徳川家康 徳川信康
徳川家康(1543~1613年)
戦国一苦労大名、日本のカエサル、味噌大名
戦国時代の大名、今川家の人質から最後は大大名になった人物。
独立してからは今川、武田、織田と強敵ばかりを相手にしていたが耐えて耐えて耐え抜いた。
また、家康は武田信玄を手本とし、その戦術と指揮はかなりのものだった言われている。
最後は尼子家の外様衆筆頭になり三河一国、尾張三十万石、信濃伊那郡合わせて約七十万石の大大名になるが、信頼し長く苦楽を共にしてきた三河衆の裏切りにより強制的に隠居させられる。
隠居後は趣味だった薬作りと鷹狩、それと新たに天婦羅作りに没頭している。
最後は自身が作った天婦羅に当たり食中毒で亡くなったと言われているが定かではない。
後世の評価
これ程苦労し悲しい最後を遂げた大名はいないと言われている。
武田との三方ヶ原の戦いにおいては恐怖のあまり脱糞し、「これは味噌だ!」と言ったことから味噌大名と嘲られた。家康は嘲られても堪え忍んでおり、それを見た家臣達はタブーとして口を閉ざした。現在でも徳川の領地だった三河では口にしただけで、住民から滅多打ちにされると言われている。
家康最大の悲劇は犬の様に忠実で長く苦楽を共にしてきた三河衆の裏切りであると推察される。
記録によれば、小田原征伐後、三河衆を中心に徳川家臣全員が家康に隠居するように願い出る連書状に名前を書いて家康に提出し隠居させている。(鳥居元忠、本多正信は、署名せず、隠居を申し出る)※二人とも知っていたと書かれている。
(今も現存しており、徳川歴史館で見ることが出来る)
家康は「元忠!正信!お前達もか!」と人質時代から一緒だった鳥居元忠と自身の右腕の本多正信の特に信頼していた二人の裏切りに大声を上げたと記録されている。
この事からローマのカエサルと似ていた為、日本のカエサルと後世では言われている。
しかし、この話にはもう一つの説がある。
小田原征伐において嫡男信康は見事な働きをし、恩賞は間違いなかった為、今まで耐え忍んで苦労してきた家康には楽に暮らして欲しいと願った三河衆が家康の為に家臣全員の連書状を集め、信康に忠誠を誓うことを示し、隠居させたと言うものだ。
鳥居元忠と本多正信もその思いは同じだったが、無理矢理隠居させることには同意出来なかった為、署名せず共に隠居したとされている。
実際、隠居後の家康は何不自由なく自由に生活しており、鷹狩には隠居した二人も付き添っていると言う記録がある為この説も有力である。
またこの話は家康苦労譚と言う歌舞伎の演目にもなっており、現在でも見ることが出来る。(詳しくは歌舞伎演目を参照)
徳川信康(1559~1640年)
今張遼、三河の誇り、○○大名
徳川家康の嫡男。勇猛果敢で武勇に秀でており、徳川最強本多忠勝に匹敵すると言われている。
信康は武勇には秀でいたが、素行が悪く、家康も手を焼いていた。
しかし、天正七年(1578年)に人質として尼子家に三年滞在し、戻ってきた信康は礼儀正しく別人のようになっていたと記されている。
滞在している三年間、尼子家重臣北畠具教に預けられ礼儀作法と剣術、内政を学んでいたことは記されているが、何があったかは全て消されていた。
信康の武勇を特に知らしめたのは小田原征伐である。
三河物語によれば、信康は単騎で敵陣に乗り込み血の雨を降らせ、三河衆を鼓舞しその活躍を天下に知らしめ、今張遼と呼ばれたと記されている。
実際、小田原征伐では論功行賞で武田家に続いて第二位とし領地の加増がされている。(尼子記)
また、小田原征伐後、父家康を隠居させ家督を継いでいる。
その後は港拡張や街道整備を行い、疲弊した三河を立て直し、尾張では貿易拠点の一つとして整備された港が現代に残されている。
また、自らを鍛え続け兵士達にも指導しており、武芸大会槍の部において不敗だった本多忠勝と互角にやりあえた実力者であったとされている。
