29話 候、帰宅せり
ブラッドフォード候が狩りから帰ってきたのは、日の暮れた夜のことだった。
候は、狩りに従者を連れない。一人で、ひそかな楽しみとして狩りを行う。その狩りのやり方を知る者は、家族、従者を含めても、候本人ただ一人だ。
だから別邸に帰ってきた時、候は一人でエントランスの扉を開いたし、別邸に連れてきた数少ない使用人の内、出迎えた使用人がシャーベット一人だったことに、特に不満は抱かなかった。
「お帰りなさいませ、御屋形様」
「うむ、ご苦労。……?」
そこで、候は妙な臭いを嗅ぎ取って、鼻を鳴らした。しかめっ面をして、鼻の前でパタパタと手を振る。
「シャーベット、このエントランスの掃除係は誰だ。いや、誰でもいい。この臭いは何だ。妙な、焦げ臭い。何だこれは」
嫌な臭いだった。だが、何処かで嗅いだことがある臭いだ。どこで、と思うが、思い出せない。
「も、申し訳ございません。バーニアス様のボヤの掃除が、まだ完全に終わっておらず、その臭いかと」
シャーベットは言って、腰を折った。候はしかめっ面のままだが、「まったく」と息をつく。
「あの放蕩息子には困ったものだな。それでいて魔法の才能にはめっぽう恵まれているのだから、天というものは残酷だ」
「……」
シャーベットは微笑みを浮かべたまま、一礼する。候は荷物をシャーベットに渡しながら、声をかけた。
「片づけておいてくれ。それと、すぐに夕食を。この中に血抜きをした鹿肉が入っているから、ステーキでも焼いてくれ」
「承知しました。その前に、バーニアス様が、御屋形様に大広間に来てほしい、とおっしゃっていました」
「ふむ。それは……何の件だろうか。バーニアスはワガママだからな。また何か買って欲しいとでも言うのだろうが」
候は僅かに首を傾げて考える。だが、元々何を考えているのか分からないような息子だ。考えても詮無きことだろう。
「ローズティアラは」
「ローズティアラ様は、特にお変わりありません。今日も庭園で過ごしておりました」
「そうか。どうせ嫁に出す身だ、大人しくしていてくれればいいだろう。ブラッドフォード家として恥ずかしくない程度の魔法は覚えさせたし、特に言うことはないな」
では、愛する我が息子が呼んでいることだ。言う通り、大広間に行こうではないか。
候は二階奥の大広間へと向かう。通常、飾り付けて舞踏会でも開くような部屋だ。普段は特に何も置いておらず、だだっ広いだけの部屋。
候は大広間の前に到着し、扉を押し開いた。大広間は暗く、しかし大窓から月光が差し込んでいる。
「バーニアス? どこにいる。今日のお前は、一体何を企んでいる?」
僅かに笑いながら、候は大広間の奥へと進んでいく。半分より少し過ぎた辺りまで到ったところで、バタン、と扉が閉まる音がして振り返った。
影。背格好がバーニアスに近かったから「何だ、外で待ち構えていたのか」と声をかける。だが、影は無言で近づいてきて、何かおかしいと候は気づき始めた。
「……貴様は、誰だ……?」
影の姿が、月光に照らされ明らかになる。その正体に、候は目を剥いた。息が止まる。心臓が跳ねる。
十年経っても、すぐに分かった。面影のある顔、立ち振る舞い。
「何故、何故、お前がここに居る、ブレイズ……!」
一歩、候は後ずさった。ブレイズは剣を片手に近寄りながら言った。
「お前を殺しに来た、ブラッドフォード候」
「……ふ、ふふ、ふははははっ。それは、そうか。そうだな。私がお前の命を狙ったのだ。ならば、それを止めるのなら私の命を止めようと考えるのは、自明か」
当たり前のことを言われて、候は冷静さを取り戻した。我ながら、バカな問いをしたと思う。
「しかし、良くここまでこぎつけたものだ。ここに私を誘導したのは、シャーベットか。ああ、そういえば、お前付きのメイドだったな、シャーベットは」
「……」
ブレイズは、無言でゆっくりと歩を詰めてくる。圧力。久しく感じていなかった、敵から感じとるその手の感情。候はごくりと唾を飲み下し、そして気付いた。
ブレイズが握る剣。魔剣ティルヴィング。奴の持っていた、忌まわしき剣。
それが、候のトラウマを、一気に蘇らせた。
「―――ッく……!」
総毛立つ。手が震えだす。ブレイズが言う。
「父を、俺の実父、オヴィポスタ伯を殺したそうだな」
「ふ、山籠もりをしていたお前が、どこでそんな情報を得たのか……。殺しに来たのは、その復讐か? それとも刺客をけしかけたからか」
「どうでもいい。そんなことは、些事だろう。俺が殺し、お前が死ぬ。それ以外に、重要なことなどあるものか、ブラッドフォード候」
「……そうだな。お前が、私を殺しにここに立っている。それ以外は、小さなことだ」
候は、懐から杖を取り出す。竜血樹の短杖だ。
「しかし、私の家で私を襲うのだ。まさか、助けを呼ぶことが念頭にないとは言わせんぞ」
