第9話「お迎え」
畳の上に布団を敷いて、眠ったままの雉子を移動させ、治療に取り掛かる桃太郎。
(先生……)
傍らで見守る犬吠埼と猿爪。
本来見えるはずのない部分の剥き出しになった傷口は、遠目には気にならなかったが近くで見ると痛々しい。
先ずは右手の皮膚の治療。周囲の皮膚からの再生を試みる。
略拝詞を唱え、大幣を左・右・中央・患部。
「治癒」
やっている事としては犬吠埼の擦り傷を治した時と同じだが、範囲からして広く、深さも皮膚に止まっていない感じで、時間がかかっている。
15分ほどが経過し、キレイな状態に戻った。
一度、桃太郎は小さく息を吐き、続いて左手。
こちらは床材の細かな破片が刺さってもいたため、ピンセットで除くところから。
全て除去したことを注意深く確認し、
「治癒」
あとは右手と同じに治療していく。
そこからはやはり15分ほど。
元に戻った左手を、先に治した右手と見比べたり何だりしてから、頷き、今度は右手を終えた時より少し長めに深く息を吐いた。
そしていよいよ、素人目にも大変そうな下唇に着手。
本体と、噛み切り離してしまったほう、それぞれの断面の観察から始める。
下唇のあったはずの位置に、離れてしまった下唇をそっと置き、大幣を左手だけで持って左・右・中央、自身の右手へ。
「縫合」
大幣を背中の定位置へ差して両手を空けると、雉子に覆い被さり気味に、左手で顎と下唇を支え、右手人指し指を向けた。
目を凝らし、慎重に慎重に、繊細な指先が断面と断面の間を行ったり来たり。時折、糸のようなものが光る。
桃太郎は、最小限と思われる語を唱えた以外、無言。これまで目にしてきた治療の場面では喋りながらだったのだが、それだけ大変ということなのだろう。汗が滴る。
汗をかいているところなど、初めて見た。
猿爪が、手近にあったタオルで遠慮がちに拭う。
*
下唇の治療を始めてから1時間が経過した。
手を止め、大きく息を吐きつつ身を起こす桃太郎。
(…え……? これで終わり……? )
雉子の下唇は、元の位置に一応くっついているといった感じ。ガタガタだ。
(…まあ、先生が自分でやってしまったことだから自業自得だけど……。目が覚めたらショックを受けるんじゃ……? )
犬吠埼の不安を他所に、桃太郎は手応えを感じているような表情。
大幣を手に取り、左・右・中央・雉子の口元。
「治癒」
10分ほどで、ガタガタしていたのがスルンと滑らか、完全に元通りに。
(…よかった……! あれで終わりじゃなかったんだ……! )
犬吠埼はホッとする。
その時、
(……? )
広縁のいつもの場所の安寿が不意に立ち上がった。
雉子の死んだ日以降、犬吠埼が安寿の立ち上がるのを見るのは初めて。食事も、いつも誰かしらが目の前まで運んでいたから。
先刻の雉子を眠らせた手を伸ばしただけの動作でさえ、ここ暫くの中では大きな動きだった。
夜の闇に沈んだ外との境界である黒い大窓を、ただじっと見つめる安寿。
ややあって、ガガンッ! ガシャンッ!