晩年は、後進の育成に力を注ぎ、武家の子のみならず民百姓の子まで教えている。
この事が後に徳川家の暗黒期を乗り越えるきっかけになる。
後世の評価
父家康が本陣で指揮を取るのに対して信康は勇猛で自ら先陣に立つ人物だったとされる。
今張遼、三河の誇りと言われているようにその武勇は誰もが認め、三河衆から絶大な信頼を得ていたと考えられている。
一方で、不明な部分も多い。
特に尼子家に預けられていた期間のことや消されている部分が多い人物なのである。
その謎は完全には明かされていないが、ある言い伝えが相模に残っている。
小田原征伐での小田原城攻めで信康は何かから逃げ出して単騎で北条軍に逃げ込んだとされるものだ。
信康は悲鳴に近い何かを叫び、その顔は鼻水と涙で見るも無惨な顔になっておりひたすら道を防いだ北条兵を馬で跳ね飛ばし、周りの者を困惑させたと言われている。
また、信康の後を追って三河衆が悪鬼羅刹の如く北条兵を血祭りに上げたと言う言い伝えが残されている。
また、この事を裏付けるような書状が弟の松平方康から北畠具教に送られている。
その書状には
「兄(信康)は私と共に援軍に来た久具様(具教の子)の笹竜胆の旗を見るなり陣を飛び出し北条勢に単騎で向かわれ、慌てて三河衆が追いかけた。
そのまま一人で敵陣に突撃し味方はその勇姿に心を奪われ、士気が大きく上がったが、兄がそんな危険なことをするのか師である具教様にお聞きしたい」
と言った内容の書状が残っている。
また、他にも北畠具教が三河に来ると言う知らせが来た際、信康が数日行方不明になることがあったり、具教が死んだと知らせが来た際は何度も確認させていたと言われている。
その為、信康の代では「北畠具教、笹竜胆」は禁句に近い扱いがされた。
以上のことから、家康の恐怖と師が武田信玄だったのと同じで、信康にとって北畠具教がそれだったのではと歴史学者からは言われている。
余談だが、信長の○望では北畠具教が敵にいる際は信康の能力が半減、逃走が発動し移動速度が最大値になり、味方にいる際は武勇、移動速度が最大値、三河衆の能力アップ、強制的に先陣突撃が発動し操作出来なくなると言う。
ちなみに信康の能力は以下の通りである。
統率70武勇100知略50内政70外政60
志 三河の誇り
(詳しくは信長の○望を参照)
後進育成
信康は早い段階で隠居し、自ら弁を取り、家臣領民の子に勉学を教えている。
元大名が家臣の子を集め、自身の知識等を教えることはこの時代にはおかしなことではなかったが、民百姓の子にまで教えたのは異例だった。(同じ事をしたのは尼子義久、島津義久、久保のみと言われる)
しかし、これが後に徳川家存続に大きく影響した。
後に徳川家唯一の暗君と呼ばれる五代目、徳川国康が前五代目将軍尼子幸久と起こした、京都事変でお家取り潰しになりかけたが、国を上げて国康を支え、お家取り潰しから三河以外の領地召し上げで済んでいる(詳しくは京都事変を参照)
○○大名
これは元徳川領地では決して口に出してはいけない渾名である。
この渾名が付いたのは小田原征伐後で、今張遼、三河の誇りとは違い不名誉な渾名であるとされている
詳しいことは消されているため現代では分からないが、家康の味噌大名と同じ様なものと考えられている。
現在は大名の部分を残して消されているが20世紀前半(1920年頃)までは残っていたとされ、これを口にした者は行方不明になる者が後を経たなかったとされる。(特に旧三河で)
残念ながら信康の直系は九代目で途切れてしまったが、徳川家の子孫は現在もおり、三河歴史保存会の会長をしている。
余談だが、三河歴史保存会の会員の中には石川、本多、服部など、徳川家を支えた家臣達の子孫も多く入っており、別名三河衆と言われている。