杖を簡単に振るう。杖の先から血のような樹液が垂れ、地面に落ちた。その樹液は顔のように変化し、この屋敷の全ての部屋に分身を生み出す。
「侵入者だ! 恐らく強敵であることが予想される! 暗器は全員、バーニアスも来なさい!」
言う。顔のように変化した真っ赤な樹液は伝達を終えて、乾いて粉々になった。「さて」と候は言う。
「これで、すぐに味方が駆けつけてくるという訳だ。暗器の内の何人かは殺したのだろうが、残りすべて、そして何よりバーニアスは一味違うぞ」
勝ち誇って、候は言い放つ。それから笑みを湛えて奴を見ていると、ブレイズは言った。
「全員殺した」
「……何?」
「暗器十人全員。ローズティアラ。バーニアス。全員殺した。ベティ以外全員を。だから、誰も来ない」
ブレイズの言うことが、候には理解できなかった。殺した。誰が、誰を。
数秒を要してやっと理解した候は、笑う。
「バカバカしい。そんなこと、出来るはずがないだろう。暗器は、分からなくもない。ローズも、まぁ殺せたとしよう。だが、バーニアスを殺せるものか。奴は天才だぞ」
「殺したものは、殺した。お前が信じるかどうかは、どうでもいいことだ、ブラッドフォード候」
「……」
その言葉で、候の脳裏に不安がよぎった。まさか、と思う。バーニアスが死ぬわけがない。だが、先ほど、何かおかしなことはなかったか。何か、何か違和感が―――
「ぁ」
候は、そこで理解が追いつき、震える。エントランス。シャーベットがバーニアスのボヤと言った、焦げ付くような臭い。
アレは、人間の肉を焼いた臭いだ。死体を焼いた悪臭だ。
「まさ、まさか。あの、あのエントランスの臭いは」
「バーニアスの火の魔人」
バーニアスを知る人間でなければ、知らないはずの魔法の名前を、ブレイズは口にする。
「それに、バーニアス本人を焼かせた。あの後しばらく放置したから、その悪臭がエントランスにこびりついていて困った」
「……本当、なのか。本当に、お前は、バーニアスを殺したのか、お前は、お前は……!」
候の全身が震える。信じがたい。信じたくない。信じられない。だが、ならば何故誰もここに来ない。誰も領主たるブラッドフォード候の呼びかけに応じない。
ブレイズは、言う。
「お前を殺す前に、一つだけ聞きたいことがある」
「は……」
「何故、俺を育てようと思った。俺の実父、オヴィポスタ伯は、お前にとって恐ろしい男だったはずだ、ブラッドフォード候。オヴィポスタ伯を殺して、それで終わりではないのか」
「……」
候の中で、どす黒い感情が湧きあがるのが分かった。ブレイズを引き取ったあの時、何を考えていたか。自らの子供たちに、ブレイズが虐められているとき、候は何を思っていたか。
候は、嗤う。
「奴の痕跡の、あらゆる全てを消し去ろうと思ったのだ」
それに、ブレイズは視線を険しくする。候はすでに、感情的におかしいことになっている。
かつてのほの暗い望み。今の全てを失った悲しみ。それがない交ぜになって、候は壊れかけていた。
「あの時、私は奴の全てを消し去ってやりたかった。恐ろしかった。奴を殺してなお、奴の痕跡が残っていることが許せなかった。―――そんな折、お前を見つけたのだ、ブレイズ」
候は、血涙を流しながら続ける。
「お前は、才能があった。剣の才能が。すでに奴から叩き込まれた実力が。それを見て、私は恐ろしくなった。このままでは、また奴が生まれる。あの狂った剣聖が、再誕してしまう」
だから、と言いながら、候は自らの顔に爪を立てた。ああ、何故、何故死んだ、バーニアス。何故父を置いて先に死んだ。ガリガリと候は自らの顔を削る。顔に何筋もの血が流れる。
「だから、その剣を折ろうとしたのだ。またあの剣聖が生まれぬように。魔法の教育を受け入れ、剣を忘れ魔法に生きるのならそれでもいい。だがお前は剣を望んだ」
血。血が流れる。候の魔法の媒体。ぽたぽたと地面に垂れる。
「お前が出ていくと言った時、これに乗じて殺してしまおうと思った。魔剣は、その場に埋めてしまえばいい。だがお前は魔境山に登った。追ったが、追い切れなかった」
ひ、と候は笑う。ひ、と候は泣く。血涙を流し、引きつった笑いを浮かべる。
「死んだものと思っていた。だがお前は生きていた!」
候は、杖を構える。それだけで、竜血樹の杖は周囲の血を操った。零れ落ちた自らの血。それが周囲に浮かび、棘を作っては丸くなるを繰り返す。
「だから、お前はここで殺さねばならない。死んでくれ、ブレイズ。狂った剣聖の子よ。私は、お前が怖いのだ。お前が憎いのだ。お前が、お前がお前がお前が」
ブレイズは、鋭い視線で見返してくる。
「狂っているのはお前だ、ブラッドフォード候。お前を斬り殺し、俺は好きに生きる」
「……好きに生きることなど、お前にはできない。お前に流れる血が、それを許さない」
ブレイズは剣を構え、候は杖を構えた。月光が差し込む部屋で、二人は静かに激突する。




