エピローグ~ずっと続くもの~
「ただいま」
帰宅したハルを出迎えたのは、最近お腹が目立ち始めたトーナであった。
彼女はトタトタと小走りで近寄って、ふわりとした笑顔で愛する夫の頬に軽く接吻をした。
「お帰りなさい、あなた――あっ、ん!?」
だが、ハルは迂闊に近づいてきたトーナの腰にさっと片腕を回してぐいっと引き寄せると、強引に彼女の唇を奪った。
「んっ、やっ、だめ……」
トーナは両手をハルの胸に当てて押し退けようとしたが、非力な彼女に抗えるわけもない。トーナが抵抗できないのにつけこんで、ハルは好きなように花唇を蹂躙していく。
ひとしきり愛妻を堪能できて満足したハルは、トーナを解放したのだが彼女からは恨みがましい目で睨まれた。
「もうっ、マーレが見てるのよ!」
「両親が愛し合っているのは子供にとっては良い事さ」
もっとも、身長差があるトーナに下から睨まれると上目遣いにしか見えず、俺の奥さんは可愛いなと思わせるだけで、ハルに反省を促すには至らなかったが……
「パーパ」
その時、足元から愛くるしい声が聞こえてきてハルの相好が盛大に崩れた。
最近ハイハイから脱却し、家の中を歩き回るようになった愛娘のマーレだ。
「ただいま、マーレ」
「パーパ、パーパ」
両手を広げて自分に向かってくる一歳になったばかりのマーレを、料理を持っていない空いている方の腕で軽々と抱えあげると娘はきゃっきゃと喜声を上げた。
「あなた、その手に持っているのは?」
「ああ、デリスさんの料理だよ。今日はこれを夕食にしよう」
「もう……私ならまだ大丈夫なのに」
昔から変わらぬ夫の過保護ぶりに呆れたが、それでも自分を溺愛してくれるのはやはり嬉しい。苦情を呈してむくれてみせながらも、その表情はどこか嬉しそうであった。
ファマスにいた頃の彼女は今のような柔和で穏やかな表情ではなかった。
迫害されていた影響だろうか、少し張り詰めた厳しい顔つきをしていた。
ファマスでは迫害を受けながらもトーナは祖母の薫陶を胸に薬師としての矜持を持って強く生きていた。
だから、当時のトーナは自分を不幸だとは決して認めないだろうし、実際にファマスにおける思い出も今の彼女を構成する一部なのだろう。
「まあまあ、せっかくデリスさんが用意してくれたんだ」
「分かってるわ……ありがとう、あなた」
夫の気配りに、はにかみながら感謝を述べる妻の姿は、ファマスにいた頃には想像も出来ないものであった。
料理をテーブルに置いたハルは、愛娘を抱えたままトーナを引き寄せ頭を優しく撫で摩る。トーナはそれをすんなり受け入れると愛する夫の胸に身を預けた。
マーレが間近に迫った母にはしゃいで手を伸ばすのでトーナもそれに応える。
何と言う事もない一般家庭の穏やかな団欒。
「こういうの良いよな」
「ええ……」
家族三人……お腹の子を入れれば四人が団子になってお互いの温もりを確かめ合う。
本当に他愛もない家族のひと時。
だが、それだけに何よりも尊い。
「なあ、トーナ……」
「ん?」
この細やかな幸せの中で、ハルは少し迷っていた。
先ほどワッケンから聞いたファマスの顛末をトーナに伝えるべきかどうかを……
「どうしてこの街に住もうと思ったんだ?」
「急にどうしたの?」
突然投げかけられた夫からの質問にトーナは不思議そうに見上げた。
「いや、何となくな……あの時、ファマスから可能な限り離れようとしていただろ?」
追放された後、二人は東へ東へと急き立てられるように進んだ。
きっと、黒い髪と赤い瞳の呪縛からトーナは逃げ出したかったのではないかとハルには見えた。
「そうね……この髪と瞳を忌避されていたから、そんな価値観から……その呪いから……出来るだけ距離を取りたかったのだと思う」
ところが、この街で人々と触れ合うと、彼女はすんなりとこの地に居座ってしまったのだ。
「あなた、この街に着いた時の事を覚えてる?」
「忘れようがないさ。宿を探していたら、あのボルグさんが大通りで助けを求めて泣き叫んでいたよな……」
それこそ先ほどまでいた、ボルグの宿の前での出来事であった。
妻のデリスが急に倒れてしまったと、ボルグが大慌てしたのだ。
運が悪く彼らが掛かりつけとして懇意にしていた医師も薬師も不在で、それがボルグをいっそう動揺させた。
そこに通りかかったのがハルとトーナだった。
これこそ天の配剤。
ボルグは額を地につける勢いでトーナに治療を懇願したのだ。
今この場で救える治癒師は自分だけだからと、トーナは治療を承諾した。
ただ、この地にどんな生薬があるか知らないトーナは、ファマスから持ち出した薬剤のみでの対処したので十分な治療とは言えなかったが……
その後、ボルグが懇意にしている薬師の老人エイザンがやってきてトーナの治療に感心したのが縁で彼女はこの街の薬師になったのである。
エイザンに師事したトーナだったが、あっという間に知識を吸収してしまい、その才能に師であるエイザンは舌を巻いた。
エイザンはかなり破天荒な性格で、トーナに教える事がなくなると年齢を理由に引退してトーナに自分の薬方店と患者を押し付けるように引き渡し、自分はさっさと田舎に引っ込んでしまったのだ。
そんな経緯で街に居着いてしまったと言うわけである。
「だけど、出て行こうと思えば出て行けたし、ここに留まる理由もなかったろ?」
最初に診たデリスもエイザンが往診に来た時点で引き渡すのも可能であったし、無理にエイザンについて学ぶ必要もなかった筈である。