大窓が大きな音を立てて勢いよく開き、もともと建て付けが悪いせいもあってか外れ、倒れてガラスが割れる。
(っ? )
同時、梅雨時期のぬるく湿った風が、ブワッと吹き込んだ。
犬吠埼は腕で風を防ぐ。
音のためか風のためか両方か、目を覚まし起き上がる雉子。
いつの間にか濡れ縁に、歳の頃30代前半くらいの和装・黒髪の華奢な男性が立っていた。
犬吠埼の全身表面に、蜘蛛の巣が纏わりついた感触。
「ダメッ! 」
悲鳴に近い声を上げ、両腕を広げて、男性の前に立ち塞がる安寿。
纏わりつく感触が消える。
男性は、へぇ……と感心した様子。
安寿は男性を見据え、
「アンのこと、お迎えに来たんでしょ? お父さん」
(お父さんっ? …アンちゃんの、お父さん……? )
フッと笑いを漏らし、それを消化してから、
「話が早くて助かるよ」
しっとり落ち着いた声で返す男性。
安寿は頷き、
「ひとつだけ、聞きたいことがあるの」
「うん、何? 」
安寿は、どうやら次の言葉を躊躇っている。
男性は優しい眼差しで待つ。
見た目に明らかに、安寿は、言おうとして、やめて、言おうとして、やめて、と繰り返し、ようやく思いきったように、
「…アンが……、アンが一緒に行ったら、嬉しい……? 」
「もちろん」
甘やかな笑みと共に即答する男性。
無事に残っている窓に映る安寿の口元が、照れたように嬉しそうに緩んで見えた。
「じゃ、行く」
言って、安寿は男性のすぐのところまで歩み寄り、右手で男性の左手中指だけをキュッと握る。
男性は愛しそうに安寿を見下ろしながら、踵を返した。
連れ立って、ゆっくりと濡れ縁の向こうの闇へと向かう安寿と男性。
(…本当に、行っちゃう……? )
桃太郎に目をやる犬吠埼。
桃太郎は目を見開き小刻みに震え固まっている。
数歩、歩いて立ち止まり、安寿は後ろ姿のまま、
「桃太郎、今までごめんね」
それから、キュッと男性の指を握りなおし、また歩き出す。
(…『ごめんね』って……。アンちゃん……)
桃太郎と安寿、どちらの立場にも悲しい言葉が、犬吠埼の胸を詰まらせた。
と、
「待って! 」
雉子が立ち上がりざま、安寿に向かって叫び、駆け出す。
「『ごめんね』って何っ? まだ10歳のアンチャンに、自分のせいなんてひとつも無いわよっ?
アンチャンが本当にお父サンと行きたいなら別に止めないけど、ちょっとだけ待って! もしかして、って思うから伝えておきたいことがあるの! 」
既に濡れ縁から降り、闇に翳む小さな背中。
「世界が自分を爪弾きにしてるって感じても、それは気のせいよ! アンチャンは誰かの世界の隅っこにいさせてもらってるわけじゃない! いつだってアンチャンの世界の中心にいるの! だから、こんな世界って泣くより怒って! 他の誰を嫌って恨んでもいいけど、アンチャン自身のことだけは嫌いにならないで! 本当に大事なところは我儘でいいの! 後悔するから! だって自分の人生だもの! 自分を縛ってきた何もかも、責任なんて取ってくれないんだから! それにね、自分を一番縛っているのって、結局自分だったりするものよ!
私は、この歳になって気づいて、でも勇気が無くて縛られ続けて、アンチャンが力尽くで解放してくれてやっと、初めて自分を生きてる気がするの! 」
追いかけて濡れ縁を降り、早口の大声でひと息に喋って、そこまでで一旦切ると、より大きな声で、
「ありがとう! アンチャンと出会えて、私、幸せよっ! 」
再び立ち止まり、驚いたように振り返る安寿。
男性も、少し頭を傾ける程度に振り返った。
刹那、犬吠埼は、とても嫌な感じがした。
先程の蜘蛛の巣の感触を思い出す。
(…先生……! )
漠然としているが強い不安感に、突き動かされるように犬吠埼は走り、雉子へと全力で右手を伸ばした。
一瞬早く、
「先生! 危ないっ! 」
猿爪が濡れ縁の縁を蹴って割り込み、雉子に飛びついて自身と位置を入れ替える。
直後、
(っ! )
感触のみの蜘蛛の巣の網目サイズに刻まれ、犬吠埼の右腕と猿爪の全身が地面に崩れ落ちた。
痛みは大して無いが、さすがに気を半分取られる中、安寿と男性が静かに融けるように闇へ消える。
(アンちゃん……! )
闇が周囲を、初めは薄く、次第に濃く、黒い霧のごとく覆う。
犬吠埼から最も遠くにいた桃太郎の姿が見えなくなり、次に雉子。自身の腕と猿爪の肉片も紛れて消え、全てが呑まれた。
「犬吠埼君っ! 」
慌てた様子で黒霧を掻き分け視界に現れた桃太郎。
しかし、すぐにまた呑み込まれていった。




