第232話 ワ・ライラ 八
「オレは誰なんだろう」
記憶をなくして、梨の果樹園で生まれた。
名前は、憶えている。マキビ……それが本当の名前という実感がある。梨太郎というのは、おじいさんにつけてもらった名前だ。
気に入っているか、気に入っていないかは、判断が難しい。
そもそも彼は何かを気に入ることも、何かを『気に入らない』と思うこともなかった。
何も嫌いではない。何も好きではない。
なぜなら、『自分』がないから。
「オレは、オレだ。でも……じゃあ、『オレ』って、なんなんだろう」
それがわかれば苦労はしない。
わからないからこそ、故郷を求めた。家族を欲した。
『ここが、オレの属するところです』と胸を張って言いたかった。──アイデンティティを求めた。
たとえば最初に救いの手を求めたのが悪人であれば、梨太郎は悪になっただろう。
たまたま、善い人たちに助けを求められた。だから、善い方向に生きて来た。……いや、きっと、善悪ではないのだ。侵略に来る異界の怨異にもそれぞれの物語があって、仕方ない事情があって、同情すべきバックボーンがある。そちらに肩入れする者だって、いるのだろう、たぶん。だからこれは、『どの陣営か』という程度の話にしか過ぎない。
「オレが、オレの意思でしたことなんか、一つでもあったのかな」
誰かの願いを叶えることだけをしてきた。
それはしかし、『誰かの願いを叶えたい』という意思でさえなかった。『頼まれた。余裕があった。だからやった』。そのぐらいの話だ。
命を懸けたこともあった。少なくない時間を費やしたことも、もちろんあった。
それでも余裕はあったのだ。だって、『自分の時間』が必要なかったから。余暇に何をしたらいいかわからない。自分の好みがわからない。自分は何が好きで、何をしていると安らいで、何を楽しんで、何を愛するのか。……わからない。何も、わからない。
……でも。
「……でも、オレは……オレは、なんで、■■■■ちゃんに、『本当の名前』を教えたんだろう」
梨太郎と名付けられて、梨太郎と呼ばれた。
気に入っている名前ではなかった。気に入らない名前でもなかった。ただ、自分の名前のように感じられなかっただけだ。
でも、おじいさんも、おばあさんも、みんなも、自分を梨太郎と呼んでくれて、それを気に入ってくれているなら、別にいいかと思っていた。
だっていうのに、なんで、自分は、こっそりと、本当の名を、彼女にだけ明かしたのだろう?
「…………■■■■ちゃん」
すでに実在しない梨の果樹園。
その木々の間に立つ、金髪の、狐の耳と尻尾を生やした半獣人。
彼女は微笑んでいる。
だが、その微笑みは、優しく笑いかけてくれているようにも思えるし、同情しているようにも見えたし、何かを悲しんでいるようにも見えた。
わからない。
幻影の中の彼女は、何も語らない──
──景色が、移り変わる。
寒々しい砂漠の夜だった。
朽ちた木材に火をつけて確保したぬくもりと明かりを挟んで、梨太郎は彼女と向かい合っている。
「マキビくん、あなたはどうして戦うの?」
彼女が問いかけて来る。
どうして戦うのか。……この当時、自分はなんと答えただろうか? もはや記憶は砂粒となって、もとの形を保持していなかった。
「……オレは、戦いは嫌いだな」
だからマキビは、心に浮かんだ言葉を、ゆっくりと口にした。
強く触れば崩れてしまいそうなほど脆い『自分の正直な気持ち』を掘り返して人に告げるのは、大変繊細で、慎重さの求められる重労働だった。
「オレは、故郷と家族が欲しい。……どこかに属して、誰かの仲間になりたかったんだ。オレは──戦いは嫌いだけど、誰かのための戦いは、好きだったんだと思う。オレはやっぱり、人の笑顔が好きなんだよ」
「だから、戦うの? 記憶も意思も願いもすり減らして、『九尾の呪い』を私と分け合って」
「……ああ、そっか、そうだった。そうだったね。オレが永遠の戦いを選んだのは……ああ、うん、そっか。……あのね、玉藻之前ちゃん、オレはさ、キミの負担になりたくなくって、嘘をついたんだ。すっかり忘れてたよ」
「嘘?」
「うん。……キミが一人で永遠を生きるのを、見てられなかったんだ。だって、キミ、苦しそうだったじゃん」
「……」
「でもさ、正直にそう言うと、キミは、キミの背負った『永遠に美しい』という呪いをオレに移してはくれなかっただろ? キミは、キミの永遠に他人を巻き込むことを嫌ったからさ。……オレさ、ようやく一つ、見つけたよ。『自分』のこと。確信出来る、はっきりとした──『オレ自身』」
「何を、見つけたの?」
「嫌いなもの」
「……」
「オレは、人が苦しそうな顔をしているのは、嫌いだな。つらそうにしている人を見ると、見てられなくなるんだ」
マキビは砂を掬って、ぱらぱらと落とす。
鳥取砂漠の砂は乾いていたが、冷たかった。その冷たさは、濡れたような感覚を想起させる。
「故郷が欲しかった。家族が欲しかった。アイデンティティが欲しかった。これは、嘘じゃない。おばあさんと、おじいさんのために、緑豊かな鳥取にしたかった。……これも、嘘じゃない。そのために休んでる暇もなく、ずっとずっと戦い続けなきゃいけないから、永遠の生命が欲しかった。これも嘘じゃないんだ。でも、キミの苦しみを分けて欲しくて──キミの『永遠』は孤独じゃないんだって言ってあげたくって、キミの呪いを分けてもらった。これも嘘じゃない」
