れ、また翔太に視線を戻してきた。そのまま、口を開く。
「お父さんとお母さんにはちゃんと事情を説明するからさ、今日、私の家に泊まってくれない?」
「……はい?」
唐突な陽向の申し出に、翔太の声は若干裏返った。だが、彼女の言葉の意味に、すぐに気付いた。
「飯田先生に言われたからか?」
素直に、陽向は頷いた。
「そう。明日、飯田先生に色々聞かれるかも知れないから。嘘ついて誤魔化し切る自信ないし」
「ってことは、一晩、陽向と一緒に過ごすってことか?」
「そう。別に一緒のベッドでなくてもいいから、同じ部屋で寝て」
「……」
男と女が、同じ部屋で一晩過ごす。それが何を意味するのか分からないほど、翔太も陽向も子供ではない。
そこまで考えて、翔太は気付いた。
「そうか。考えてみれば、陽向なら大丈夫なんだよな」
「何が?」
陽向は首を傾げた。
「いや、こういうのって、女の方が警戒するものだろ。もし何かされたら、って。でも、たとえ俺が血迷って陽向を押し倒そうとしても、返り討ちに遭うだけだしな」
「……」
また少しだけ、陽向は寂しそうな顔を見せた。それが幻だったかのように、すぐに笑顔に戻った。
「そりゃそうでしょ。私を押し倒そうとするなら、骨の二、三本は覚悟してよね」
「しねえって」
陽向に合わせて、翔太も笑った。
翔太は陽向を尊敬している。憧れの人物であり、親友。そんな相手を裏切るようなことはできない。まして陽向は、翔太が詩織を好きだと知っているのだから。
好きな人がいながら、その場の欲求に任せて友達を襲う。そんな奴にはなりたくない。そんな自分を、尊敬する親友に見せたくない。
二人は翔太の家から出た。
時刻は、午後八時を少し過ぎたところだった。
すぐ隣の、陽向の家に足を運ぶ。ドアを開け、中に入った。
家にいたのは、灯ひとりだった。陽向の父はまだ仕事らしい。
翔太と陽向は灯に事情を話し、一晩泊めてくれるよう頼んだ。彼女はあっさりと許可し、来客用の布団を陽向の部屋に運び込んだ。
窓際にシングルベッドがある、六畳ほどの陽向の部屋。狭い部屋に、勉強机と本棚がある。本棚の中は漫画ばかりだった。参考書など一冊もない。
「まあ、別々の布団で寝るなら大丈夫だと思うけど――」
布団を陽向の部屋に運ぶと、灯は悪戯っぽく言った。
「――もしそうなったとしても、避妊はちゃんとしなさいね」
「ちょっと! お母さん!」
「いや、あの。大丈夫ですから。そんなことにはならないんで」
「そうだよ! 翔太には、好きな人がいるんだから!」
「おい! 陽向!」
「……あ」
「あら、そうなの? 翔太君」
「いや、その……まあ、はい」
陽向を睨みながら、翔太は素直に頷いた。
陽向は両手を合わせて、無言で翔太に謝っている。
灯は楽しそうに笑っていた。
「若い子の恋愛って、新鮮で可愛いんだよねぇ。よかったら、今度、私にも詳しく聞かせてね」
「えっと、その……まあ、そのうちに」
「約束ね。楽しみにしてるから」
灯はそう言うと、陽向に視線を移した。からかうような悪戯っぽい笑みが、その顔から消えた。優しく微笑む。この親子は、本当に表情が豊かだ。
灯はそっと、陽向の頭に手を置いた。ポンッと、撫でるように。
「何? お母さん」
頭を撫でられた理由が分からないのだろう、陽向は灯に聞いた。
すぐに、灯の表情が変わった。陽向にそっくりな、明るい笑顔。
「何でもないよ。まあ、明日は色々大変だろうけど、頑張ってきなさい」
「うん」
灯の手を頭に乗せたまま、陽向は頷いた。
灯は、陽向の頭から手を離した。
「あ、翔太君。冷蔵庫の中のものは好きに食べても飲んでもいいから。明日のために、今日はのんびりしてね。飯田先生って、本当に堅物で、無表情で、発言に遠慮がなくて、面倒臭いから。今のうちにリラックスしておいて」
「はい。ありがとうございます」
灯が、陽向の部屋から出て行った。もう四十二のはずだが、その声や外見、話の内容から、とても年相応には見えない。陽向の姉と言っても誰も疑わないだろう。
けれど灯は、確かに陽向の母親なのだ。吸血鬼である陽向の、母親。今ではほとんど存在しないという、純粋な一〇〇パーセントの吸血鬼。
今さらながらに、翔太は、自分がしようとしていることを実感し始めた。自分は、常識外の世界に足を踏み入れようとしている。吸血鬼という、物語の世界にしか存在しないと思われている生物。彼等の存在を知る者として、国家的な機密に関わろうとしている。
少し緊張してきた。でも、恐怖はなかった。
なりたい自分になる。理想の自分に近付く。明日は、その第一歩だと思っていた。
「じゃあ、これから寝るまで何しようか?」
陽向が聞いてきた。
いつもなら、ジムワークを終えて帰宅し、勉強をする。でも、今日はそんな気分にはなれない。
「とりあえず、バイト先に電話する。明日は休むって」
バイト――朝刊の配達。
「いいの? どうせ飯田先生に会うまで翔太と一緒にいなきゃいけないんだから、手伝うけど?」
「いいよ。今日はのんびりゲームでもして、眠くなったら寝る。昔やった人生スゴロクとか、まだあるか?」
人生スゴロク――人の一生になぞらえたイベントをこなしていく、ボードゲームだ。正月など、親族一同が集まる場の定番として有名なゲーム。
「うん。ベッドの下。埃被ってるだろうけど」
「じゃあ、久し振りにやるか。バイト先に電話するから、用意してくれるか?」
「うん、いいよ」
翔太はスマートフォンでバイト先に電話をし、発熱を理由に休むことを伝えた。今まで一度も欠勤したことがないせいか、驚くほど心配された。
陽向がベッドの下から出したゲームは、予想通り埃をかぶっていた。
小中学生の頃に二人でやった、人生スゴロク。久し振りにすると楽しかった。サイコロを振って、コマを進める。止まったマスで、トラブルが起こる。幸運な出来事も起こる。
ゲームの中だからこそ笑える、大きなトラブル。人生が大きく変わる出来事。
楽しみながらも、翔太は分かっていた。
ゲームではない現実で、明日、大きく人生が変わる。決して笑えない現実。友人が殺された事実。好きな人が吸血鬼かも知れないという、胸が痛くなるような可能性。
ゲームのように楽しめはしない。だが、ゲームのように前に進まなければならない。
目標に辿り着くために。目的を達成するために。
緊張しながらも、翔太は腹を決めていた。
次回更新は1/19(木)を予定しています。
物的証拠も絶対的確証もないものの、翔太は詩織が吸血鬼だと考えています。
好きな人が吸血鬼。
好きな人に手を差し伸べたい。
そのために、国家の機密に足を踏み込もうとしている。
犠牲を払ってまで機密に踏み込む、翔太の意図。
機密に関わることが、どんなふうに吸血鬼を救うことに繋がるのか。
詩織はすでに自棄になって暴走し、翔太も動き始めました。
彼等の距離が近付いてきています。
どうかこの先も、よろしくお願いいたしますm(_ _)m