「私もね、最初はなんとなくだったの……」
ハルに抱かれたトーナは安心しきった様子で彼の胸に寄り掛かった。
「ボルグさんやデリスさん、それにエイザン先生に流されたと言えばそれまでなんだけど……マーレを産んで……育てて分かったの」
述懐しながらトーナは隣の夫の腕の中でいつの間にか寝入ってしまった愛娘の夫と同じ白銀の頭を愛おしそうに撫でる。
「マーレを取り上げてくれた産婆のベルタさんは、今でもこの子を気に掛けて……いいえ、あの方は自分が取り上げた全ての子供を今も見守っていらっしゃるわ」
ベルタは百回近くもの出産に立ち合った経験を持つ熟練の産婆である。
取り上げた子供を我が子や孫のように何かと気に掛けており、マーレの子育てにトーナは随分とこの老婆に助けられた。
「子供は産んで終わりじゃない……その後も子供達の人生は続くの……そして、それは患者も同じ」
「患者も……同じ?」
「ええ、私たち治癒師はどうしても患者の病気を治す事を最終目標としてしまう……」
治癒師はそれが仕事なのだから当然ではないだろうか、そうハルは思ったが話の続きを黙って聞いた。
「でも、患者を病から救ったらそこで終わり……ではなかった」
トーナは語る――
病が癒える、もしくは不幸にも亡くなってしまう……それは患者にとって終着点ではないのだと。人々が生きていく中で病は一つの通過点でしかなく、人生はその先も続くのだと。
「今までたくさんの患者を診てきて、多くの病を治療してきました――」
ファマスでも、この街でも、彼女はその才能で数多の患者を救ってきた。
その現場の幾つかをハルも目の当たりにしている。
いつも自分の奥さんは凄いんだと自慢したくなる。
「――多くは無事に治療を終えましたが、中には助かっても大きな障害を抱えた方、力及ばず亡くなってしまった方もいます」
「しかし、それはトーナの責任では……」
どんなに優秀な治癒師でも全ての患者を救えるわけではない。
救いの手から溢れ落ちた患者に対してトーナが負い目を感じているのではないか、彼女の責任感の強さにハルは心配になった。
「もちろん私はどんな患者でも救えると思うほど思い上がってはいません。ただ、治療が終わったその先にも患者やその家族には続く人生があるのを忘れてはいけないと思うの」
闘病の末に訪れた理不尽な結果で、重い障害を抱えた患者も残され悲しみに暮れる遺族も、みんなその後に人生が続いている。
それを見ずに病を診ていては、理不尽に振り回される患者やその家族の苦しみを無視しているのと同じ。
治癒師は彼らの続いていく人生を見据えて病を診て、患者や家族と向き合っていく、そんな支える治療をする必要がきっとある……
「診るのは病ではなく人なのだと仰ったお祖母様の真意がやっと分かりました」
己が到達した境地を語る妻の吹っ切れた表情を眺めて、ハルは追放後のファマスでの出来事を伝えない方が良いと判断した。
今この地に妻の患者がいて、彼女はその人々と生きていく決意をした。
だから、妻にとって追放者達の顛末などどうでも良い事なのだと思う。
「私は黒い髪と赤い目が呪いのようで大嫌いでした……」
ハルの胸の中でトーナは常闇の髪を弄びながら心情を吐露する。
その赤い瞳は、しかし昔のように諦めの色を宿してはいなかった。
「マーレが生まれた時、髪の色があなたと同だと知ってほっとしたの」
次に彼女は愛娘の白銀を愛おしそうに撫で摩る。
出産の時に見せた彼女の安堵の表情をハルは今でも覚えている。
「私はあの国を追われてなお呪縛から解放されていませんでした」
物心ついた時から髪と瞳の色で迫害を受けてきたトーナにとって、国を出たからと言って簡単に拭い去れるものではない。
ハルはそんな彼女の心を救えなかった自分の不甲斐なさを呪った。
「だけど、お祖母様の言葉の意味――薬師の本分は患者の病だけではなく心も癒すものだと悟ったから、それが私と同じ髪と瞳の夜の帳の女王が人々に夜の安らぎを与えるのと同じなのだと分かったから……だから、今では私の色も好きになれました」
自分の髪の色を見詰めるトーナが浮かべたのはファマスの頃の諦念とは違った。それは懐かしむような、愛おしむような、そんな表情。
「こんな風に思えるようになったのもあなたのお陰よ」
「俺は本当に君を救えたんだろうか?」
トーナは祖母の教えと己の力で立ち直れたように見えた。
ハルには自分が妻の助けになれたとは到底思えなかった。
「もちろんよ」
「トーナ……」
トーナはつま先立ちになると、今度は自分から唇を重ねてきた。
「あなたが私を救ってくれたの」
微笑む妻の姿にハルは思う――
自分の愛する妻は治癒師として患者やその家族の続く人生を慮る。だけど、薬師であるトーナとその家族である自分や子供達の人生も同じように続いていくのだ。
今までトーナが診てきた患者とその家族が病に苦しんでいたように、薬師として彼女も苦しんできたのだ。
「トーナが患者に安らぎを与える常闇の女王となるのなら、俺は白銀騎士となって君の安寧を守り続ける」
「ええ、頼りにしてる……愛しているわ、あなた……」
三度お互いの想いを重ねる中でハルは誓った――
これからも病に苦しむ患者をトーナが身を削って支えていくのなら、そのせいで傷ついた彼女を自分が支えていこう……
ずっと……ずっと……これからもずっと……