「どれが、一番強い願いなの?」
「どれも、一番強い願いだった」
「……」
「でもさ、最初にはどれも大事なものだったのに、時間が経って、記憶が薄れていくうちに、なんだか『一番』とか『唯一』を決めなきゃいけないような気分になっちゃってさ。……なんて言っても、わかんないかな。ようするに──『一番』を決めないと、自分がブレるような気がして、それで、いろんなものを『二番以下』に格下げしちゃったんだよ」
アイデンティティ。
『何が一番大事なのか?』というのを、生きていると、言外でも言葉でも問いかけられる。
最も大事にするものこそをアイデンティティと人は思いがちだ。『これとこれ、どちらかを捨てないといけないとしたら、どっちを捨てる?』という問いかけによって、己のアイデンティティを掘り下げられると思う人は多い。
だが、それは間違いだ。
「全部、『一番』で良かったんだ。たくさんある願いの強さを証明するために、自分の願いでトーナメントをして、『これと比較したら、これはゴミだ』なんて決めちゃう必要は、まったくなかったんだ」
『自分自身』は何かを削ぎ落した先に存在する一粒の宝石、ではない。
いろいろなものを背負って。
いろいろなものを取り込んで。
いろんなものを、呑み込んで。
一番だなんて決められない、たくさんの大事なものを両腕に抱えて、初めて形成されるのが、『自分自身』だった。
「オレは、オレのことを一言じゃ言えないよ。きっと、みんなもそうだ。そんで、たぶん、それで良かったんだと思う」
「マキビくん」
「オレはマキビだし、梨太郎でもある」
「どっちで呼べばいい?」
「キミの好きに呼んでくれよ。キミの中のオレに沿うように。きっと、いろんな人の中に『オレ』はいて、みんながオレに望むように、オレとかかわる。そんでもって、みんなの中の『オレ』を全部まとめたものが、『オレ』なんだと思う」
「マキビくん、あなたの欲しいものは、見つかった?」
梨太郎は、目を閉じ、しばらく、炎が薪を爆ぜさせる音に耳を澄ませた。
荒涼とした砂漠に風が流れる音がする。
目を開く。
すると景色は、果樹園に変わっていた。
おじいさんがいて、おばあさんがいて。
おばあさんのそばに、彼女がいる。
村の人たちもいる。
みんなが、いる。人生でかかわった、みんなが。
みんなが、呼びかけて来る。
……声が混ざって、何と呼ばれたのか、わからなかった。
だから梨太郎は、笑うのだ。
「欲しいものは見つかってない。最初からあった。だって、よく考えたら、オレはとっくに、立って歩いてた。立って歩いてたなら、そりゃあ、足元には地面があるよな。……そんな簡単なことに気付けないまま、長生きしちゃったみたいだ」
「生きたことを、後悔している?」
「心から正直に言うよ。──全然、後悔してない!」
「……」
「最初から故郷が足元にあったことに気付けたのは、長く歩いてから振り返ったから、だよ。……キミを慰めるためじゃない。オレは、オレをここまで歩かせてくれたキミに感謝をしてる。本気だ。すり減ったし、疲れたけど、それも含めて、後悔だけは、してない。絶対に」
「……そう」
「だからさ、一つだけいいかな」
「なぁに?」
「キミはもうちょっと、生きてくれよ」
「……」
「この呪いは確かに『死ねる』けどさ。……長く生きると、すり減って、疲れて、うっかり休みたくなっちゃうけどさ。オレたちの生きた時間はあんまりにも長いけどさ──オレは何年生きても、キミに生きて欲しい。長い人生に絶望しないでくれ。寿命がどんだけあっても、生きることは素晴らしいって、やっぱりオレは、思うよ」
彼女は、微笑んだ。
「それなら大丈夫。私は、マキビくんより、よっぽど人生を謳歌してるし、すり減ってもいないよ」
「そっか」
「かわいい孫もたくさん出来たしね」
「そ、そっか」
「だから、私のために戦いを続ける必要は、ないからね」
「……」
「あなたの旅の終わりは、あなたが決めていい。私は──もう、人生に絶望なんかしないから。永遠に生きて、永遠に恋をして、永遠に……子供や孫を増やし続けるから」
「……笑っちゃうほど強いな、キミは」
「知らなかった?」
「いや、知ってた気がするよ。……うん、ああ、そっか。そうだったんだ。オレはさ……全部を見下してた。全部、なんだかんだ言って、オレより弱いと思い込んでたんだ。──ああ、そっか。オレ、『強いこと』を誇りに思ってたのか」
梨太郎は、割れた仮面の下に晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
「……なら、オレの旅は、オレが負けるまで終わらない」
手にした大剣を空に掲げる。
「……長く歩いてきたからさ、『辞めたい、辞めよう』っていうのもやっぱ、何か違うじゃん? ピリオドは欲しいよね。辞める理由が。辞めるための契機が。だから、オレは戦って、戦って……負けた時に、辞めることにするよ」
「マキビくん」
「何?」
「なんだかんだ言って、戦い、好きだよね」
梨太郎は仮面越しに頬を掻く。
そして、照れたように、
「……そうだね。殺し合いじゃなくて。誰かの願いを踏みにじる戦いでもなくて。……ただ、全力で、何も背負わずに戦うんなら──案外、好きかも」
空に向けて、つぶやいた。




